暗い森にささやかにある小径を、レギュラス・アークタルス・ブラックはただひたすらに歩いていた。
誰にも見られないように厚手のローブとフードを深く被り、レギュラスはほとんど獣道に近いそれを迷うことなく突き進んでいく。月明かりは木々に遮られ、ほとんど闇と言っても過言ではないような道程だった。そんな道を進みながら、レギュラスは物思いに耽っている。家族のこと、魔法界のこと、友人のこと、そして、これから会う人のこと。このやり方で、本当に彼らに害が及ぶことはないのだろうか。暗い森に同化するように、レギュラスの思考も沈んでいく。
そうして足を進めていくと、やっとのことでほんの少しだけ木々が拓けた場所に出た。夜空のきらめきが見通せる以外何もない空間にレギュラスが足を踏み入れると、途端に小さくも頑丈そうな門構えの邸宅が現れる。それは静かな森の中に似つかわしくないもので、レギュラスは屋敷の姿を見とめるとまっすぐその扉へと向かって行った。

イギリスでは歴史のあるいくつかの名家が魔法界を牽引している。ハインツェ家もそのうちのひとつだと言っても過言ではない。
この旧家は薬学に秀でており、多くの魔法薬学者を輩出した名門と呼ばれる家系と言える。古い一族らしく国じゅうにいくつもの別宅を構えていて、たった今レギュラスが迷いのない足取りで向かっているのもそのハインツェ家ゆかりの屋敷であった。
門扉へたどり着き、合言葉を唱えると、がちゃり、と音を立てて一人でにドアノブが回る。そのうちにゆっくりと扉が開き、来訪者を屋敷の中へと誘っていた。
底冷えのする薄暗い廊下をさらに進むとかすかな灯りがうかがえた。おそらくはそこに、この屋敷の住人がいるのだろう。客人をもてなそうと現れたハウスエルフを制し、レギュラスは扉を叩いた。途端男を受け入れるように扉が開き、男は足を踏み入れた。

「どうしたの? 今日来るとは聞いてなかったけれど」

廊下の仄暗さと対照的に部屋の中にはランプが焚かれ、暖炉には轟々と火が燃え盛っていた。その部屋の中で、ひとりの女が椅子に腰掛けて、何やら分厚い書物をめくっている。彼女の名はエミリ・ミヨシ。苗字こそ違えど、れっきとしたハインツェ家の血を引く魔女であった。

「おや、無礼でしたかね。でもどうしても今あなたに会っておきたかったんです」

エミリのその問いかけに軽く言葉を返しながらレギュラスはフードを脱いだ。夜の森よりも暗い漆黒の髪と灰色の瞳が、彼の整った顔を引き立たせている。彼のその面差しを見て、エミリはそっと微笑み、首を横に振る。

「……ううん、来てくれたことは嬉しいわ。でも珍しいじゃない、レギュラス。あなたが連絡も無しにやって来るなんて」
「まあ最近は少し忙しくて。……でも、ちょっと暇が出来たんですよ。だから恋人の顔でも見に行こうかと」
「……あなたがそんなことを言うなんて明日は雨かしら?」

茶化すような口調でエミリがそういうと、ずっと固い表情をしていたレギュラスもようやく笑みをこぼす。若い恋人たちの会話はいつだってこんな調子だった。慣れ親しんだやりとりと暖炉の暖かさにレギュラスはほっとしたようなため息を吐く。そうして口元に笑みをたたえて、こう切り返した。

「僕の本音ですよ。それも正真正銘の」
「それは……まあ、ありがとう?」

くすくすと笑いながらエミリが立ち上がる。レギュラスに暖炉にいちばん近いソファへと座るように促して、いつの間にか部屋の片隅に置いてあったティーポットに手を伸ばした。おそらくはハインツェに仕えるハウスエルフが淹れたものだろう。淹れたてのほのかな香りがして、エミリの表情がほころんだ。何も言わなくともお気に入りの茶葉を入れてくれるハウスエルフの彼女を気に入っていた。

「急がなきゃならないのかしら? お茶くらい飲んでいく時間はある?」
「……エミリ、僕の話を聞いてくれる?」

背を向けて紅茶を用意しようとしていたエミリの手を、後ろからレギュラスが掴んで止める。お気に入りの紅茶に浮かれていたエミリの表情がこわばったのを、レギュラスには見とめることができなかった。ほとんど抱きしめるような姿勢のまま、レギュラスはエミリの耳に口を寄せる。

「……なあに、どうしたの」
「もちろん立場はわかってるつもりだし、時勢も理解している気でいます。でも譲れないものがあって、何を優先したいか考えてみると、見えてきたものがあるんです」

うん、と声にならない返事を頷きで返してエミリはレギュラスの次の言葉を待った。ほんとうはここに来たときからおかしい彼の様子に気づいていたし、学生時代から気にかけていたことが今わかるのかもしれないと微かに思った。

「いま考えると、僕は大きな思い違いをしていた気がする」
「……そんなこと、」

レギュラスの独白を聞いて、エミリの思考はぐるぐると回りだそうとする。けれどもそれを無意識のうちに抑え込み、続きを待った。

躊躇っているのかは定かではなかったが、レギュラスの独白にほんの少しの間が空く。そして彼は何かを飲み込んで、再び困ったような笑みを見せながらこう言い直した。

「このご時世ですしね。でも恋人の家に行くのにこんな風にコソコソ隠れなきゃならない世の中はどうかと思いますよ」
「……レグ、あなた何を」

その笑みに眉根を寄せてエミリは彼に何かを告げようとする。その言葉を遮るようにレギュラスはエミリのくちびるに触れた。

「……ねえ、言わせてよ。お願いだから」
「それは聞けないな」

愛おしそうに微笑むレギュラスの表情を見てエミリは口を噤んだ。彼にかける言葉が何も出てこなかった。

「あなたと過ごしたホグワーツは夢のような時間でした」

もう行きますね、少々急ぎますので。そう告げてエミリの頭を軽く撫でる。そうしてエミリが何も言えないうちにローブを翻しレギュラスはこの邸宅を後にした。

透明な別れを知らないか

1979年某月某日、レギュラス・ブラックが最後に人前に現れたとされる日のことである。




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