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 ふと顔を上げると長々と降り続いていた雨が止んだことに気がついた。窓の外の街路樹には雫がきらきらと輝いており、まるで雨の季節のつかの間の晴れ間を表しているようだった。その景色を見ていると、ぷつんと集中が切れた気がして、立花千智はつらつらと書き連ねていた筆を置いた。

「お疲れさん。ちょっとは休憩したらどうだ?」

 同じ執務室にいた阿近が温かそうな湯飲みを片手に声をかける。現世でよく親しまれている珈琲なる飲み物だと言う。千智は苦味の強いそれがあまり得意ではなかったが、阿近はその苦味こそ良いのだと言い、頻繁にその黒々した液体を湯飲みに注いで口にしていた。

「キリのいいところまでやっちゃいたいんですよね。うちって阿近さん以外誰も書類の処理したがる人いないでしょ?」
「俺だってやらなくていいならやりたくねえよ。隊長も副隊長も自分がやらなくていい仕事は一切やらねえから仕方なしに、だ」
「それ、十一番隊よりマシかと思ってたんですけどね」
「あっちは喧嘩馬鹿、こっちは研究馬鹿ばっかりだからな。綾瀬川の奴はお前がうちに異動になって歯噛みしてんじゃねえか?」
「あはは、この前愚痴を聞かされました。誰も机仕事をしたがらないって」

 十二番隊に異動して早半年。ようやく業務に慣れはしたが、古巣の十一番隊が懐かしくなることもある。何せ護廷十三隊に入隊してからずっと所属していた隊だ。戦いの基礎を学ばせてもらい、死神としての任務の何たるかを教わった十一番隊には非常に思い入れがあった。

「ま、けどお茶くらい淹れてこようかな。阿近さんもいります? 珈琲飲んでるからいらない?」
「いらねえ。ありがとな」

 机の上に置かれた湯飲みが空になっていることに気がついて、千智はそっと立ち上がった。ひらひらと片手を振る阿近の横を通って、執務室を出る。廊下の先にある給湯室でお湯を沸かしていると、見知った霊圧が近づいていることに気が付いた。

「あれ、檜佐木じゃん」
「おう、久しぶりだな」
「どうしたの? こんなところで」

 給湯室から顔をのぞかせると、案の定思った通りの人がそこにいた。
 檜佐木修兵。千智とは真央霊術院時代の同窓だったが、今や九番隊の第三席という副官補佐の座に就いている同期一の出世頭だ。

「瀞霊廷通信。手が空いたから各隊に配ってるんだよ」

 そう言うと檜佐木は左腕に抱えた雑誌の束を見せる。檜佐木のいる九番隊は死神としての通常業務のほかにも機関誌である瀞霊廷通信の編集や発行を担っていた。通常であればその配布は平隊員の役目だが、近頃は虚の出現数も少なく、流魂街の情勢も安定しているため、どこの隊も人手が余っているのだろう。

「そういえば立花、お前昇格したんだろ? うちの隊長に聞いたぜ。おめでとう」
「ありがとう。って言っても五席だけどね。まだまだ檜佐木には敵わないわ」

 ようやく沸いたお湯を急須に注ぎながら、千智はそう返す。お茶の葉が開くのを待っている間に、千智は檜佐木が持ってきた機関誌の存在を思い出した。

「それ、預かろうか?」
「いいよ、すぐそこだし」

 瀞霊廷通信に目をやりながらそう尋ねたものの、その問いかけを檜佐木はあっさりとかわしてしまう。思えば院生時代から、こういう硬派な一面 —— 例えば女性に重い荷物を持たせないというような —— があった。
 そういえば昔からモテてたもんなあ。なぜかそんな感傷に浸りながら急須から湯飲みにお茶を注ぐ。檜佐木に憧れている同級生は多かったし、今もきっとその優しさに胸をときめかせている同僚もたくさんいるのだろう。

「つーかお前のところも今落ち着いてるんだな」
「まあね。どこも同じじゃない? 嵐の前の静けさじゃなければいいけど」
「不吉なこと言うなよ……」

 千智がお茶を淹れ終わるのを待って、檜佐木は執務室へと足を向けた。隣り合って廊下を進みながら言葉を交わす。目的地である執務室の静けさを感じて、檜佐木はそんなことを言ったのだろう。十二番隊の隊員たちはそのほとんどが技術開発局の局員も兼務している。そのため隊の業務がひと段落すると自身の研究室にこもる者が増え、必然的に執務室が閑散とするというのは周知の事実でもあった。
 
「今日定時上がりか?」
「このまま何もなければたぶんね」

 執務室の扉の前ににたどり着いたところで、檜佐木が唐突に足を止めてそう言った。千智もそれに倣うように足を止め、言葉を返す。

「だったらメシでも行こうぜ。立花の昇格祝いってことで」

 できれば、二人だけがいいんだけど。
 そう続けられた言葉に千智はほんの一瞬面食らった。

「う、うん。もちろんいいけど」
「そうか。よかった」

 そう呟いて、檜佐木は執務室の扉をノックした。部屋にいた阿近の返事を聞いて、檜佐木は執務室の中に入っていく。

「お疲れ様です。瀞霊廷通信持ってきたんすけど、どこに置きましょうか」
「おう。そこの共有の机に置いといてもらえるか?」
「ういっす」
「お前も暇そうだな」
「阿近さんこそ」

 そんなやり取りを終えて、檜佐木がいまだに扉の前でたたずんでいる千智のほうへと戻ってくる。
 またあとで連絡する。そう小さく告げて、檜佐木は早歩きで執務室を去っていった。その後ろ姿を思わず目で追いながら、千智は思わず持っていた湯飲みを握りしめた。熱い。予想以上の温度に一瞬湯飲みを落としそうになりつつも、千智はやっと執務室の中に足を踏み入れる。

「で、お前は何でそんな挙動不審なんだよ」
「……そんなの私が聞きたいです」

 院生時代の同期であり、交友関係も似通っている。そんな関係だからこそ、檜佐木と食事を共にするのはそう珍しいことではなかった。けれど —— 。檜佐木と二人きりで食事に行くなど、長い付き合いの中で初めてのことだったのだ。
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