06

 今日の渋谷の街は、きらきらといつも以上にきらめいて見える。オフィスの窓際の席に座りキーボードを叩きながら、そんなことを考えた。
 いや、厳密に言えば渋谷だけではない。私の住むベッドタウンもそうだったし、おそらく他の街もそうなのだろう。仲良く手をつないで歩く親子連れや腕を組んだカップルたちで街が楽しげに彩られる日。十二月二十四日土曜日。クリスマスイブのその日である。

 寒空の下であるはずなのに、外を歩く人々は誰も彼も心浮き立つ表情を隠せてはいない。当然のことだ。今年のクリスマスはちょうど週末と被っており、イベントを楽しむにはもってこいのタイミングだった。私だって休日出勤する羽目にさえならなければ家でのんびり美味しいものでも食べていたはずなのに――。そう考えて一つ、ため息を吐いた。暖房の効いたオフィスは暖かいけれど、それでも数えるほどの人しか出勤していない週末の職場はどうにも物寂しい。
 すぐそばで自らの尻尾を追いかけてクルクル回っている清和だけがこの部屋で唯一の活気のある存在にも思えた。負の感情をもとにした呪いであるはずなのに可笑しな話だ。

 営業先に持っていくための提案資料を作る手を止めてぼんやりと清和を眺めていると、唐突にピコン、という軽快な音が鳴った。サイレントモードにし忘れたスマートフォンのメッセージアプリの通知音だった。スマートフォンを手に取って、身体に染み付いた動きでメッセージアプリを起動する。
 誰だろう、と一瞬だけ考えて、あの子たちだろうな、とあたりを付けた。スマートフォンの画面には、思った通り、かわいらしい女子中学生ふたりがいかにも若者が好きそうなドリンクを顔の横で掲げている写真のアイコンが映し出されている。

 一か月ほど前に連絡先を交換してから、菜々子ちゃんや美々子ちゃんとはよくメッセージのやり取りをするようになった。さすが女子中学生と言うべきか、彼女たちからは頻繁にメッセージを受け取った。

『学校でこんなことがあった』
『原宿で話題のスイーツを食べた』
『夏油様が参観日に学校に来てくれた』

 そんなとりとめのない他愛もない話を出会ったばかりの私にしてくれることを少しだけ不思議に思いながら、それでも数を重ねるごとに彼女たちとのやり取りは私の日課として組み込まれていった。

「術師と知り合うことは少ないから、あの子たちも円佳ちゃんと仲良くなりたいんだと思うよ」

 保護者である夏油さんには、毎日のように連絡を取り合っていることを一応伝えておこう。そう思い、町でたまたま彼に会ったときに説明すると、夏油さんは穏やか笑みを浮かべてそんなことを呟いた。

「迷惑だったら、私から二人に言っておくから遠慮なく言ってね」

 続けられた言葉にぶんぶんと首を横に振って否定すると、夏油さんはまた、目元をきゅっと細めるあの顔で笑ってみせた。その顔をまた直視してしまって、どきん、と心がわずかに震える。彼がこんなにもあどけない表情で笑うだなんてこと、知りたくなかったと思った。

 ほんの数日前のやりとりを思い出しながら、メッセージアプリのトーク欄を立ち上げる。送られてきた内容には、何となく予想がついていた。右端に赤い丸の通知が浮かんでいたのは美々子ちゃんのアカウントで、そっとそれをタップすると大きなツリーにオーナメントを飾り付ける菜々子ちゃんの写真がパッと目に入った。
 アパートの裏山にある、あの教団施設でクリスマスパーティーをすると聞いたのは二日ほど前のことだっただろうか。菜々子ちゃんからは『円佳もおいでよ』というメッセージと可愛らしいウサギのスタンプが送られていたが、仕事が立て込んでいると理由を付けて、断った。

 仕事が忙しいのは本当だった。先月高橋さんから引き継いだ顧客の対応に平日は追われてしまうため、提案資料や見積の作成といった社内業務は必然的に残業時間や休日に片付けることになってしまう。ここ一か月ほどはそんな週末の繰り返しだった。しかし、断ったのは仕事だけが理由ではない。何となく、夏油さんたちとつるむのは控えたほうがよいのかもしれない。そんな気持ちになっていたからだ。

――あの子たちは特に非術師が苦手なんだ。

――私は呪術師の味方だよ。

 そう語った夏油さんの顔を、そして、痛いほどに握りしめられた拳を思い出す。彼らは私にとっては良い人たちだけれど、誰にでも優しいわけではないということにはうっすら気付いていた。
 腰の痛みを治してもらえると思い込んで、夏油さんを教祖とするあの宗教の信者と成り果てた井口さん。彼らは井口さんのように呪霊を目視できない人々を搾取することを生業としている。ずいぶんと阿漕な商売に思えたし、あの宗教には関わりたくないと、そう強く願っていたはずなのに。

 あの宗教の教祖たる夏油傑という人間と、きちんと向かいあうようになって初めて気付いたこと。それは彼がどこまでも普通の人だということだった。

 夏油さんについて私が知っていることはそう多くはない。
 呪術師で、呪霊操術の使い手。裏山にある宗教団体の教祖。双子の女の子を育てていて、驚くほどごく普通の感性を持つ大人びた男性。実は少しだけ幼く見える、あどけない表情で笑う人。たったそれだけ。
 それだけなのに、彼らの存在が私の中にこんなにも侵食してしまっていることが怖かった。誰にも頼らずに一人で生きていく覚悟を決めたはずなのに、その決意を覆されそうになるのが、怖かった。


 亡くなった祖母のことを思い出す。いつも明るくて、両親が早世した私を女手一つで育ててくれたおばあちゃん。彼女が死の淵に立ったとき、最期に残した言葉がある。

「ごめんなあ、円佳」

 枯れ木のように細った姿を見たくなくて足が遠のいていた白い病室で、祖母はか細い声で私の名を呼んだ。

「清和には助けられたこともあるけど、所詮呪いは呪い。不幸しかもたらさん」

 骨と皮だけになってしまった弱々しい手が、ベッドサイドで項垂れる清和の頭を撫でていた。すっかり痩せ細ってしまった祖母が物憂げな表情を浮かべるさまが痛ましくて、私はそっとその手を握る。 

「あんたに押し付ける形になって悪いと思っとるんよ。でも、おばあちゃんの願い一つだけ叶えてくれる?」
「……うん、何でも言ってよ」
「なあ、円佳。あんたで清和を終わらせて」

 それは、まさしく呪いの言葉だった。

 犬神憑きや狐憑きと言った言葉で取り沙汰される憑きものの家系は、代々差別や偏見の目に晒されることが多かった。
 市街地に出るにも車で数十分はかかってしまうような田舎の村。山々に囲まれた、閉塞感に苛まれる土地で生まれ育った祖母にとって、その故郷は一体どんな存在だったのだろう。その場所について多くを語ることはしなかった祖母だけれど、彼女が謂れのない中傷を受けていたことは想像に難くない。

 祖母は、その誹謗の原因である清和の解呪を望んでいた。血族ごと呪っているこの呪霊を解呪する方法はたった一つ。

 呪われたまま子孫を残さず命を絶つ。

 それだけが私たちがこの呪いから解き放たれる、唯一の方法だった。

 父が殉職し、母も後を追うように命を落としたあと、私をここまで育ててくれたのはおばあちゃんだった。優しくて芯の強い祖母が大好きだった。その祖母の最期の願いならば、それを叶えることが恩返しなのではないだろうか。もしくは――。

 そんなことを考えて、私は脳裏に浮かんだ都合の良い妄想を振り払うべくそっと頭を振った。せっかくの休日出勤にも関わらず手が止まっていたことに気付き、手に持っていたスマートフォンを机に置く。太陽の光がオレンジ色に輝き、渋谷の街がイルミネーションに彩られ始めた夕方のことだった。

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