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 バックビークの背にまたがって、ハリーは上へ上へと昇っていく。後ろに乗ったハーマイオニーがハリーの腰にぴったりとしがみつき、怖々とした声を上げた。目指すはホグワーツ城の西塔、フリットウィックの研究室だ。
 箒ほど自在に操ることができるわけではないけれど、バックビークの乗り心地もなかなかのものだった。ハリーはしっかりと手綱を握りしめ、窓から窓へと視線を移す。あそこだ! やっとのことで見つけた部屋には、探していたシリウスと、叫びの屋敷で別れたエミリの姿があった。
 神妙な面持ちで言葉を交わすふたりを見て、ハリーはつい先ほどシリウスから聞いた話を思い出す。ヴォルデモートの部下だったシリウスの弟。彼はいったいどんな青年だったのかを考えた。ハリーは闇の魔法使いを知っている。クィレルやルシウス・マルフォイ、そして、何よりヴォルデモートその人だ。彼らはハリーの大切な人を奪ったり、マグルを迫害したりと悪逆非道の限りを尽くしてきた。叫びの屋敷での会話を思い出す限り、エミリがそんな闇の魔法使いと繋がりがあったなど、俄かには信じられない。

 彼女はいったい何者なのだろう。





 ホグワーツの西塔、この八階にフリットウィックの研究室はある。彼が寮監を務めるレイブンクローの寮生だったころはこの西塔で生活を送っていた。エミリは勝手知ったる談話室の前の廊下を抜け、フリットウィックの部屋へと足を進める。

「フリットウィック先生、ダンブルドア校長に言われて見張りの交代に来ました。校長がお呼びです」

 目的の部屋にたどり着き、こんこんと軽くノックをする。扉が開くと、部屋の中からフリットウィックがエミリを出迎えた。

「エミリ、私は少し寮の談話室に寄ってからダンブルドアのもとに向かうようにしよう。用があれば呼んでくれて構わないからね」

 学生時代からの恩師は、そう告げるとエミリの背中をぽんぽんと叩く。彼はもちろんエミリの“かつての恋人”のことを知っている。だからこそ、見張り役を交代するというダンブルドアの理にかなわない指令を受け入れて、なおかつ何かあったときのためにすぐ近くにある寮の談話室で待つと言ってくれているのだろう。その優しさが何ともくすぐったかった。
 気づかわしげな様子で部屋を後にするフリットウィックを見送って、エミリは部屋に足を踏み入れる。床に座り込んだシリウスがしっかりとエミリを見据えていた。

「うっかりしてたわ。今日が満月だからリーマスを探していたのに、そのことをすっかり忘れるなんて」
「ああ、私もだ。おまけに奴にまた出し抜かれた」

 前置きもなくエミリがそう告げると、シリウスは憎々しげにそう答えた。その両手には鎖が幾重にも巻かれて身動きも取れない様子だった。

「ダンブルドアには今日のことを話してきたわ。信じてはくれたけれど、あなたの無実をどう証明するかには頭を抱えていらしたみたいね。それでも解決策を見つけたみたいだけれど」
「そうか。ペティグリューの身柄を確保しない限り無実を証明するのは難しいだろうが、アズカバンに逆戻りするのは勘弁願いたいね」

 冷めた笑みを浮かべてそう言ったシリウスの顔に、エミリはどこか既視感を覚える。もう何年前のことだろう。彼の弟が全てを諦めるような表情をしていた頃のことをエミリはよく覚えている。
 きっとそれは、シリウスが家を飛び出してすぐの頃だった。

「きみは私のことを恨んでいるのだろう?」

 唐突に、シリウスがそうつぶやいた。先ほどのセブルスの発言を気にしているのだろうか。――そんなことはないのに。そう思ったけれど、その瞬間にふと気がついた。ならばなぜ、あのとき否定できなかったのだろう。

「なぜそう思うの?」
「私はあの家が嫌いだった。だから家を出た。けれどその選択があいつを死なせてしまったのではないかと思うことがある。時々だがね」

 エミリのその問いかけに、シリウスは迷うことなくそう答えた。思いがけないところにシリウスの本音を見た気がした。

「恨んでなんかいないわ。セブルスの手前ああ言ったけれど、彼が死喰い人になったのはあなたのせいじゃないもの」

 その半分は本音で、もう半分は嘘言だ。レギュラスが死喰い人になったこと。ヴォルデモートの真意を知り“死”を選んだこと。そのどちらも、レギュラス自身の選択だ。それを否定することはレギュラス自身を否定することでもある。そう思うけれど、その一方で確かにこう思うのだ。――彼の兄が家を出なければ、レギュラスが闇の道を歩むことはなかったのかもしれない。

「そうか。ならいいんだ」

 そう呟いてシリウスはふっと微笑んだ。張り詰めた顔をしているよりよっぽど彼に似合う表情だ。その顔を見てエミリは先ほど考えていたことを告げるのをやめた。

「あなたが最後にレギュラスと会ったのはいつ?」
「もう覚えていない。……きみは?」
「きっと私が彼がいなくなる前、最後に会った人間ね」

 そんな思わせぶりな言葉を告げて、エミリは微笑んで見せた。幾ばくかの静寂が流れる。もともとあまり親交のない二人だ。共通の話題と言えばレギュラスについてだけ。しかし、これからいくらでも話題は増えていくだろう。
 ふと窓の外を見ると何かがこちらに向かって羽ばたいてくるのが見えた。力強く羽を動かすそれは瞬く間に近づいてきて、部屋の窓の前で止まる。おそらく、本日処刑されるはずだったヒッポグリフだ。なるほど、ダンブルドアはヒッポグリフをも救える道をハリーらに示唆したらしい。ダンブルドアの慧眼に感嘆しながら、エミリはシリウスに話しかけた。

「さて、迎えが来たみたいね?」
「足音でも聞こえたか?」

 扉のほうに目をやってそう答えたシリウスに、エミリは笑って窓を指さした。窓の外、星々が輝く空にヒッポグリフにまたがったハリーとハーマイオニーの姿がある。ハーマイオニーが「アロホモラ!」と唱えると、分厚い窓の錠が開いた。

「ど、どうやって――?」
「乗って! 時間がないんです」

 目を白黒させてそう呟いたシリウスに向かって、ヒッポグリフの首元にしっかりと掴まったハリーが叫んだ。戸惑いの色を浮かべるシリウスに、エミリは急かすように声をかける。

「早く行ったほうが良いわよ。ペティグリューが戻らない限り、ダンブルドアですらあなたの無実を証明することはできないわ」

 杖を振るい、シリウスの両手首に巻かれた鎖を外すと、シリウスは礼を言って窓枠へと飛びついた。ハリーが窓から抜け出そうとするシリウスを手伝う傍らで、ハーマイオニーがエミリを心配するかのような叫び声をあげる。

「ああでも、ミヨシ先生はどうされますか?」

 優しい子だ。シリウスが逃げ出したことでエミリの責任が問われることを心配してくれているようだった。

「誰かが気絶でもさせてくれたら一番いいんだけれど。それは無理だろうし」

 エミリは手に持っていた杖を握りなおして部屋の入口の方へ足を進める。そして落ちていた鎖を持ち上げ自身の右手とドアノブとを厳重につなぐと、杖を窓際まで放り投げた。

「これでシリウスが私を拘束して逃げたと思うんじゃない?」
「エミリ、きみがそんなやつだとは思いもしなかった」

 いたずらっぽく笑いながらそう言ったエミリに、シリウスもにやっとした笑みを返す。そのやりとりに、なぜだか心が通じた気がして、エミリはシリウスをじっと見つめた。ヒッポグリフにまたがったシリウスも、エミリのほうに向きなおる。

「気を付けて。またどこかで会いましょう」
「君も息災でな」

 二人が言葉を交わすのを待っていたかのように、ハリーは手綱を一振りした。その瞬間、三人を乗せたヒッポグリフは翼を大きく羽ばたかせる。力強いその羽ばたきはどんどん遠くまで離れて行って、やがて雲の向こうまで去っていった。
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