02

 思いがけず動揺してしまった。
 そんなことを思いながら伝令神機の画面を見る。時刻は十八時。夜勤の隊士との引継ぎを終えて、千智は執務室を出たところだった。伝令神機には待ち合わせの時間と場所が送られてきている。取り急ぎ、業務が終わった旨を返信して、千智は待ち合わせ場所へと足を進めた。

 きっと檜佐木にとっては他意はないはずだ。千智としても、終業後に誰かとふたり、居酒屋で一杯ひっかけて帰るだなんてよくある話だった。それが、阿近や弓親相手なら。
 珍しい相手から珍しい誘いがあったから驚いただけだと言い聞かせて、千智は瀞霊廷の外れを目指す。瀞霊廷の外れには、護廷十三隊の死神御用達の繁華街があり、その街の入口近くにある落ち着いた雰囲気の小料理屋が檜佐木の指定した店だった。

「おー、お疲れ」
「お疲れ。さすが、早いね」
「九番区からこっちに来るときには近道があるんだよ」

 店の近くまで来たところで、壁に寄り掛かった檜佐木の姿を見つけて、千智は小走りで駆け寄った。気怠げに伝令神機をいじっていた檜佐木は、近寄ってくる千智に気が付くと、手に持っていたものを懐にしまい込んで姿勢を正す。

「適当に選んだけど、ここで良いか?」
「大丈夫。実はまだ来たことなかったし」
「お、じゃあちょうどいいな」

 そう返しながら、檜佐木は店の暖簾をくぐった。店内には檜造りの机がぽつぽつと距離を保って並んでいる。出迎えた店主らしき人が、その中の奥まった席に二人を案内して檜佐木に品書きを手渡した。とりあえず、と注文した冷酒を受け取って、二人は小さく乾杯した。

「今日蒸し暑かったから冷酒が美味しいね」
「この一杯のために頑張ってる気がするわ、俺」

 そんな言葉を交わしながら檜佐木は品書きの冊子をめくる。武骨だけれど細長い指がぺらぺらとページをめくっていく様を見ながら、ふと檜佐木に誘われてからずっと頭の片隅にあった言葉が口から飛び出した。

「……今日はどうしたの?」
「何が」
「珍しいなあって。ふたりで飲みに行こうだなんて」

 品書きから顔を上げて、檜佐木は怪訝そうな表情をする。その鋭い瞳にじっと見つめられるのはなぜだか緊張して、千智はこっそりと目をそらした。

「いや、深い意味はねえよ。最近話せてなかったろ。お前、近ごろ飲み会も来ねえしな」

 檜佐木はそう言うと、ほら、と品書きを差し出した。刺身と焼き鳥頼むけど、他はどうする。そう続いた言葉に千智は慌ててだし巻き卵とつくねをリクエストする。檜佐木が片手をあげて店主に注文内容を伝えるのを横目に見ながら、取り繕うように言葉を続けた。

「いやあ、異動してからどうも慣れなくて」
「でも希望だったんだろ? 入隊試験のときも配属願い出してたじゃねえか」
「よく覚えてるねえ」
「だって珍しいだろ。院生のころの配属願いで十二番隊を選ぶなんて」

 檜佐木のその言葉に、千智は確かに、と呟いて小さく笑う。確かに、技術開発局を傘下に持つ十二番隊に配属願いを出すだなんて、よっぽどの変わり者か学者気質か —— 。そんな扱いをされることがほとんどだった。隊長を筆頭に変わり者尽くめであることは、十二番隊隊員である千智としても否定はできなくて、そう言われるとただ笑うしかない。

「そんなに忙しいのか? そっちは」
「隊の業務はそんなに。やることは十一番隊にいたころと変わらないし、今は落ち着いてるけど、今度は技局があるから」

 千智は知らないことをどんどん解明できる技術開発局の業務が好きだ。だからこそ院生時代から配属願いを出し続けてきた。
 けれど、もし自らの生い立ちがなかったら。ここに固執することなんてなかったかもしれない。そんなことをふと考えた。

「夜通し研究が続いたり数日間泊まり込んだりは日常茶飯事かな」
「大変そうだな」
「でも檜佐木もそうじゃない? 瀞霊廷通信、校了日なんて修羅場だって聞くけど」
「まあな。でもまあ俺は入隊してからずっと九番隊だし、もう慣れた」

 そんなとりとめのない会話をしながら、千智はお猪口に口をつける。ほんの少しだけ、ほっとした。意識していたのは、自分だけのようだった。それで良い。心の底からそう思った。院生時代から、檜佐木はモテる人だった。当時の親友が恥ずかしそうに千智に告げた言葉を思い出す。私、檜佐木くんが好きなの。そう言って笑った彼女はとても眩しく、可愛らしかった。

「檜佐木ってさあ」
「ん?」
「休みの日とか何してるの」
「なんだよ、急に」

 ふとそんなことを思いついて、千智は檜佐木にそう問いかけた。今日ここに来てから仕事の話しかしていないことに気が付いたのだ。檜佐木とはそこそこ長い付き合いだったけれど、不思議なことに、休日の話をすることなんて今までほとんどなかったことに驚いた。

「最近はこれだな」

 そう言って、檜佐木は伝令神機を取り出すと一枚の写真を見せる。三味線のような姿かたちの、けれど三味線とは少し違う弦の張られた楽器のようなものが写り込んでいた。

「何これ、楽器?」
「ギターっていう現世の楽器でさ。昔現世への駐在任務に行ったときに買ったんだ」
「現世っていろいろなものがあるのねえ。たまに映像で見るけど、すごい技術だと思うわ」

 技術開発局には現世の霊的安定の監視を行う霊波計測研究科や現世と尸魂界間の通信を担う通信技術研究所など、現世の様子をモニターする役目をもった機関も含まれている。基本的にはそうした業務は研究科長の鵯州以下研究科員の担当であり、主に護廷十三隊の業務や研究開発を受け持つ千智は普段はあまり関わることはなかったけれど、夜間の当番や有事の際はその監視業務を手伝うこともあった。

「そういえばお前、現世への駐在任務には就いてないんだったな」
「うん。ま、タイミングがなかったんじゃない?」

 千智はそう返すと、お互いのお猪口に酒を注ぐ。徳利のなかの酒が空になったのを見て、檜佐木が店員を呼び止めた。今度はそれぞれ違う酒を注文して、それが届く前に飲み切ってしまおうとお猪口に口をつける。店に来たころにはひんやりと冷たかった酒が、室温でぬるくなっていた。
 本当は、タイミングの問題ではなかったのだろう。何となくだが、そう思う。千智がこれまで現世に降り立った回数は片手で足りるくらいだ。誰かに何かを言われたわけではなかったけれど、千智が現世に長居することを嫌がる者がいたことは想像に難くなかった。

「そういうもんか」
「そうそう。きっとね」

 少しの沈黙。店員が運んできたグラスを受け取って、それをぐいと呷った。梅酒のさわやかな甘みが舌の上を転がって沁みるような心地だった。洒落た店は酒も良いものを出しているのだろう。そんなことを考えていると、檜佐木の長い指が自らのグラスを引き寄せるのが目に映る。

「何頼んでたっけ」
「これか? 芋焼酎」

 檜佐木は氷の入ったグラスに口をつけると、それを一口、味わうように口にした。男前だなあ。ふとそんなことを思う。意志の強い切れ長の瞳。目つきが悪いと言ってしまえばそれまでだけれど、その瞳がくるくるといろんな表情を描くさまを千智は知っている。それくらい、長い付き合いではあった。
 そんなことを考えながら、檜佐木をじっと見つめる。千智の視線に気が付いた檜佐木が、ばつが悪そうな様子でグラスを机に置いた。あからさまに見つめすぎたかも。そう思った千智は今度は自分のグラスへと目を落とした。 

「なあ」

 唐突に、檜佐木がそう呼びかけた。なあに、と千智は言葉を返す。けれども檜佐木は何も喋らないままで、不思議に思った千智は顔を上げた。机に頬杖をついた檜佐木と目が合う。何だかいやな予感がした。

「なあ、やっぱり深い意味があるって言ったらどうする?」

 喧騒が消える。まるでここには二人しかいないような、そんな静けさを感じる。それは錯覚にすぎないのだけれど、その静けさに押しつぶされるように千智は口をつぐんだ。どことなく、照れくさそうな表情で、檜佐木は再びグラスに口をつける。この会話をどう導くか、判断は千智にゆだねられていた。

「……それは、どういう意味?」

 やっとのことで口を開く。飛び出したのはそんな言葉だった。

「……いや、なんでもない。そろそろ帰るか」

 檜佐木はそう呟くと、ぐい、と焼酎を飲み干した。そうして立ち上がると、伝票を持って店の入り口へと向かう。あわてて追いかけた千智が財布を出そうとするのを制して、てきぱきと勘定を済ませる。

「ごめんね、ありがとう。ごちそうさま」
「気にするなよ。お前の昇格祝いって言ったろ」

 外に出ると、街には飲み会帰りの団体がいろいろなところで話し込んでいた。ちらほらと見慣れた顔も見える気がするが、会話が盛り上がっているらしくこちらに気が付くことはなかった。
 何かしらの事件が起きるわけでもなく、月末や期末の繁忙期でもない。そんな片時の平穏は、死神にとっては珍しいものだ。きっと、誰しもがその仮初の平和をこうして楽しんでいるのだろう。

「送るわ」

 ぽつりとそう告げて、檜佐木は街の入口へと足を進める。千智はそれを追いかけるようにして、檜佐木の隣へと並んだ。会話はない。続くはずだった会話を投げ出したのは千智のほうだった。
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