夏の終わりの昼下がり。十二番隊の隊舎を訪れた弓親がにやにやとした笑みを浮かべてそう問いかけた。
偶然にも十二番隊の同僚たちはみな出払っており、どうやら弓親はそれを良いことに少しばかりここで時間を潰すことにしたらしい。千智の隣にある空き椅子に勝手に座り、彼はひどく楽しそうに笑っている。
「どこで聞いたんですか、それ」
思わず渋面を作ってそう聞いたものの、噂の出処を突き止められることはないだろう。以前の二人での食事に行った場面が目撃されていたのか、それとも先日の任務を境に檜佐木と千智の距離が近くなったことに気が付いたのか。
発端はわからないけれど、檜佐木と千智の関係はどういうわけか瀞霊廷じゅうで —— と言うと過言かもしれないが、少なくとも檜佐木や千智の親しい者たちの間で —— 噂されるようになっていた。弓親もきっと、その噂話を聞いてここに来たに違いない。
「……どうせなら、自分の口から報告したかったです」
「ははっ、かわいいこと言うね」
弓親は笑って目の前の机に頬杖をつく。ちょうど千智の表情を覗き込むようにこちらに顔を向けて、それからどこか意外そうな口調でこう言った。
「もう少し先になるかと思ったけど、思いの外早かったね」
「……そんなこと考えてたんですか?」
「うん。きみ、自分の感情に素直になるの、苦手だろ」
ゆるく細められた弓親の瞳と目が合う。
「弓親さんって……」
「ん?」
「いえ、何でも」
どうしてこんなにも、妙に痛いところを突いてくるのだろう。そう思ったけれど、それを問いかけることはしなかった。おそらくは付き合いの長さゆえであり、それだけ彼が千智に心を砕いてくれている証なのだと思う。そして、そういう人が身近にいることは、きっととてもありがたいことだ。
「お兄さんのことは昇華できたの?」
「……保留中です」
「お友達のことは?」
「それは、まあ、ぼちぼち」
「へえ、きみにしては進歩じゃないか」
感心したようにそう言って、弓親は千智に微笑みかける。
かつて弓親に語った“院生時代の親友”の存在は、今なお千智の心に深く根付いている。亡くなってしまった彼女。本当なら、檜佐木と縁を結ぶのは彼女のほうだったのかもしれない。そんなことを考えると何だか悲しく寂しい気持ちを覚えるけれど、過去を変えられるはずなんてなくて、生きている者こそ前を向かなければならない。
そんなふうに千智が思えたのは、千智と檜佐木の関係を祝福してくれる弓親の人がいるからだ。
「良かったね」
「ありがとうございます」
温かな声だった。死神になってから今まで千智に寄り添い励ましてくれた人にそんな声をかけられるのはなんだかくすぐったい。
そんなことを考えながらお礼を言うと、弓親はとびっきり嬉しそうに笑ってみせた。その笑顔を見て思い出す。千智たちを祝福してくれたのは、弓親だけではないことを。
あの任務の翌日。どういうわけかたまたまふたりとも非番がかち合っていたらしく、千智と檜佐木は瀞霊廷の外れにある霊園を訪れていた。彼女 —— 蟹沢ほたるが眠る霊園だ。
千智がここに来たのは、ほたるの命日ぶり。聞けば檜佐木のほうは仕事が立て込んでいたこともあり、しばらくここには来れていなかったらしい。手ぶらで行くのも憚られ、霊術院の近くにある和菓子屋に立ち寄りお供えを購入した。選んだのは、あの日ほたるとふたりで食べたあの苺大福だ。
夏もようやく終わろうとしているのに、日差しは強く、まだまだ暑さを感じる。思えばこの夏はさまざまな変化があった。檜佐木との関係もそうだし、何より千智の内面が少しだけ前向きになれたような、そんな気がする。柄でもなく浮かれた気持ちを自制しながら、買ってきた苺大福を供え、墓前に手を合わせた。
(ごめんね、檜佐木と付き合うことになったよ)
心の中で小さくそう告げる。こうなってしまったことにほたるは何を思うだろう? 怒るだろうか? 悲しむだろうか? そんなことを考えて、それから千智は小さく首を横に振る。あの優しかったほたるの感情を悪いように想像するのは彼女にとっての冒涜だ。
隣では、千智と同じく目を瞑って檜佐木が手を合わせている。はたして彼は、ほたるの気持ちに気づいていたのだろうか。聞いてみたいけれど、そのことは彼の心の中だけに大切に仕舞っておいて欲しいような気もする。それが千智が知るべきことだったなら、いつか自ずと知ることになるだろう。そう思い直して、それから千智はそっと瞼を開けた。後ろから足音が聞こえる。
「なんだ、ようやくか?」
聞き覚えのある声と霊圧だ。それが誰のものかを考える間もなく振り返ると、そこにはかつての同級生 —— 青鹿の姿があった。
「おう。世話になったな」
いまいち話の流れが分からずに首を傾げていると、隣に立つ檜佐木が少しだけ言いにくそうに口をつぐんだ後で「……いろいろ相談に乗ってもらってたんだ」とはにかんだ。
「えっ、そうなの?」
「今に始まったことじゃないぞ、立花。最初はいつだったかな……」
「青鹿!」
焦ったような声が辺りに響く。咎めるように名前を呼ばれた青鹿は、口元に堪えきれない笑みを浮かべていた。
何だか、久々に檜佐木のこんな姿を見た気がする。ここのところ檜佐木にはどきどきさせられっぱなしだったから、こういうふうに周りにいじられ構われているところを見るのはどこか懐かしく思えた。昔から、檜佐木はいろんな人に好かれ、慕われる男だった。それを眩しく思っていたことを今更になって思い出す。
(本当に、私には勿体ない人だ)
胸の内でそんなことを考える。けれど、きっと彼のそういうところに焦がれてきたのだろう。
青鹿も檜佐木も、院生時代と変わらぬ様子で和気藹々と会話を続けている。そんなふたりをぼんやり眺めていると、唐突に青鹿がこちらを振り返った。
「……立花、蟹沢に遠慮するなよ」
かけられた言葉にどきりと心臓が跳ねる。まるでたった今考えていたことを見透かされていたような、そんな的確な言葉だった。
青鹿も彼女の思いを知っていたのか、と物悲しい気持ちになる。かつての友人が抱えていた思いを勝手に詳らかにはしたくなかった。しかし、青鹿がここでほたるについて言及するということは、檜佐木もまた彼女の想いに気づいていたのかもしれない。
「お前たちはこれから生きて行かなけりゃならないんだから。……向こうに行くまでの間くらい、あいつは檜佐木を譲ってくれるさ」
それだけを告げると、青鹿もまた、彼女の墓に手を合わせた。
死んだ死神は、霊子となって尸魂界に還っていく。ならば、青鹿の言う“向こう”とはいったいどこにあると言うのだろうか。
ここに入っているのはほたるとの思い出と、生きている者にとってのよすがだけ。けれど、会えたら良いと思う。すべてを終えたあとで、彼の言う“向こう”なる場所で。会って彼女と話をしてみたいと思う。それが今の千智にとっての最上の願いだった。
仕事でこの近くに用があり立ち寄ったのだと言い残し、青鹿はすぐに霊園を後にした。近くに来るたび、彼はまめにここを訪れているようで、親友を想ってくれる人がいることのありがたさをひしひしと感じる。
薄情なことに、千智はこの数年、忙しさを言い訳にして彼女の命日にしか訪ねることができていなかった。彼女の死を認めたくなかったのか、忘れてしまいたかったのか。そんな陳腐な感情こそが、千智の足を遠のかせていた理由の一つだったのだろう。
「……千智」
青鹿を見送って、ふたり言葉も交わさずに、ただぼんやりと立ちすくむ。気遣わしげな声色で名前を呼ばれ、千智は声の主を見上げた。精悍で一見強面に見える顔立ちをした檜佐木が、優しく微笑みこちらを見つめている。
「ん?」
「帰るか」
「うん」
檜佐木はいつだってまっすぐで、誠実だ。それでいて、千智の逡巡を慮り、触れないことを選択してくれる彼の至誠な振る舞いを尊敬していた。
檜佐木のそんな、篤実さにいつか報いたいと思う。ほたるのことをふたりで話して、あのころの思い出で盛り上がって、それから少しだけ涙を流せたなら。それは彼女に対する弔いにもなってくれるだろう。
それに、かつての親友の死に向き合うことができたなら。千智が隠し続けてきた —— そして檜佐木が聞かないでいてくれた —— 兄の存在についてもまた、語ることのできる日がやってくる気がした。
霊園を後にして、どちらともなく歩き出した。この夏のことは、千智にとって忘れられないものになりそうだ。ほんの少し前を歩く檜佐木の背中を目に焼き付けるかのように、千智は彼の後ろ姿をじっと見つめる。その視線に気づいたのか、こちらを振り返った檜佐木と目が合って、思わずどぎまぎしてしまう。
「……どうしたの?」
「いや、何つーか……」
声をかけると、なぜか檜佐木の側もどこか緊張した面持ちで言葉を探すように口を噤む。
「俺はまだ一緒にいたいんだけど、飯でもどうかと思って」
どきりと心臓が跳ねた。
たった一言、「一緒にいたい」と言ってもらえることがこんなに嬉しいだなんて、これまで思ってもみないことだった。
「……うん。行こっか」
そう答えると、檜佐木ははにかむように笑って、手を差し出した。恐る恐るその大きな手のひらを握る。千智のそれよりも一回り大きく節くれだったその手が、否が応でも彼の男性としての魅力を感じさせるようで何だか照れくささを感じた。
「そういえば、院生時代にね」
「ああ」
「なんだか私が悩んでるみたいだって、ほたるがあの苺大福を買って待っててくれたことがあったの」
「……そうか。気の利くやつだったからな」
「優しいよね。あのとき食べた苺大福が、今までの人生で一番おいしかったかもしれない」
「良いじゃねえか。そう思えるってことは」
どちらともなく歩き出しながら、千智はふと思い出したことを切り出した。相槌を打ちながら、檜佐木が千智に柔らかい瞳を向ける。それがどこかくすぐったくて、嬉しくて、千智は照れ隠しの代わりにこんな言葉を続けた。
「うん、そうね。……あと、今思い返すと、その日私は修兵のことを好きになったんだよね」
「はっ? 俺?」
隣を歩く檜佐木が目を丸くして勢いよくこちらに顔を向ける。その顔が少し赤く染まっているように見えて、千智は思わず笑ってしまった。
「ちょい待て、いつの話だ!?」
「内緒」
いつのまにか夕方と言っても差し支えのない時間に差し掛かり、大地を照らす太陽も沈み始めようとしていた。もうそろそろ、夏も終わる。季節の終わりの寂寥は、別れの寂しさとどこか似ている気がする。
けれど、この関係は始まったばかりだ。きっと、秋の季節の物悲しさも、冬の寂寞も檜佐木と一緒なら、何とか乗り越えていけるだろう。
その先には、暖かく穏やかな春が待っている。