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 今日のホグワーツはいつにもなく静かだった。学年末試験も終わり、生徒たちは今学期最後のホグズミードを楽しんでいるのだろう。燦燦と降り注ぐ太陽が、いつもなら薄暗い廊下を明るく照らしていた。歩きなれた廊下を進み、今年度に入って何度も訪れた部屋にたどり着く。部屋の扉は大きく開いていて、まるでエミリが来るのを今か今かと待ちわびていたかのようだった。

「手伝いましょうか?」

 部屋のドア枠に凭れかかり、エミリは部屋の中で忙しなく動き回る男に声をかける。男はおや、とつぶやいて、こちらを振り返った。それじゃあ、お願いしようかな。そう笑顔を浮かべてエミリを招き入れた男に、エミリは心が痛むような感覚を覚えた。この部屋の主、リーマス・ルーピンは本日をもってホグワーツを去る。
 きっかけは、朝食の席でのセブルス・スネイプの一言だった。朝大広間に現れた彼は、自らの監督するスリザリン寮のテーブルに赴き、リーマスの正体を明かした。その言葉に朝の大広間は蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。エミリはセブルスに抗議しようとしたが、何も言葉を発することはできなかった。元はと言えば、ダンブルドアとエミリが今の状況を生み出したと言っても過言ではないのを思い出したのだ。

「ごめんね、リーマス」

 良心の呵責に耐えられなくなって、エミリは思わずそう口にした。狼人間となったリーマスを止めることも、シリウスの無実の罪を晴らすことも、いくらでもできたはずだった。けれどエミリはそうはしない道を選んだ。――ヴォルデモートを倒す。その目的のためだけに、エミリは友人を見捨てたのだ。

「なんで君が謝るんだい? セブルスの発言は君のせいじゃないし、それがなくとも今回のことが起きてしまった時点で私は教職に就いてはならない人間だ」

 静かにそう告げたリーマスのその表情に、エミリは何も返すことはできなかった。この友人は、自らの境遇のためにどれだけ苦労してきたのだろう。それを充分に感じさせる声色に口惜しい思いがした。

「……そうだ、私も君に謝らなければならないことがある」
「え? どうしたの?」
「君が行ったあと、ハリーがシリウスに君との関係を聞いたんだ。その中でシリウスの弟と、君の関係を話してしまった。了承も得ずに、君の個人的な関係についてハリー告げたのは良くなかったんじゃないかと今しがた考えていたところだよ」

 なんだ、そんなことか。そう思ったけれど、相対するリーマスは申し訳なさそうな表情を浮かべたままだった。この優しい友人は、エミリの“亡くなった恋人”がまだ生きていることを知らない。そんな当たり前のことを思い出して、エミリは複雑な気持ちになった。

「そんなこと、まったく気にしないわ。そもそもハリーがシリウスに尋ねたのだって、もともとはセブルスのあの発言からでしょう? あなたに非はないもの」
「……そう言ってもらえると、心が軽くなるようだよ。だけど、こうなってくるとセブルスにも謝ってもらわないといけないな」
「それはそうかもね」

 冗談めいた口調でリーマスがそう返し、エミリもそれに同意した。お互いにセブルスを恨む気持ちはなかったけれど、茶化してそう言い合うくらいは許される気がした。

 さて、じゃあ何から手伝えば良い? そう尋ねたエミリに、リーマスは山積みになった本の整理を頼んだ。今年の授業で使った本の山々は、ひとまとめにして学校に寄贈するのだという。エミリがその本の数々を分類別に振り分ける隣で、リーマスは使い古したスーツケースに自らの私物を詰め込んでいた。

「ああ、エミリ。ハリーが来るみたいだ」

 数十分ほど、荷造りを進めていたころだろうか。ふいにリーマスがそんな声を上げた。その手元を見れば古ぼけた羊皮紙がある。よくよく見ると、それはあの夜リーマスの部屋で見つけた魔法の地図だった。

「それ、かなり複雑な魔法で作られているみたいだけれど、いったいどうしたの?」
「ああ、これは忍びの地図と言ってね。学生時代、ジェームズやシリウスと作ったんだよ。これを使って彼らはフィルチを掻い潜っていたというわけさ」
「あなたたちって本当にいろいろやってたのね」

 そんな相槌を打ち、リーマスの手元の地図をのぞき込む。確かにハリー・ポッターと書かれた点がこちらへと向かって来て、ものの数秒で部屋へとたどり着いた。開きっぱなしの扉をハリーが律義にノックをして、その音でふたりは顔を上げる。

「君がやってくるのが見えたよ」
「今、ハグリッドに会いました。先生がお辞めになったって言ってました。嘘でしょう?」

 ハリーとリーマスが話し始めたのを見て、エミリはそっと部屋の奥の本棚へと向かった。ふたりの会話を邪魔したくない。そんな思いからだった。
 ふたりが言葉を交わすのを聞きながら、エミリは黙々と作業を進める。そうしてあらかた片付け終え、残るは数冊の本の振り分け作業のみとなったとき、思い出したかのようにリーマスがこう告げた。

「ああ、そうだ。ハリー、私は君のお父さんと友達だったけれど、君のお母さんはエミリと親しかったんだよ」

 リーマスのその言葉に思わず振り返ると、じっとこちらを見つめるハリーに気がついた。エメラルドグリーンの瞳と目が合うと、何だか心の奥が締め付けられるような心地がする。

「そうなんですか?」
「……実は、ね。あなたの写真も貰ったことがあるのよ。寮は違ったけれど、リリーとは入学したころから話す機会が多かったから」

 最後の一冊を机の上に積み上げて、エミリはハリーの方へと足を進めた。

「はじめてあなたに会ったときにそれを言おうと思ったのだけれど、なかなか機会がなくて言えなかったの。知らない先生に急に話しかけられるのも嫌でしょう? けれどもっと早く伝えていればよかったわ」
「いえ、今日それを知れただけでも充分うれしいです」

 そう告げると、ハリーはにっこりと笑ってみせる。その造形は父親であるジェームズとよく似ているけれど、浮かべる表情はまるで違うように感じられた。

「あなたの優しい性格はリリー譲りね」
「僕、古代ルーン文字学を選べばよかった。ときどき、話をしに来ても良いですか?」
「もちろん」

 ハリーとリーマスが再び言葉を交わし始め、エミリはもう一度本棚に向き直る。

 あんなに眩しかった太陽は、どこか穏やかに部屋の中に降り注いでいた。





 大きく開いた窓から吹き込むさわやかな風に、真っ白いカーテンが揺れるさまを見ながら、エミリは紅茶の入ったティーカップに口をつけた。長年ブラック家に受け継がれてきた美しい装飾の刻まれたマホガニー材のテーブルにはこの家のハウスエルフが淹れた紅茶の入ったティーポットがぽつんと置かれている。時刻は夕刻を少しすぎたころで、沈みかけた太陽が赤く部屋を照らすさまをエミリはぼんやりと見つめていた。

 この一年、今になって思うと例年以上に充実した年だった。シリウスの無実を知ったことやハリーと初めて面と向かって会話したこと。そんなことを思い返しながら、エミリはレギュラスのことを考えていた。シリウスが無実だという真実は、ダンブルドアの計らいもあり即座にレギュラスへと伝えられた。その一報を受け取ったレギュラスは、いったいどんな思いだったのだろう。あの兄弟の確執を知るエミリにも、彼がどう感じるかまではわからなかった。

「ただいま」

 一体どれほどの時間が経ったのだろう。太陽はすっかり沈み、カーテンを閉めた部屋にランプの明かりが灯ったころ、この家の主が帰ってきた。重厚感のある布で仕立てられた細身のスーツを纏ったレギュラスは、抱えていた鞄をクリーチャーに預けるとエミリの向かいの椅子に座る。
 ふとその顔を伺えば、何か言いたげな、それでいて何を口にすればよいのかわからないような、そんな表情をしていた。いたずらに手を組んだり離したりしながら逡巡する様子のレギュラスに、エミリはわざと明るい声で話しかけた。

「おかえりなさい。仕事はどうだった?」
「すこぶる順調だよ。ワールドカップに関しては他の部署ではともかく、法務局でやれることはもうほとんどないし」
「あとは三大魔法学校対抗試合を残すのみ、かしら」
「うちとしてはそちらの方がばたつきそうかな。何せ百年ぶりの開催だし、法整備や取り締まり基準の見直しもやったけれど、実際そのときになってみないと首尾よく運ぶかはわからないからね」

 レギュラスとエミリが話し始めたタイミングを見計らって、クリーチャーが飲み物をテーブルに並べる。樽熟成のエールは近頃の漏れ鍋の人気商品だ。グラスに注がれた気泡いっぱいのそれを口に含んで喉を潤すと、レギュラスはエミリを見据えて口を開いた。

「それで、手紙は本当なの?」
「ええ、間違いないわ」

 本当はエミリから知らせを受けた瞬間から聞きたくて仕方なかったであろうことを、やっとのことでレギュラスは口にする。エミリの答えに「そう」とだけ答えてぼんやり頷くと、またエールに口付けた。それはまるで、その複雑な感情を表す言葉を探しているかのようだった。

「今までなぜ家族を裏切ってまで出て行ったあいつが死喰い人になったのか、そればかりを考えてきた。……僕が“死んで”から何があったのだろう、もしかして、僕の死が回りまわってシリウスを闇の道に進ませたんじゃないかと。そんなことを思っていたんだ」

 そう呟くと、レギュラスは俯いていた顔を上げる。その目にはほんのわずかに喜びの色が浮かんでいた。

「けれど、そうじゃなかった。シリウスは、闇に堕ちてなんかいなかったんだ」

 たった一言、それだけの言葉だったが、まるでそれは奇跡のような真実だった。家族を守るために犠牲となったかつての彼の姿を思い出す。ヴォルデモートの魂のかけらを壊すため、誰にも知らせずあの暗い湖に赴いたあのとき、彼はどんな未来を思い浮かべていたのだろう。

 カーテンの隙間からは満天の星空が広がっている。その星を見ながら、エミリはそっとレギュラスの手を握った。まるで降り注ぐような綺羅星が、静かに夏の訪れを感じさせていた。
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