(昔から変わったとこあったけど、今日の悟君はいつにも増してわけわからんかったな)

 門の外まで悟を見送って離れへと戻る最中、直哉はそんなことを考えた。
 悟の実力は折り紙つきだが、幼いころからどこか浮世離れした一面があった。最強の男にそんなことを思うのも申し訳ない話ではあるが、悟の強さに憧れ敬う直哉からしても今日の悟は妙に浮足立っていたのがわかる。
 その要因が、おそらく自分の妻にあることには気付いていた。

 
 気に入らない、と思う。自分の他に美晴を気にかける男がいることも、その相手が悟だということも、そしておそらく、美晴の方も悟に情を抱いているということも。
 苛立つ気持ちを隠しつつ、足早に自室へと足を向ける。寝室の前の縁側に腰掛けて庭を眺める美晴を見つけ、直哉は静かに妻のもとへと歩み寄った。

「あら、直哉さん。おかえりなさい」
「おー」

 ぶっきらぼうな口調に、美晴が目をぱちくりさせる。不安の色をその瞳に浮かべた美晴に、直哉は「気にせんといて」と付け足した。
 昔から、直哉は美晴の表情の変化に弱かった。『惚れた欲目』だろうか、と先ほどの悟の言葉を思い出して、また、胸の奥がざわつく心地がした。

「悟君と会うたわ」
「あら、こちらにいらしてたんですか?」

 自分の隣に腰を下ろした直哉ににこにことした笑みを見せて、美晴は「お元気そうでした?」と言葉を続ける。直哉は足を組んでその上に肘をつき、何でもないことのようにこう答えた。

「ま、あの人が元気ないとこは想像つかんやろ」
「そうでもないですよ。高専に通われてたときは……」

 懐かしむように目を細め、美晴はそう呟いた。その顔を見て、直哉は思わず白けた目つきで美晴を見つめてしまう。そのことに気づいた美晴の表情がこわばった。

「……すみません」
「いや、謝らんでええよ」

 何だかもう、限界だった。直哉はわずかに力を入れて、隣に座る美晴の肩を押す。
 鍛え上げられた直哉のそれとは違う、細く華奢な身体はすぐに倒れ伏してしまった。

「なあ、美晴。一つ聞きたいんやけど」
「は、はい。何でしょう……」

 直哉の一挙一動に、美晴が驚き目を見開いている。その動揺する様を見て、直哉は思わず口の端に笑みを浮かべた。直哉の小さな行動ひとつで顔色を変えてしまう、か弱く憐れな女の存在が愛おしく思えた。
 直哉は美晴の耳もとに口寄せると小さな声でこう問いかける。

「悟君のこと、好きやったんやろ?」

 怯えるように瞬いていた美晴の瞳が、ハッとしたようにこちらを窺った。彼女のその眼球に己の歪んだ笑みが写っている。

「直哉さん、何を……」

 か細く続いたその声は、狼狽えるように震えていた。美晴はいったいどう答えるのだろう。そう考えて、直哉は自嘲するように鼻で笑う。

(言われんでもわかるやろ。悟君と喋ってるときのあの笑顔に惚れたんやから)

 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 どうせ美晴の心が悟のもとにあるのなら―――。そんなことを考えて、直哉は怯えて固まっている美晴の両手首を片手で捕まえた。
 少し力を入れれば折れてしまいそうな細さだった。彼女の手を拘束したまま、直哉は無理矢理口を塞ごうとする。そんな押し切るような行為を、美晴は必死に首を振って拒んだ。

「ゃ、……。やめてください……」
「やめへんよ。美晴は俺のもんやろ」

 至近距離で目と目を合わせ、直哉は言葉を続ける。

「俺のこと恨んでもええ。ただ、好きって一回だけ、言ってくれへん?」

 吐き捨てた言葉は、縋るような響きを孕んでいた。情けない、これまでの直哉であれば決して口にしなかった物言いに、美晴の動きが止まる。直哉は何だか居たたまれない気持ちになり、そっと目を伏せた。
 ほんの一瞬、静寂が訪れる。そして。

「……こんなに大好きなのに、一回しか言わせてくれないんですか?」

 直哉の下で、小さくそんな声が聞こえた。

「あ?」

 思わず目を見開くと、押し倒されている美晴が照れた様子で目を逸らした。いよいよ訳がわからなくなり、直哉は低い声でこう続ける。

「そんならなんで嫌がってん」
「……こんな誰が通りかかるとも知れない場所でするのは誰だって嫌だと思います!」

 いつも上品な振る舞いをする美晴にしては珍しい、強い口調だった。キッとこちらを睨む瞳の虹彩に、ぽかんと口を開けた己の顔が映っている。

「……悟君は?」
「そもそもどうしてそんな話になるんですか……。私、悟さんに対しては親戚以上の感情はないです」
「楽しそうに喋ってるやん、いつも」
「直哉さんと喋ってるときのほうが楽しいですよ」
「なんや俺に対して他人行儀なとこあるし」
「そ、それは」

 美晴はそこで言葉を切った。見下ろした白い肌がどんどん赤く染まっていくのが分かる。

「……直哉さんが言ったんじゃないですか」
「はァ?」
「昔、はじめて会ったとき。『物静かで男を立ててくれるような女の子がいい』って。だから私、直哉さんに好かれたくて」

 そこまで言ったところで、美晴は両手で顔を隠そうとする。いつの間にか、拘束する手を緩めてしまっていたということにそのとき初めて気が付いた。
 直哉はもう一度美晴の手を捕まえて、頬を紅潮させたその顔をじっくりと見つめる。そのことに気付いた美晴が視線を逸らそうとするのを阻むように言葉を紡いだ。

「……いつから?」
「え?」
「いつから好きやったん、俺のこと」
「……初めて会ったときから、ずっと」

 ―――言わせないでくださいよ、そんなこと。
 そんな言葉を続けて、美晴はほとんど泣きそうな様子で顔を歪めた。その表情に、直哉の胸の奥に沸き立つような満足感が広がっていく。

「なんなん、美晴ちゃん」

 直哉はそこで大きく息を吐いた。

「めっちゃかわええこと言うやん」

 美晴はまた、顔を赤くして「そんなこと、」だの「何を言い出すんですか」だの的を得ない言葉を並べている。
 いつも落ち着いて、穏やかに微笑んでいる美晴からは想像もできない姿だった。
 直哉はその表情を焼き付けるようにとくと眺めながら、抑え込んでいた手を放す。そうして甘ったるい声を作ってこう言った。

「なあ美晴ちゃん、俺のお願い聞いたって」

 解放されたばかりの手で顔を隠そうとする美晴の行動を阻むべく、指と指を絡ませるように手を繋ぐ。
 ほとほと困り果てた顔をした自身の妻と目を合わせ、直哉はうっそりとした笑みを浮かべた。
「明日、朝勝手に起きひんといて。俺、毎朝寂しいねん」
 目を逸らしつつも顔を真っ赤に染め上げて、美晴はこくこくと必死に頷いた。その様子を見て、直哉はくつくつと喉を鳴らして笑う。
 蓋を開けてみれば、こんなにも簡単なことだったのだ。それに気がつくまで、こんなにも時間を要してしまうだなんて。
 そんなことを考えながら、直哉は目の前にいる自分の妻のまろい頬にそっと口付けを落とした。


 どうやら明日の朝には『賭け事』に勝てそうだ。そんな確信があった。
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