その幸福

「人を好きになるってどういうことなんでしょう?」

 夜の帳もすっかり下りたころ、机に突っ伏した後輩が物憂げな様子でそんなことを言い出した。
 瀞霊廷通信の校了日だった。印刷部門に明日の朝には原稿を回せるというところまで作業が終わったころには時計の針は十の数字を指し示そうとしていた。

「何だよいきなり」
「どうやったらあの子に好きになってもらえるかな〜とか、考えたことありません?」

 隊員達から集めた原稿をめくる手を止めて檜佐木修兵が言葉を返すと、後輩は伏せていた顔を上げてそう続ける。はあ、と大きなため息をついた後輩に、檜佐木の直属の部下である七席がしたり顔で口を挟んだ。

「お前なあ、考えてみろよ。檜佐木さんくらいになるとそんなの考えずとも相手の方から寄ってくるんだよ」
「いつもモテモテの檜佐木三席には関係ない話ってことですね! 悔しい!」

 後輩はそう小声で叫ぶと大袈裟に手で顔を覆い、泣き真似をして見せる。後輩のその様を見ながら、七席はにやにやとした笑みを浮かべて檜佐木のほうに視線を向けた。学生時代からの付き合いである七席を中心に時たま九番隊で繰り広げられる、檜佐木をからかう一幕だ。
 もう随分と慣れてしまったそのやりとりを聞き流して、檜佐木は手に持っていた原稿の束を机の端でトントンとそろえながらこう口にした。

「そうか、また失恋したんだな」
「……聞いてくださいよお〜」

 九番区にある小洒落た茶屋の娘とこの後輩が付き合いだしたと聞いたのは半年前のこと。それから事あるごとに檜佐木や七席に惚気話を聞かせてきた後輩だったが、ついにその恋も終焉を迎えてしまったらしい。

「ていうかお前、つい先週の飲み会で俺と檜佐木さんに『超順調なんすよ!』とか言い切ってたじゃねえか」
「それが不思議なところでそう思ってたのがまさかの俺だけだったみたいなんですよ」 

 大真面目にそう言ってのけた後輩に、七席があきれた様子で問いかける。

「なんて言って振られたんだよ」
「『あなたといると楽しいけど、傍にいてほしいときに会えないのは辛い』、です」
「……ああ、そういう……。まあ、繁忙期だったしな」

 尸魂界の機関誌でもある瀞霊廷通信の発刊を担う九番隊は、校了日が近くなると泊り込みで原稿を仕上げることも珍しくない。隊員たちはその仕事に誇りを持って取り組んではいるけれど、どうしてもその時期だけはプライベートを犠牲にしてしまうのが常だった。

「そりゃ寂しい思いをさせていたのはわかってますけど! けど仕方ないじゃないですか! 仕事なんですから!」
「まあ死神やってる以上、それを理解してもらえる相手じゃないとな」
「やっぱり死神同士のほうがうまくいくんですかね〜」

 後輩はため息を吐くと、気落ちした様子で言葉を続ける。

「はあ、どこかに良い人はいないかな……。檜佐木三席は男前だし性格いいし、出世頭だし。実際選り取り見取りなんじゃないですか?」
「……そんなことねえよ」
「檜佐木さん、本命にはずっと片思いしてますもんね」

 からかうようにそう口にした七席の言葉に、後輩は目を丸くする。檜佐木は「おい、」と言って七席を窘めるけれど、その声は後輩の素っ頓狂な声に遮られた。

「えっ! 檜佐木三席ともあろう人が? 片思い!?」
「うるさっ」
「ええええ、絶対うそでしょ……」

 驚愕の表情をその顔に浮かべたまま、後輩はぽつりとそう呟いた。檜佐木はもの言いたげな目で後輩の隣に座る七席に視線を送る。七席は後輩に気付かれないよう肩をすくめてみせた後でこう口にした。

「なーんてな! お前、からかい甲斐のあるやつだな」
「……冗談だったんですかあ!?」

 院生時代から檜佐木の一学年下の後輩として付き合いのあったこの七席は、無配慮に見えて、その実とても気遣いに長けた男だった。
 檜佐木の視線を受けて誤魔化しに入った七席に後輩が食ってかかる様子を横目に、檜佐木はちらりと編集所の最奥にある部屋を窺う。

「お、隊長もまだ編集長室だな。原稿渡してくるわ」

 編集所の最奥、編集長室に明かりが灯っていることを見つけて、檜佐木は原稿を片手に立ち上がる。そのまま七席に向けて口の形だけで「悪いな」と呟くと、七席はひらひらと片手を振って檜佐木を見送った。
 昔から檜佐木と馬があったこの七席は、檜佐木のからかい方や、悪ノリの引き際まで熟知している。そういう七席だから、と言うべきだろうか。やはり檜佐木が真央霊術院時代の同期に長年懸想していることも、もちろんよく知っていた。

「人を好きになるってどういうことなんでしょう?」

 編集所の最奥にある編集長室へと向かいながら、檜佐木は後輩の哀愁を帯びた声色を思い出した。
 人を好きになる——。そう言われて脳裏に思い浮かぶのは、たった一人しかいない。
 彼女のことを意識し始めたのは、いったいいつのことだっただろう。記憶の糸を辿ろうとして、思い返すまでもなくあの瞬間が脳裏に浮かんだ。


  —— あれは、雨の日のことだった。

 篠突く雨に濡れながら、やりきれない思いで彼女に頭を下げたあの日のことを、檜佐木は決して忘れることはないだろう。



  ◇◇◇



 物静かで大人しい同級生。それが、彼女 —— 立花千智の第一印象だった。

「この中に朽木家の飼い猫がいるらしいぜ」

 真央霊術院の入学式で、隣に座った檜佐木にそんなことを耳打ちしてきたのは誰だっただろう。今やその顔も声も忘れてしまったけれど、言われた言葉だけはいまだに耳にこびりついている。
 流魂街出身で当時は瀞霊廷のことなど何ひとつわかっていなかった檜佐木ですら耳にしたことのある大貴族の、その飼い猫。その言葉が揶揄する意味がわからないほど鈍くはない。
  —— ほら、あいつだ。そう呟いて隣に座る同級生が指さした先にいたのは、式辞を述べる学院長をまっすぐ見つめ、熱心にその話を聞いていたごくごく普通の女の子だった。

 どうやら朽木家の血縁でも、はたまた養子というわけでもないらしい。学生という生き物は噂話が大好きで、件の立花千智についてもそんな噂がよく取り沙汰されていた。
 なぜそんな彼女が幼少期を四大貴族の家で過ごしたのかを勘ぐる人も多く、実は当主の隠し子だとか、はたまた色好みの子を貴族の道楽で育てているのだとか、そういう聞くに堪えない俗言ににさらされた彼女を気の毒に思ったことをよく覚えている。


 真央霊術院の第一組はいわゆる特進学級に位置付けられており、学年を上がっても試験の順位が大きく入れ替わらない限りは面子が変わることはほとんどない。そんな環境で、檜佐木も千智も一組から離れることなく、六年間を共にした。
 時が経つにつれ、入学当初飛び交っていた彼女にまつわる噂はだんだんと消えていった。
 千智の為人はきわめて穏やかで、いつも落ち着いた印象を見る人に与えていた。人当たりが良く、けれど決して無遠慮に踏み込みはしない千智の立ち振る舞いこそが、あの趣味の悪い風評をことごとく消し去ってしまったに違いない。檜佐木はそんなことを考えていた。

 誰とでもうまくやっていた彼女だったけれど、特に親しくしていたのは蟹沢ほたるという少女だった。しっかりものでいつも友人たちの中心にいた蟹沢と、人当たりは良いものの、どこか周りと一線を引いているように見える立花。ふたりは凸凹のように思えても何やら気が合ったらしく、仲良く言葉を交わしたり、どこかへ連れ立って歩いたり、そんなふうに日常を過ごしていた光景がどうにも目に焼き付いている。


 六回生に進級してしばらく経った、初夏。
 毎年恒例の、一回生の初めての魂葬実習が行われることになった。
 一回生の魂葬実習は、引率として卒業間近の六回生が先導するのが習わしだ。その役目に檜佐木と蟹沢、それに青鹿というもう一人の同級生が選出され、現世に赴いたのが昨日のこと。


「悪い」

 現世実習を終え、尸魂界に帰還した翌日。檜佐木は雨の強く降る丘で、傘も差さずにそう頭を下げた。目の前には酷く憔悴しきった顔をした千智がぎゅっと唇を結んで立ち尽くしていた。

 一回生の魂葬実習の引率として現世に赴いた檜佐木らを待っていたのは、院生たちだけで行われる魂葬実習の対象地域で出現するはずのない、凶悪な巨大虚だった。死神ですら、席官になってようやく対抗できるだろうと思われるほどの力を持った虚である。ましてや院生たちのみの集団だ。どういうわけか霊圧を消して忍び寄ったそれに抵抗する間もなく、青鹿は戦線離脱し、蟹沢は亡くなった。

  —— なすすべなどなかったことだ。あまり気に病まず、忘れなさい。
 誰も予期できなかったその虚の襲来に、教員たちは慰めの言葉を投げかけた。何の意味もない言葉だと檜佐木は思う。あのときあの場にいたのは教員たちではなく檜佐木で、一回生を除き、唯一戦うことができたのも檜佐木だけだった。

 俺に力があれば、もっと強ければ —— 。そんな思いが浮かんでは消える。もっと早く虚の気配に気づいてさえいれば、蟹沢が亡くなることなどなかったはずだ。そんなことを思うから、蟹沢の葬儀を終え、真央霊術院の裏手にある小高い丘に佇む千智の姿を見つけたとき、檜佐木は彼女に声をかけずにはいられなかった。

「顔を上げてよ、檜佐木くんのせいじゃないよ」
「けど、俺が!」

 ほとんど泣き出しそうな声で檜佐木を止めようとする千智の言葉を、檜佐木は喉が引きつるような心地でそう遮った。やりきれなかったのだ。幼いころに死神に命を救われて同じ職を志したけれど、檜佐木はすぐそばにいた同級生すら護ることができなかった。
 いつの間にか、降りしきる雨が顔に当たらなくなっていた。目の前に立つ千智が差していた番傘を自らが濡れるのも厭わずに檜佐木のほうに傾けていたことに気付いたその瞬間、彼女は檜佐木の肩にそっと触れる。少しだけ躊躇うような素振りを見せたあとで千智が檜佐木の体を静かに引き寄せた。

「檜佐木くんのせいじゃない」

 赤い番傘がぐっしょりと濡れた地面にぽとりと落ちる。その傘に追いすがるように、ふたり地面に座り込んで、千智はそう繰り返した。

「死に美徳を求めるなとは言うけれど、あの子だって覚悟はしてたはずよ」

 死に美徳を求めるな —— 。それは、死神を志す者なら誰でも知っている一節だ。真央霊術院の教本にも掲載されているそれを千智はそっと口にする。その瞳が雨粒ではない何かで濡れているのをぼんやりと目にしながら、檜佐木は震える声で小さく呟いた。

「護るべきものを護りたければ、倒すべき敵は背中から斬れ。基本中の基本なのに、そんな簡単なこともできなかった」
「でも、檜佐木くんが護ったんでしょう。あの一回生の子たちを」

 震える声でそう呟いて、千智はそっと檜佐木の頭を撫でる。親友を亡くした相手に、いったい何をさせているのだろう。自分よりもずっと悲しくて悔しくて仕方がないはずの女の子にそんな真似をさせていることを口惜しく思いながら檜佐木は彼女の言葉に耳を傾けた。

「檜佐木くん、死神になろう」

 涙声で、けれども千智ははっきりとそう口にする。

「護りたいものを護れる死神に」

 そう続いた言葉に、檜佐木は目の前にある震える肩をしっかりと抱き寄せて声にならない声で「ああ」とだけ呟いた。
 降り続く雨に濡れながらそうしてふたりで涙を流したこの日のことは、きっと生涯忘れることはないだろう。そんなことを考えながら。



  ◇◇◇



「どうぞ、入って構わないよ」

 扉の奥からそんな声が聞こえて、檜佐木ははっと我に返る。物思いに耽っていた間に、いつの間にやら目的の場所にたどり着いていたらしい。気配に鋭い東仙がなかなか扉を開けようとしない檜佐木の存在に気が付いて、そう声をかけるのも道理だった。

「はい、失礼します」

 檜佐木は頭を振って気持ちを切り替えると、あえてはっきりとした声でそう告げた。編集長室の重厚な机に向き合って座っていた東仙は、穏やかに檜佐木に微笑みかける。

「ずいぶんと楽しそうだったね」
「……っと、すみません。やかましくて」

 どうやら編集部でのやり取りが筒抜けだったらしい。校正作業は終わったとは言え、自隊の隊長がまだ残っている状態で些か騒ぎすぎたかもしれない。そんなことを思いながら檜佐木は謝罪の言葉を口にする。そんな檜佐木に、東仙は朗らかに笑いながら手を振った。

「いや、いいんだよ。活気があふれるのは良いことだ」

 東仙は原稿を受け取ると、そのままそれを机の片隅に置かれた箱に丁寧に仕舞う。この箱に入れられた完成原稿は、副隊長が念校を行い、最終的には瀞霊廷通信編集所の一階にある印刷所に引き渡される、というのが瀞霊廷通信発刊までの流れだった。

「これで良し。遅くまでご苦労様。お茶でも飲んでいくかい?」
「……ありがとうございます。ぜひ」

 東仙は口元に笑みを浮かべて立ち上がり、編集長室の一角にある小さな作業台へと足を向けた。簡易的な台所を模したそれは、料理好きな東仙が九番隊の隊長兼瀞霊廷通信の編集長に就任した際に設置されたものらしい。東仙はその作業台においてあった急須から慣れた手つきでお茶を注ぐと、檜佐木のほうにそれを差し出した。

「ほら。その椅子に掛けて飲むと良い」
「ありがとうございます」

 ゆらゆらと白い湯気が立ち上るそれは檜佐木が入室する直前にでも準備をしていたものなのか、まだじんわりとした温かさを保っている。檜佐木がその湯飲みを片手に執務机の前にある応接用の椅子に腰かけると、東仙も檜佐木の座る向かいの椅子に腰を下ろした。

「いやあ、うまいっすね」
「だろう? 今日の茶葉は浮竹が分けてくれたものでね」
「あー、浮竹隊長。お茶にはこだわりがあるって言ってましたっけ」

 浮竹隊長が好んで飲むといえば、最高級の玉露ではなかっただろうか。銘柄こそ思い出せなかったものの、以前瀞霊廷通信の取材で聞いたその事実を思い出して檜佐木は思わず湯飲みの中を凝視した。そんな檜佐木の行動に気付いているのかいないのか、東仙はにこやかな顔で口を開く。

「そういえば、何の話をしていたんだい?」
「いや、東仙隊長の耳に入れるほどのことでは……」
「なるほどね。……時に檜佐木、君の同期の立花さんが昇格したらしいね」

 唐突な東仙のその言葉に思わず湯飲みに向けていた目線を上げる。目線の先にいた東仙はとても楽しげな笑みを浮かべていた。

「……隊長、聞いていらっしゃいましたね?」

 盲目ながらも隊長の役職まで上り詰めた人である。東仙は聴覚や人の気配などの感覚にはきわめて敏感で、加えてあの後輩の大声ならきっと編集長室にいた東仙にもしっかりと聞こえていたのだろう。
 さらに言えば、どこでそれが伝わってしまったのか檜佐木には全く分からなかったが、どうにも東仙は檜佐木の隠し続けてきた気持ちに気付いている節があった。

「なに、聞こえたんだ。……彼の声はよく通るから」

 そう返した東仙は手に持っていた湯飲みに口を付ける。ひとくち、ふたくちとお茶を口に含むと東仙はわずかに口を噤む。何かを言いよどむかのような、そんな沈黙がほんの一瞬漂ったあと、東仙は檜佐木にこう告げた。

「檜佐木。私はね、感情を共有したくなることこそが人を好きになるってことだと思うよ。何を嬉しく思うとか、自分にとって何が幸せだとか、それだけではなくて、辛いことも、悲しいこともね」
「……はい」
「伝えられるときに伝えておかなければ。……人間ほど寿命が短いわけではないけれど、失うときは一瞬だからね」

 そう穏やかに語る東仙の声を聴きながら、檜佐木はかつて聞かされた彼が死神になった理由を思い出した。亡くなった友の遺志を継ぎ、正義を貫くというのはどんなに大変なことだろうと思う。
 死神を志したきっかけこそ違うけれど、今でも死神を続けることができているのは、きっとその東仙の強い意志を支えられるような部下でありたいという思いからだ。そんなことを考えながらじっと東仙の顔を見据える。

「はい。肝に銘じます」
「ああ、そうだ。私も伝えられるときに君に伝えておくけれど、」

 檜佐木のその返事に東仙は満足そうに微笑んでそう前置きする。どこか哀愁の漂っていたその表情が穏やかな笑みに変わり、檜佐木は思わず身を引きしめた。そのあとに続く言葉には薄々ながら心当たりがあった。

「前にも話したが、今の副隊長は家業を継ぐことを考えているそうだ。彼は貴族の出だから、その引退除籍の希望もしばらくすれば特例として認められるだろう。後任には君を推薦しようと思っている。……受けてくれるね?」
「隊長がそう仰ってくださるなら」

 檜佐木のその言葉に、東仙は満足そうな笑みを浮かべる。そうして再び手元にあるお茶を口に運ぶとあたりには柔らかな沈黙が漂った。遠くには微かに雨の降り注ぐ音がして、まるで梅雨の訪れを告げるような雰囲気すら漂っていた。



  ◇◇◇



 翌日。雨上がりの瀞霊廷を檜佐木は瀞霊廷通信を抱えて歩いていた。雨露に濡れた路面に太陽の光が反射して、さながら銀色の鏡のようにも見える。そんな道のりをしっかりとした足取りで先を急ぎながら、檜佐木は昨晩の東仙の言葉を反芻した。

「私はね、感情を共有したくなることこそが人を好きになるってことだと思うよ。何を嬉しく思うとか、自分にとって何が幸せだとか、それだけではなくて、辛いことも、悲しいこともね」

 ああ、その通りだ。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 思えば彼女のことを意識し始めたのは、あの檜佐木にとって最悪の出来事が起きてからだった。あの事件は今でも割り切れない思いがするけれど、それでも前を向けるようになったのは千智のおかげだ。あの土砂降りの雨の日に、彼女と時間を共有しなければ自分はきっと死神になることをあきらめていただろう。

  —— あいつはどうなんだろう。

 これから行く先にいるはずの、千智のことをふと考える。あの日、彼女は無二の親友を失った。檜佐木は千智の言葉に確かに支えられたけれど、はたして彼女はどうだったのだろう。自分は彼女の励みになれていたのだろうか。そんなことを思った。

 物静かで大人しい、けれど人当たりがよく誰にでも友好的だったかつての同級生は、護廷十三隊に入隊してもその性質を変えなかった。しかし、周囲の視線は院生時代とは少し違ったように思う。
 院生時代に彼女に向けられていた好奇の目は、護廷十三隊に入隊するとどこか訝しがるようなものに色を変えた。今ではそれも収まったけれど、その世間の眼差しに、檜佐木のほうが戸惑ってしまったことがとても印象に残っている。

 ある種の色眼鏡のようなそれが朽木家で育ったことによるものか、はたまたいなくなってしまったという兄の存在に起因するものか、檜佐木には推し測ることしかできやしない。それでも、叶うならいつか千智の事情も感情も、すべて共有してもらえるような立場になれたら良い。そう強く思った。

 ふと見覚えのある隊舎が見え、目的地に到着したことに気がついた。入口を通り、執務室に続く長い廊下を足を進める。半分ほど廊下を進んだところで、よく知る霊圧を感じて檜佐木は瀞霊廷通信を抱え直した。

「あれ、檜佐木じゃん」
「おう、久しぶりだな」

 廊下の端にある給湯室を覗くとたった今思い浮かべていた人がいて、檜佐木は平静を装って返事をする。

  —— 伝えられるときに伝えておかなければ。
 昨晩の東仙の言葉をまた思い返して、檜佐木はそっと覚悟を決めた。
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