(辛いことがあって仕事に行きたくない)
【りんね】
「今日の仕事、サボっちまうか?」彼から突然そう告げられたのは憂鬱な気分を引きずりなから出勤準備をしている朝のことだった。え?と、思わず聞き返すと「だからァ〜、今日俺っちとサボらね?」と彼は軽く繰り返す。
……正直、仕事に行くのは辛かった。仕事内容はやりがいがあって好きだけど、人間関係が本当にダメだった。上司が変わってからパワハラがひどくて、辞めていく人も少なくない。私も辞めたいなんて何度も考えたけど、それでも今している仕事が嫌いになれなくてなかなか決心がつけられなかった。行きたくないけど行かなきゃ、辞めたいけど辞められない。そんな毎日の中で精神は少しずつ摩耗していって、職場に行くことがどんどん億劫になっていた。
「サボるとか無理」
「ンでだよ」
「だめじゃん」
「ダメとか誰が決めた?いいだろ別に」
私が何となくムッとして言い返しても、お前が休むんなら俺っちも休んじゃおうかな〜なんて彼は呑気に言っている。誰がサボったらダメだと決めたと言われたら答えられないし、社会通念上とか、サボる勇気がないからとかそんな曖昧な理由からダメなものだと強く思い込んでいるんだろうなと我が事ながら思う。サボろうぜなんて彼の甘言に甘えていいものかどうしたらいいのか分からなくて困ってしまう。燐音の視線から逃れるように俯くと、彼は少し息を吐いて、幼い子供をあやすように優しく私の頭を撫でた。
「辛い思いしてまで行く必要なんてね〜だろって思うけど、お前が仕事に一生懸命なのも知ってっから。…俺っちが、助けてやれたらいいんだけどよ」
彼の穏やかな声色にキュウ、と喉が収縮して涙が溢れそうになる。今現在も相変わらず休みたい気分だけど、もうちょっと頑張ってみようかなって気力がじわじわと湧いてくる。
「もう、いっぱい助けてもらってるよ。燐音がいるから、今日も頑張れる。毎日毎日、助けてもらってるんだよ」
少し震える声でそう伝えたら、彼はさっきよりも一層優しく私の髪に触れて撫ぜた。
【にき】
押し付けられる仕事に辟易していた。誰がするとも決まってない雑用や、他の人の仕事が私にどんどん流れてくる。押し付けられた仕事に時間を取られて自分の仕事が出来ずに残業が続いていた。強く言えなくて引き受けてしまう私も悪いのかもしれないけど、それでも私がどれだけ手一杯になっても誰も声をかけてくれずに、会社に取り残される日々に精神の限界は近づいていた。
…パチリ、とまた今日も目覚める。カーテンの隙間から室内に入り込む光での目覚めは理想的だったけど、気分的には最悪だった。ため息を一つ吐くと、隣で寝ていたニキがもぞもぞと動き出す。
「…ニキおはよ、起こしてごめんね。まだ寝てて」
「おはよーっす…」
彼はまだ眠いのかごしごしと目を擦りながら私の顔をチラリと見る。その瞬間、ぎゅっと眉間にシワを寄せて私を掻き抱くように彼自身に引き寄せた。突然の出来事に一瞬ビックリしたけれど、近くで彼の爽やかな香りがして不安でモヤモヤしていた胸がホッと落ち着く。そのまま甘えてしまいたいけど、出勤時刻が近づいているのでこうしちゃいられない。起きれないから離してほしいなぁと声をかけても彼は唸るばかりで力は一向に弱まらなかった。
「僕、今日休みだから君も一緒に休もう?」
「えぇ?うーん、そうしたいところだけど行かなきゃなぁ」
「……じゃあ、帰ってきたらご飯食べにデート行かないっすか?」
「それもいいけど……食べるならニキのご飯がいいなぁ」
「ホント?じゃあ、今日は君の好きなおかず山盛り作って待ってるっす」
「へへ、それはめちゃくちゃ楽しみだなぁ」
ニキは、最近私の帰りが遅いこととか元気がないことを気にしてくれていたから、今日のひどく沈んだ私を見て我慢できなくなってに仕事に行くことを引き止めてくれたんだろう。こうして自分のことを一番に考えてくれている人がいるって分かるだけで胸がいっぱいになる。今日は絶対残業せずに定時で帰るし、押し付けられる仕事は全部ちゃんと断るよ。
…だって、大好きなニキとニキのご飯が待ってるんだもん。
【こはく】
思い返すと、私が100%悪いというわけではなかったんちゃうかと思う。それでも今回の仕事の責任者は私で、何か不手際があった時に鋭い言葉を浴びせられるんはいつも私やった。グループのメンバーに協力をお願いしてもあまりやる気がないようで力を貸してもらい辛い。それもあってスムーズに仕事が進まんくて、よその企業から苦情を言われる負のループに陥っとる。板挟みもええところで、出勤するのすら辛かった。
「こはく」
「なんや?はよ準備せな遅刻してまうで」
「……あんな、ちょっとだけしんどくて」
「……ほっか」
さっきまで忙しなく動いとった彼がピタリと動きを止めて、食卓の椅子から立ち上がられへん私の目の前にしゃがんで目線を合わせる。アメジストの瞳が優しげで綺麗で、もうそれだけで泣きそうになった。
「なぁ、心痛めつけてまで行かんでもええよ」
「でも、私なんも出来てへんのに休んだらもっとあかんくなる」
「そんなことあらへん。わしは、ぬしはんが誰よりも責任持って仕事に励んどるっちこと知っとる。ぬしはんはよう頑張っとる。もっと自信持ってええよ」
「ほんま?」
「嘘なんかつかん、ほんまやで。辛なったらわしが何回でも言うたる」
彼からのまっすぐな視線が、私だけに一心に降り注ぐ。彼が私だけを見てくれとるって事実だけで、こんなにも嬉しい。誰が認めてくれんでも、こはくが認めてくれるだけで、こんなにも心が軽くなるんやからほんまにすごいわ。
「なぁ、行ってらっしゃいって背中押して」
「行くんか?」
「行くで、こはくのおかげで元気出たし」
「無理せんでな」
「うん、ありがとう」
彼の落ち着いた声がストンと胸の中に落ちる。泣きそうやったけど、彼と話しとったらいつの間にか自然と笑みがこぼれとった。
こはくに背中押してもろたから、玄関から踏み出す1歩も軽く感じた気がするわ。……あぁ、ええ天気やな。今日も1日頑張ってみよか。
【ひめる(俺)】
「どうしても辛かったら行かなくてもいいですが…。でも、行くと言うなら俺と一緒に1日頑張りましょう」
仕事が辛くて仕方がなくて、彼に泣き言を漏らした私にかけてくれた一言だった。彼を困らせるつもりは本当に無かったのだけれど、会社の環境と残業に耐えきれなくて、つい弱音が出てしまった。彼の優しさに励まされて出勤した訳だけど、彼からとにかく細やかに連絡がくる。どれも私を労るものばかりで、この時初めて「俺と一緒に頑張りましょう」と言ってくれた彼の言葉の本当の意味を理解した。彼も忙しいだろうに、私のことを気遣ってくれているのが申し訳ないけど、それ以上に彼からの言葉や気遣いが嬉しくてたまらない。辛くなったらメッセージアプリを開いて彼に返事を返す。その時は辛い気持ちも紛れて、頑張るための活力がどんどん出てくる気がした。
『ひめる、ありがとう。お仕事いそがしいのにごめんね』
『俺が勝手にやってることですから』
『私も頑張るからひめるもお仕事がんばってね。今日は早く帰ってひめるの好きなご飯作るよ』
『それは嬉しいですね。では俺はあなたの好きなお店のスイーツを買って帰ります』
『やった!楽しみだなぁ』
『あと数時間、頑張りましょう』
『うん、がんばろう!』
ふふ、と頬を緩めてスマホを閉じる。辛くて泣きたくて仕方がなかった今朝が嘘みたいだ。離れているのにまるで近くでひめるが励ましてくれてるみたいに心強い。帰宅後の彼との食卓に思いを馳せながら、今日の残りの仕事を片付けるためにデスクに向き合った。