湖のなかへ。
そう思った瞬間に、どこからか強烈な炎が発せられるのを感じた。僕の体を僅かに逸れた炎は群がる亡者を退かせる。空いていた右手を掴まれて引き寄せられ、僕は完全に島の上に連れ戻された。

「……エミリ! どうして」
「こっちの台詞よ、馬鹿! とにかくここを出なきゃ、」

僕の手を握る温度の元を確かめればそこには彼女がいて思わず何故と言葉が漏れる。彼女には伝わらないようにしたはずだ。
クリーチャーが大急ぎで近づいてきて、僕とエミリの手を握る。その瞬間どこかへ姿くらましをする感覚を覚えた。一瞬ののちに辿り着いたのはあの洞窟に入る前に降り立った、大岩の連なる岩場だった。
僕はいったいどうなったと言うのだろう。

「エミリ、どうして君がここに……」
「……怪我してる」
「え、ああ、そうだね」

今日は何とまあ出鼻を挫かれる日なんだろうか。彼女を問い詰めようとした途端にエミリに亡者に掴まれていた左腕を見咎められた。
僕としてはこの左腕に、もっと言えばここに刻まれた印にもはや何の思い入れもない。だからこの腕がどうなろうと関係ないと思っていたけれど、それでも彼女があまりに悲しそうな眼をするものだから、思わず言葉に詰まってしまう。

「エピスキーが効くと思う?」
「は? え? ……どういうことですか?」
「闇の魔術で付けられた傷には効果ないじゃない、エピスキーは。あなたの傷には効くかもしれないけどその下にあるものを考えたらちょっと疑問よね」

淡々とそう言いながら白いハンカチを取り出す彼女を見て、落ち着いたものだと考えていた。思えば昔からいつも彼女は一歩下がったところから僕のすることを見ていてくれた気がする。

「君は本当に昔から周りをよく見ていたんだね」
「……そんなことないわ。怖かったの」

エミリの小さな小さな声を聞いて、ほんの一瞬言葉に詰まる。それと同時に止血のために白いハンカチ越しに僕の腕を圧迫する彼女の手が震えていることにも気がついて、思わず息を呑んだ。

「……怖かったって?」

問いかける声がどこか柔らかいものになる。まだこんな声が出せたのかとひとり驚いて、ごまかすように震える彼女の手に触れた。いつから僕はひとつのものだけにこだわって、どれだけ他のものをないがしろにしてきたのだろうか。

「あなたの本音を聞くのが怖かったのよ、レギュラス。あなたが“あの人”の思想に惹かれていることには気づいていたけれど、それをあなたの口から聞くのが怖かったの」
「……そう。やっぱり知っていたんですね」
「あなた自分で思うほど何もかも上手く隠せてたわけじゃないのよ。でもね、レギュラス。私はそういったことを言いたいんじゃない」

俯いていた顔をあげてエミリは言葉を続けた。

「あのころはそれが怖くて仕方がなかったけれど。でも、今はあなたがいなくなってしまうことのほうが、何よりも怖い」

それだけ言い切って、エミリはその白いハンカチの上からフェルーラで包帯を巻き、固定していく。それからはもう、自分から顔をあげようとはしなかった。僕ももう何も言わなかった。話す時間なら、これから山ほどあるだろう。

*****

そのあとは私からは何も言うことはなかった。包帯を巻き終えたあと、レギュラスはそっと立ち上がり少し離れたところに佇む彼のハウスエルフのもとへと歩いていった。
大きな眼に涙を浮かべるクリーチャーの頭を、レギュラスは苦笑いしながら撫でている。彼は本当に他人に対しては優しい。それが彼自身に向けられればどんなに良いか、ふとそんなことを考えた。

「そろそろ行きましょうか」
「うん、そうだね」

レギュラスが何をしようとしていたのか、きちんと知っているわけではない。けれどこれからそれを聞く時間はたっぷりある。そしてこの場所はそれに適していないというのはわかりきったことだった。

「でもどこに行くつもり?」
「マックスが国外に出るルートを確保してくれるって言ってたわ。……たぶん日本ねドイツって可能性もないわけではないけれど」

そういえばレギュラスに何も言わずにそう決めてしまったけれど、彼はどう思うだろうか。やろうと思っていたことを止められて、極東の島国に連れていかれるのは彼の可能性を潰すことにもなるとようやく気が付いた。

「……何笑ってるの?」

そのことを問いかけようと思って、レギュラスの顔を見上げると彼にしては珍しくにやにやと笑っていて思わずそっちの理由を尋ねてしまう。

「……いや、日本って言えばエミリの故郷でしょう? そんな大切なところに僕を連れていってくれるんですね」
「……そりゃまあ、それしか伝手がないんだからそうせざるを得ないわよ。と言うより、あなたは嫌じゃないの?」
「君が僕の命を助けてくれたのに、何を嫌がる必要があるんです? ……それに、僕はこれまで家族のために生きてきたから。これからは君のためにそうしようかと思って」

微笑んだままそう言い切ったレギュラスに溜め息を吐く。まったくこの人は、たった今死に直面していたこのタイミングでさえ自分よりも他人を優先させるのだ。

「その気持ちはすごく嬉しいわ。でもあなたはあなた自身のために生きて」

じゃなきゃ助けた意味がない、というのは心の中に留めて、目をぱちくりとさせる彼を見やる。きょとんとした表情のレギュラスがひどく愛しくて、彼を失わずにすんで本当によかったとぼんやり考えた。

*****

それから。
エミリの従兄弟であるマクシミリアンが繋いでくれたルートでイギリスを脱出してもう何年経っただろうか。
イギリスでは僕は死んだことになっていると聞いた。それでいい。そのおかげで僕が望んだ家族は守られた。その胸の内に何を抱えていたかはわからないけれど。
僕がこちらへ来てから数年後、闇の帝王が失脚したというニュースが舞い込んできた。大半の魔法使いの見解と同じく、僕もエミリも闇の帝王が完全にいなくなったとは考えてはいない。なにせまだその魂の欠片はいくつか残っているのだ。そして僕たちはそのことを知っている。

そんな真実を抱えながらも、ひとときの平和を享受していた最中、僕たちはまたあの英国魔法界の舞台に引き戻されることになる。

いつか醒める時が来る



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