07

 ため込んでいた仕事をようやく片付けたころには、すっかり日も落ちてしまっていた。
 足元に置いていたビジネスバッグを机の上に持ち上げて、電源を落としたノートパソコンを仕舞う。時刻は十七時過ぎ。この会社の退勤時間は通常十七時半のため、なんだか少し、得したような気分になった。実際は休日出勤している分、何の得もしてはいないのだけれど。
 印刷した提案資料をまとめたA4のファイル、小腹を満たすために口にしていたチョコレートの箱やミルクティーの入ったペットボトルなどを鞄に入れた後で、開きっぱなしになっていた手帳の存在に気が付いた。羅列していた今日終わらせなければならない仕事のto doリストにチェックを入れ、漏れがないことを確認する。今年の仕事納めまであと数日。今日の休日出勤のおかげで、スムーズに年末年始の休暇に入れそうだ。

「お疲れさん」

 手帳を閉じて立ち上がろうとしたところで、ネイビーのスーツの袖口から覗く大きな手が缶コーヒーを机にこつんと置いた。聞き覚えのある声に思わず振り返ると、そこには思った通りの人が佇んでいた。先月別の課に異動してしまった高橋さんだ。
 
「お疲れ様です。……いいんですか?」
「おー。こんな日に休日出勤とはお互い付いてないな」

 営業二課から営業一課へ異動したとは言え同じフロアにいるため頻繁に顔を合わせてはいたものの、きちんと言葉を交わすのは先月の引継ぎ以来だった。彼も仕事を終えたところらしく左手にはブランド物のビジネスバッグを携えている。「そろそろ帰るだろ?」そう問いかけられて、私は慌てて頷きながら席を立った。
 どちらともなく鞄を手に取って、同時にオフィスを出る。今日は比較的機嫌が良かったはずの清和が、神経を尖らせて私の足にピッタリ張り付いていた。

「もう慣れたか?」
「なんとか、って感じです。でも高橋さんの業務量、すごいですね。平日だけじゃまったく終わらなくて休日出勤ですよ」

 運良く十五階で止まっていたエレベーターに乗ると、ガコン、と音を立てて降下した。二人きりの空間で、清和が警戒するように私と高橋さんの間に入り込む。高橋さんはもちろんそんな清和の様子に気付くことはなく、はは、とさわやかに笑ってみせた。

「でも課長も俺も、お前なら任せられるって判断したから引き継いだんだよ」
「ありがとうございます、頑張ります」
「何かあったら頼ってこい。課が違うって言っても同じ会社の仲間なんだから」

 高橋さんがぽん、と私の頭の上に手を置いた。元よりパーソナルスペースの狭い人だ。この人のこういうところが私は少し苦手だった。しかし、そこが良いと女性社員に噂されるような、人当たりの良い男でもある。だから彼の行動は気にしないことにして、いつの間にか一階にたどり着いていたエレベーターから一歩踏み出した。

「あ、そうだ、青柳」

 会社の入ったオフィスビルのエントランスを出て、駅のある方へと連れ立って歩いて行く。数分ほど他愛もない話をしながら歩いたところで、高橋さんに唐突に呼びかけられた。

「はい」
「もし今から時間があるのなら――」

 高橋さんが何か言葉を続けようとしていたことには気付いていた。しかし、彼の話の内容が右耳から左耳へとするりと通り抜けてしまう。注意散漫になってしまったのは、訳がある。隣を歩いていた清和がどういうわけかグルグルと唸り声をあげて威嚇し始めたからだ。
 どうにか制御したいけれど、こんなところで術式を発動させるわけにはいかない。けれど、何もしなければ清和は今にも近くにいる人――この場合は高橋さんになるだろう――に飛び掛からんばかりの勢いだ。どうしよう、どうしたら良いだろう。高橋さんを撒いて清和を遠ざけるべきか、それとも術式を発動させてあとから言い訳するべきか。おろおろ慌てていたちょうどそのとき、車道を走っていた黒塗りの高級車が歩道ギリギリに幅寄せして停止した。

「円佳ちゃん? そんなところでどうしたの?」

 後部座席のスモークガラスが静かに開いて、近ごろ聞き慣れてしまった声が私の名前を呼ぶ。思わずほっと胸を撫で下ろした。開いた窓の先には直綴に袈裟を纏った夏油さんが座っていた。
 夏油さんは小さく手を振ると、威嚇している清和に目をやる。その途端、今にも暴れだしそうだった清和がしゅんと尻尾を下ろし、大人しくなった。助かった、と思う。この呪いが夏油さんに拝跪する理由はわからないけれど、彼がいるこの場所でこれ以上清和が暴れだすことはないと言っていいだろう。

「菜々子と美々子から、連絡来なかった?」

 数秒ほど清和のことを観察した後で、夏油さんはそう言葉を続けてそっと目配せをした。彼の真意に気付いて、私は辿々しく返事をする。

「あ、はい。もらいました」
「そう。乗っていくかい? どうせ目的地は一緒だし」
「……いいんですか?」

 どうぞ、という言葉とともに、後部座席のドアが開く。高橋さんに断ってから車に乗り込むと、清和が嬉しそうにしっぽを振って夏油さんに近づいた。まるで本物の犬みたいだ。

「ごめんね。この子があまりにもイライラしてるみたいだったから、思わず声をかけてしまったよ」

 清和の耳の辺りをわしゃわしゃと撫でながら、夏油さんがそう切り出した。私があの双子の誘いを断ったこと承知の上で助けてくれたらしく、彼は申し訳なさそうに「お詫びにきっちり家まで送らせてもらうね」なんてことまで宣う。

「いえ、助かりました。清和はあの人のことが苦手みたいなんです」
「……何となく、わかる気がするよ。利久、車を出して」

 夏油さんが運転席にいた男――顔に傷跡のある男で、あの町で夏油さんと連れ立って歩いているのを何度か見たことがある――にそう呼びかけると、利久と呼ばれた男はギアレバーを操作して、スムーズに車を発車させる。バックミラー越しにその男と目が合って会釈をしたけれど、彼は何の反応も返さずにそっと目を逸らしてしまった。

「さっきのは誰?」

 隣に座った夏油さんが、窓枠に肘をついてそう問いかける。左手は相変わらず清和のことを撫で続けていて、まるでこの呪霊の荒んだ心を癒しているような仕草にも思えた。

「あー、会社の先輩です。少し前まで同じ営業課で働いていて」
「君、営業職なんだ?」
「意外ですか?」

 そう切り返すと、夏油さんはふっと表情を緩ませる。

「円佳ちゃん、結構淡々としてるし。営業の人って、もっと溌剌としたイメージはあったから」

 意外だと言外に肯定された気がした。「私も民間企業で働いたことがないから、一概には言えないけどね」と言葉を続けた夏油さんが、少しだけ間をおいて、また口を開く。

「どうしてこの仕事を?」
「手っ取り早く稼げるイメージが強かったので。結婚できる気もしないですし、一人でも生きていけるように。安直と言えば安直な考えですけどね」
「円佳ちゃんなら引く手あまただと思うけど。あんまり結婚願望ないんだ?」
「……そういうわけじゃないんですが」

 人々で賑わったクリスマスイブの夜の街をすり抜けるように車が駆けていく。わずかな沈黙。誤魔化そうかと思ったけれど、その沈黙が怖くて思わず言葉を続けてしまう。思い出すのは、あの日の祖母の最期の言葉だ。

「この呪いは私の代で終わらせなきゃならないので」
「それはまた、どうして?」
「祖母の遺言なんです」

 夏油さんは何を考えているか読めない表情でこちらを見つめている。

「うちって憑霊の家系って言ったじゃないですか。だからなのかはわからないんですが、術式を受け継いだ者の配偶者が早死するんですよね」

 家系ごと呪われてるんだから、無理もない話だ。私の母親もそうだったし、会ったことのない祖父も三十歳の誕生日を迎える前に亡くなった。
 これは予想でしかないけれど、おそらく祖母が故郷を捨てることになった理由はそこにある。青柳家が呪いに取り憑かれた家系だと知りながらおばあちゃんと結婚したおじいちゃん。彼が亡くなったとき、村の者は祖母が祖父を殺したのだと騒ぎ立てた。その誹謗中傷に耐えきれず、祖母は幼い息子を抱えて上京したのではないだろうか。

「私も好きになった人が早くに亡くなってしまったら、辛いので」

 そう続けて、夏油さんの横顔を覗き見る。ふうん、と呟いた夏油さんは何かを考え込むようにぼんやりと虚空を眺めていた。私はそっと目を伏せる。そして、近ごろずっと脳裏で渦巻いている考えを振り払うべく、膝の上に置いた手のひらをぎゅっと握った。

――例えば相手が呪術師であったのなら。私と結ばれたとしてもその力を持って対処できるのでは。

 そういう都合の良い妄想が、ずっと頭の片隅に居ついて離れない。

「……変でしょうか」
「ん? 何が?」
「術式を使えるのに、呪いと戦おうとしないのは」

 術式を捨てようとしているのは、とは聞けなかった。聞いてしまったら最後、彼らが私とは会ってくれなくなることに気付いていたからだ。夏油さんはその鋭い目でじっと私の顔を見つめていた。何かを見透かすような、そんな凍てつく視線に思えて、私はもう一度、手のひらをぎゅっと握り直す。

「……変じゃないよ。君の自由さ」

 夏油さんはそっと私の手に触れて、手のひらに固く食い込んだ爪をほどくように包み込んだ。彼の大きく武骨な手の感触に狼狽して、思わず顔を見上げる。夏油さんのあの切れ長の瞳が、また、きゅっと弧を描いていたことに気が付いて、私はもう一度、目を逸らした。頬がじわじわと熱くなるのを感じた。

「何か惑うことがあるのなら、悩めるだけ悩めばいいよ」
「そう、ですかね……」
「……私はもう、その段階には戻れないから」

 静かな声が、耳にじんわりと染みていく。どこか諦めにも似た、脆い印象を与える頼りなげなその呟きに、胸の奥がきゅんと締め付けられるような心地がした。車は色とりどりの灯りに彩られた街を流れるように進んでいた。その光景を見ながら、私はそっと直感する。
 これはもう、後戻りできないかもしれない――、と。

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