障子戸の向こうから、眩いばかりの日差しが差し込んでいた。
 突き刺すような光に気付き、禪院直哉はおもむろに腕を持ち上げ目元を隠す。

(あーあ、今日も“負け”かいな)

 直哉は毎朝一つの『賭け事』に挑んでいた。直哉以外誰も知らないその『賭け事』は、負けたからと言って金品をせしめられたり、奪われたりするわけではない。その『賭け事』でベットしているのは直哉の個人的な執着に過ぎないからだ。


 寝起きの漠然とした思考回路をどうにか整理して、顔を覆い隠していた腕をゆっくりと下ろす。腹筋を使って上体を起こしそろりと目を開けるも、予想していた通り隣には丁寧に畳まれた一組の布団がぽつんと鎮座していた。

「ほーんま、思た通りにならん子やなァ」

 ぼそりとそんな言葉を呟いて、緩慢な動作で立ち上がる。部屋の奥に置かれた井桁に例のごとく着流しが掛けられていることを発見し、直哉はがしがしと頭を掻いて人知れず溜め息を吐いた。
 寝乱れた浴衣を脱ぎ捨てて、正絹で仕立てられた濃紺の着流しを手に取った。それをやおら羽織り、衿先を持って形を整え、しゅる、と衣擦れの音を立てながら慣れた手つきで角帯を巻いていく。
 姿見を確認し、寝癖のついた髪を撫でつけたところで直哉は欠伸を嚙み殺しながら部屋を後にした。


鴛鴦の契り




 呪術界の名門・御三家のうちの一、禪院家本邸の外れには、小さな離れがいくつか存在する。
 呪力や術式を持つ者こそが評価される禪院家では、古くから母屋で暮らすのは当主の一親等にあたる家族のみと定められている。それ以外は実力者であれば離れが宛がわれ、そうでない者は母屋から距離のある別棟で生活をすることになるのが、術式の有無とその有力さを第一に掲げている禪院家の習わしだった。
 直哉が寝起きするこの場所も、そんな強者だけに宛がわれる離れの一つである。当主と同じ投射呪法を操り、炳の筆頭にまで上りつめた直哉には、所帯を持つと同時に離れ家の中でもいっとう立派な一棟が与えられた。
 母屋にある自室からこの離れに移り住んでようやく一年。蜜月のときを過ごすためのこの空間にはようやっと慣れはしたものの、直哉がこっそりと挑んでいる『賭け事』に勝てたことは、未だに一度もない。

 足を踏み出すたびに、鴬張りの廊下が、きゅ、と鳴き声を上げた。歴史の長い禪院家の建物は、どこもかしこも古びた造りをしている。それはこれから向かう先についても同じことで、もう幾度となくその場所の改修を提案しているのに、“彼女”は頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
 変わった女だな、と直哉は思う。
 無欲というか無私というか、とにかくそういう物事に頓着しない女だった。だからこそあの神仏と思しき美貌の男にも気に掛けられていたのだろうけれど―――
 そんなことを考えてから直哉は静かに頭を振る。いつの間にか、離れの東端にある、炊事場まであと少しのところまで辿り着いていた。
 本来ならば、男性である直哉が―――それも、次期当主と名高い嗣子にあたる男が―――滅多に訪れるような場所ではない。たとえ喉が乾いたり腹が減ったりしても、女中を呼びつけて食べ物を持ってこさせれば事足りるからだ。
 しかし、直哉の住まうこの離れ家には女中の一人もおらず、この炊事場は“彼女”の城と化していた。直哉個人としては母屋と同じように小間使いの女を置いてもいいと―――いや、むしろ置いた方が勝手が良いのではないかと―――常々思ってはいるものの、これから向かう先にいるはずの“彼女”はそれを良しとしなかった。

(難儀な性格してはるわ、ほんま)

 わずかな部屋と最低限の設備しかない離れでは、数十歩ほど足を進めたところで目的地に辿り着いてしまう。そんな少しの距離を歩いて行くうちに、馥郁とした味噌の香りが鼻腔を擽ることに気がつき、直哉は眉を顰めた。

「美晴」

 開け放たれた炊事場の戸枠にもたれかかり、そこにいる女の名前を呼ぶ。女は鍋の火を止めて振り返るとおっとりした笑みを浮かべた。

「あ、直哉さん。おはようございます」
「なんやえらい早起きやんか」

 そう呟いて、直哉は炊事場の中に足を進めた。なんだか咎めるような口調になってしまった気がしなくもない。それを隠すように、直哉は美晴に近づくと細い首元に口付けを落とす。美晴はこそばゆいその感触を紛らわすように、くすくすと控えめな笑い声を上げた。

「くすぐったいです、直哉さん」
「そんなに早う起きんでもええのに」
「でも、朝ご飯の準備が……」
「女中の真似事なんかせんでええ言うてんねん」

 美晴は眉尻を下げ、困ったように笑ってみせる。
 彼女にそんな表情をさせてしまうだろうということは、もちろん直哉もわかっていた。禪院家に連なる女で、仲働きの役目を果たさずとも許されるのは当主の妻くらいだ。その他の女性陣は、たとえ宗家の娘であっても給仕などの役回りに務めることになる。だから美晴の困惑も至極当然の話であったはずなのに―――
 母屋に行ったときならばいざ知らず、この離れにいるときくらいその役割から解放されても良いのではないか、と直哉は思ってしまう。いずれ美晴も当主の妻になる身の上なのだ。役割から解放されて、まだまだ新婚と言っても過言ではない夫の隣でゆったりとした朝寝の時間を過ごすのもまた一興。……というか、むしろ。


 そんな時間を過ごしてみたいという、その煩悩こそが直哉の毎朝の『賭け事』の正体だった。


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