―――朝目覚めたとき、美晴がまだ布団の中でまどろんでいれば直哉の勝ち。
 そんな至極単純な『賭け事』を始めたきっかけは、直哉と美晴が結婚した当時まで遡る。


 京都・東山にある平安神宮の本殿での神前式を終え、縁戚の面々や御三家の術師、それから禪院家に近しい一部の呪術総監部……といった堅苦しい顔ぶれを招待した披露宴は、想像通り食うか食われるかの混沌とした狸の化かしあいの場に発展した。
 ある種、予想の範囲内ではあった。そもそもが古臭い因習に塗れた呪術界である。婚礼というハレの場でもそれは変わらず、むしろ家同士の見栄の張り合いやおべっかの使い合いには誂え向きの場所であるとすら言えた。

「アホらし。人様の結婚式の場でやいやい喧しゅうてかなわんわ」

 婚礼の儀を終え、今日から住まうことになった離れの寝室で、直哉はそんなことを呟いた。隣でそれを静かに聞いていた美晴はきれいに口角を上げて微笑んでみせる。

「……皆さん直哉さんに近づきたくて仕方ないんですよ」
「んなわけあるかい。最後に話しかけてきたあの古狸ども、あいつら一番上の兄さんの派閥やぞ」

 部屋に戻ったときには既に敷かれていた新品の布団に寝転びながら、直哉は「見る目のないおっさんらやわ」と悪態を吐いた。憎まれ口を叩く直哉の様子を見て、美晴はくすくすと笑っている。
 既に時計の針は頂点を回っており、深夜と言って差し支えない時刻に突入していた。
 母屋の方ではいまだ婚儀の後片付けに使用人たちがあくせく励んでいるものの、この離れ家においては人の気配は直哉と美晴の他に一つもない。
 当然、直哉が前もって人払いをしていたからだ。

「……美晴ちゃん」
「はい」

 直哉は布団の上に横たわったまま、静かにその名を呼んだ。美晴は膝を正したまま、まろい声で返事を寄越す。薄手の浴衣から覗く首筋が妙に情欲を煽るようだった。

「……おいで」

 ほっそりとした、白魚のように美しい手を掴む。少し力を入れただけで美晴の身体は傾ぎ、直哉の胸板にもたれかかってしまう。その華奢な背中に腕を回し、直哉は彼女に見えないように、こっそりと口角を吊り上げた。
 ―――ずっと焦がれていた相手をやっと自分のものにできるという、仄暗い満足感に浸りながら。


 古い呪術師家系の子女であった直哉と美晴は、幼いころから、やれ会合だ、会食だと顔を合わせることも多かった。
 同い年で、互いによく知っている、妙齢の男女二人。そんな関係だったから、直哉と美晴に縁談の話が持ちあがったのも、至極当然の流れだったのだろう。


 美晴と初めて顔を合わせることになったのは、直哉が数えで十歳になる正月のことだった。
 御三家やそれに連なる有力な術師家系が集まる新年の挨拶の場。その年は確か、直哉の住まう禪院家本邸の広間で行われたと記憶している。
 互いの権力と権威を誇示するためだけの窮屈な場所に、彼女は現れた。
 御三家のうちの一つ、五条家の末席。五条宗家の遠縁のそのまた遠縁。美晴はそんな凡庸な立ち位置の家系に生まれた一人娘だった。
 家格だけを見れば、いくら五条家と縁があるとは言え、まったくもって取るに足らない家柄の一族である。しかし、それでもその家が代々受け継ぐ術式の有用性をもって、それなりの地位を築いてきた家でもあった。

「将来は五条の嫁御か」
「いや、あの家柄では家格が釣り合わんさ」
「それならうちが貰いたいものだが」
「オマエのところの跡取り息子には勿体ないだろうよ」

 五条家の血縁が並んだその一番下座でちんまりと肩を縮こまらせる美晴を見て、老獪な呪術師たちがこそこそと流言を交わしていたことを直哉はよく覚えている。
 美晴は女だてらに貴重な生家の相伝術式を継いでおり、その日はその美晴のお披露目も兼ねていた。しかし、彼女が術式を持っていることなど興味はないとでも言うかのように、縁戚たちは下世話な話に夢中になっていた。

「しかし娘に術式が遺伝するとは。久藤の当主も悔しかろう」
「いやいや、あの器量なら使い道はいくらでもあるさ」

 やに下がった笑みを浮かべ、無粋な言葉を交わし合っている縁戚たちを冷えた目で見据え、直哉は肩を竦めた。
 旧態依然とした呪術界では、呪力の強さ、家柄の良さ、そして何より術式の格の高さなどで呪術師としての評価が決まる。
 直哉の一つ上に生まれた五条悟などは特に顕著な例だ。名門・五条家の嫡男で、潤沢な呪力を持ち、相伝の無下限呪術と六眼を併せ持った男児。彼の術式が発現してからというもの、五条家は将来の最強術師を獲得したと取り沙汰され、御三家内での発言力も大きくなりつつある。権力と実力、両方を持つものこそが最重視される―――というのが呪術界での常識であった。
 しかし、いくら権力を持った家に生まれ、価値高い術式を持っていても、それを持っているのが『女』であるというだけで、話は変わってくる。
 その証拠が、今のこの状況だ。
 美晴を紹介された老人どもは声を落とすこともなく彼女の胎としての価値を大っぴらに語り、その容姿を批評した。馬鹿らしいことだ、と直哉は思う。一人では何もできやしないのに、ひとたび標的を見つけると寄ってたかってあれこれ品定めをし始める。そうすることで仲間意識を高めているのだ。直哉はそんな粘着質でかっこ悪い、弱者の振る舞いを疎んでいた。



「ま、確かにかわいらしい子やんな。なんやお人形さんみたいやけど」

 そんな調子だったから、気の乗らない新年の会合の場を早々に抜け出して、幼い直哉はそんなことを呟いた。
 『お人形さんみたい』。美晴に対しそんな印象を抱いたのは、何も彼女が取り立てて美しいからだとか、そういう理由からではない。
 広間で見た、能面のような表情で押し黙っていた女の子の顔を思い出す。確かによく知らない大人たちに囲まれて緊張する気持ちは理解できなくはない。直哉は人見知りをする性質ではないけれど、そういう性分の人が存在することは認識していた。しかし、それでも。

(女の子やのに、ああいう愛嬌のない子はあかん)

 縁側を歩きながら、直哉はそんなことを考えた。
 にこりともしない、淡白な女だと思った。大人たちの言うように整った顔立ちをしているものの、広間で見たあの女の子は笑顔の一つも見せなかった。
 気質の古い呪術界は、権力を持つ者のほとんどを男が占めている。そんな男社会で女が賢く立ち回るには、笑顔と愛嬌が不可欠であるはずなのに―――

(いくら顔が良くても、使える術式を持っとっても、そういうとこが愚鈍な子はすぐ飽きられてしまうやろな)

 至極冷静にそんな分析をしながら、直哉はふと庭の枯山水に視線を向ける。
 その日は朝から細雪がちらちらと降り、禪院家の見事な庭園をうっすらと白く染め上げていた。
 そんないつも通りの風景に思わず目を止めてしまったのは、庭の奥に植えられたしだれ柳のそばについ今しがた考えていた人の姿を見つけたからだ。

「あー……。美晴ちゃん、やったっけ」

 直哉と同様に会合の場に飽きて出てきたのだろうか。そう考えつつ、直哉は大きくため息を吐いた。

(さっきまで大人しく広間で座っとったのに、なんや意外やな)

 借りてきた猫のようにびくびくと縮こまっていた女の子が、わざわざ会合の場を抜け出して他人の家の庭を彷徨いていることに少しの違和感を覚えた。しかし、相手は直哉と同い年の子どもだ。時にそういう大胆な行動に出ることもあるだろう。
 しゃーないなぁ、と独り言ちて、直哉は縁側から庭に降り立った。直哉にしては珍しく、女の子が禪院家の庭を一人で彷徨っているところを見つかって、大人たちに叱責されてはかわいそうだ、という憐憫の情からの行動だった。
 しかし、沓脱石に置きっぱなしになっていた下駄に足を下ろしたところで、ふと気付く。
 ざあ、と音を立ててしだれ柳の枝が揺れ、今までその枝が覆い隠していた向こうに人影が見える。柳の木に降り積もった雪と見まごうほどに眩しい白があった。

「悟君?」

 それは、直哉もよく知っている人だった。
 五条悟。言わずと知れた有名人。加えて、同年代の子どもの少ない御三家の集まりでは必ず顔を合わす相手でもある。

「あんなところで何して……」

 思わずそう呟いて、そこで言葉を切る。口を噤んでしまったことに自分でも驚いた。
 柳の木の向こうで作り物めいた美しいかんばせの悟が何かを口にするたびに、美晴がころころと楽しそうに笑い声をあげている。
 そのことに気づいたとき、どういうわけか胸の奥に黒い染みのような何かが広がるような心地がした。それは、口惜しいような、嫉むような、そんな気持ちによく似ていた。


 しばらくすると、悟を探すような人の声が聞こえた。
 庭先に姿を現した五条家の使用人が、慌てた様子で「ご当主様が悟様を探しておられます」と叫ぶ。どうやら会合の場を抜け出した悟に対して五条家の当主が立腹しているらしい。
 悟は「ちっ」とその美しい風貌に似つかわしくない舌打ちを一つ残して広間へと戻っていき、そこでようやく直哉はしだれ柳の木の下に足を向けた。

「君、こんなところで何しとんの」
「! あ、ごめんなさい……」

 去っていった悟の後ろ姿を寂しげに見つめていた美晴が、背後から近づいてきた直哉にハッと気付き、慌てて振り返る。先ほどまでのにこやかな表情は消え、途端に広間で見た静かな面持ちにつくりを変えた。

「今の、悟君? えらい仲良しやん」

 そんな美晴の変化には気付かなかったふりをして、直哉は腕を組みつつそう問いかける。美晴は俯き足の爪先を見つめながら、もごもごと口を動かした。

「……歳の近い親戚は悟さんだけだから。からかって遊ばれてるだけ」
「へえ。悟君みたいなかっこええ親戚おったらええなあ」

 それは直哉の本心であった。直哉とほとんど変わらない年齢であるにもかかわらず、五条悟に敵う呪術師はそうはいない。だから美晴も同じ気持ちで懐いているのだろう―――。そう思って呟いた言葉だったのに、美晴は意外にも不満げに口を尖らせる。

「かっこいいけど、意地悪なことも言うよ」
「あー。からかい甲斐のある子好きそうやしな、悟君。それだけ美晴ちゃんのことがかわいいてしゃーないんとちゃうか」

 拗ねた女の子の相手をするのは面倒だ。それに、五条家に縁のある子どもの機嫌を損ねるのもよろしくない。
 そんな思いから、直哉はしれっとへつらうような言葉を口にする。美晴は困ったように笑って話を逸らした。

「……禪院さんは、どんな子が好きなの?」
「直哉でええよ。うーん、そやな……」

 一拍置いて、考える。思い出したのは、ついさっき見た、悟と楽しそうに笑って言葉を交わす美晴の姿だった。

「物静かで男を立ててくれるような女の子がええわ」

 ちょっとした皮肉のつもりだった。
 悟と話しているときの美晴は明るく快活な女の子に見えたから、あえて真逆の性格を主張した。ただそれだけのことだ。

「そっか」

 しかし、それを聞いた美晴は柔らかい表情を浮かべてみせる。花の綻ぶような、淡く可憐な笑顔だった。
 ぴんと張りつめていた美晴の雰囲気が穏やかなものに変わり、どういうわけかその柔らかい雰囲気が、先ほど悟と会話をしていたときの美晴の笑顔を彷彿とさせた。

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