『初恋』なんて陳腐で曖昧な言葉は嫌いだった。
 けれど、自分にとっての『初恋』はきっと美晴だったのだろう。今になってみて、直哉はそんな甘ったるい感情を抱いてしまう。


 直哉は元来まっすぐな男である。美晴に惹かれ、恋をしてからというもの、彼女を手に入れるための努力を惜しんだことはない。
 好いた女一人守れぬ男ではいけないとこれまで以上に武芸の訓練に熱心に励み、術式の精度を磨いた。呪術師同士の集まりで美晴と顔を合わせたときには普段の直哉では考えられないくらい甘く優しい態度を取ってきたと思うし、実際特別扱いすらしていたように思う。
 そうして彼女との距離を縮め、親睦を深めた。あの日言葉を交わすのに緊張した面持ちを見せていた美晴も、段々と直哉の前でも笑顔を見せる頻度が増えていき、そして十を越える年月が過ぎたころ。
 ようやく仲睦まじい同年代の男女ふたりの縁談話が持ちあがるところまでこぎ着けることができたのだ。

 直哉からしてみれば、それだけの努力をしてようやっと手に入れた女である。禪院家に入る以上、妻としての務めを果たしてもらう必要はあるものの、それ以上に甘やかしてやりたい―――そして直哉なしでは生きられなくなるほどに己に依存して欲しいというどこか邪な―――気持ちが強かった。


 そんな理由から、結婚式の翌朝早々に身体を起こした美晴に、直哉は殊更に甘い声色を作ってこう言った。

「美晴ちゃん、今日ぐらいええんやで」

 手枕で寝そべりながら、手櫛で髪を梳かしている美晴の横顔を見つめた。あの日見た雪景色のように白く透き通った肌には、ぼんやりとした隈が浮かんでいる。

「いや、でも……」
「ゆっくりしときぃや」

 無理をさせた自覚はあった。ただでさえナーバスになる花嫁という立場に加え、呪術界の老獪な魑魅魍魎たちが集まる混沌とした婚礼の儀である。
 気疲れしないはずがないし、そして何より、昨晩及んだ行為が美晴の身体を消耗させたことも想像に難くない。
 だからこそ、今日のこの日くらいのんびりと朝寝に勤しんだところで誰も―――それこそ直哉自身も―――美晴を責めやしないだろう。そう思って声をかけたのに、美晴はおずおずと口を開いた。

「大丈夫ですよ、それより……」
「ん? どうしたん?」
「……いえ、なんでも」

 直哉の言葉を受け流すようにそう呟いたあとで、美晴は視線を彷徨かせる。

「隠されると気になるやん」
「本当に、気になさらないでください。……あ、そういえば、今日は悟さんがいらっしゃるんじゃ?」

 美晴は口もとに笑みを浮かべて、たった今思い出したかのようにそう告げた。今日は、昨日突然現れた特級呪霊の祓除のため、結婚式を欠席していた悟が祝いの言葉を述べるべく禪院家を訪れる手筈となっていた。
 美晴の縁戚で、禪院家と並ぶ名家の当主が訪れるからにはこちらもそれなりのもてなしをしなければならない。その準備にあたるために早々に起き上がりたいという気持ちも分からないではないが―――。そこまで考えて、直哉は十年ほど前のあの冬に見た美晴の表情を、唐突に思い出した。


 花笑むような笑みだった。有象無象の呪術師とは違う、確かな実力といっそ神仏のような美しい人をしかと見据え、瑞々しく頬を染めていた美晴のあの表情。
 あれは、あの笑顔は悟だけに向けられたものだったのでは―――
 そんな疑念が直哉の頭を過ぎる。


 そも、直哉が美晴と婚姻を結ぶことになったのは、直哉がそれを強く望んだためだった。
 禪院家と美晴の実家では、家の格が大きく違う。格上の、それも縁戚たる五条家と同じだけの権力を持つ家から求婚されて、美晴は断ることなど出来なかったのではないだろうか。
 そのことに思い至り、直哉は美しい笑みを浮かべる妻から目を逸らしてしまう。
 もしそうであるのなら、もしも悟の存在が美晴の心を乱しているのなら。
 直哉に勝ち目などないのではないか。そんなことを思ってしまったからだ。


「そりゃ、悟君には敵わへんやろ……」

 朝食の準備をしてきます、と告げて寝室を後にした美晴を見送って、直哉は小さくそう呟いた。敷きっぱなしの布団に仰向けに寝転んで、じっと天井の梁を見据える。
 直哉にしては珍しく、弱音を吐いてしまったのも無理もない話だった。
 五条家の相伝術式である、無下限呪術と六眼の二つの能力をその身に宿した悟は、それはもう幼いころから別格の呪術師として一目置かれていた。幼いころの直哉も、年の近い実力者に憧れ、『こうなりたい』と強く願ったものだった。
 そんな憧憬の眼差しが、畏敬の念に変化してしまったのは―――彼が禪院甚爾を打ち破ったことを耳にしてからだ。
 悟や甚爾に並ぶ呪術師になることが、直哉の夢であり目標だ。そのための努力はしてきたし、それが故に禪院家の誇る術師集団を束ねる筆頭の地位にまで上りつめることができた。
 しかし、そうして自分の力を磨くにつれて、ひしひしと理解してしまうのだ。甚爾や悟と立ち並ぶほどの実力が、今の自分にはまだないということを。


 そのころ既に呪術師として一廉の実力を認められてはいたものの、直哉は自分のことをそんなふうに分析していた。冷静で、状況に応じて立ち回ることの出来る自身の器用さが自分の利点だと思っていた。しかし。

(なんぼ要領良く世渡りできても、好いた女一人ものにできひんとは思わんかったな)

 そんなことを考えて、直哉はそっと寝返りを打つ。障子の向こうから、朝の強い日差しが燦々と差し込んでいることに気が付いて、自身の腕で目元を覆った。
 もし美晴が悟に惚れていたとしたら。だからこそ自分と過ごす時間を少しでも減らすべく早々に寝室を出て行ってしまったのだとしたら。
 そんな疑念だけが直哉の心を蝕んでいく。今の自分では、悟に敵わないことは百も承知である。しかし、それでも―――
 もし、美晴の心を手に入れられなくとも、せめて少しでも惚れた女の拠り所になることが出来たなら。そんな殊勝な思いから、直哉は勝率の極めて低い賭けを始めてしまったのだ。





 美晴との新婚生活は、直哉が思い描いていたほど悪いものではなかった。
 美晴はよく気の利く性質で、この離れにいるときも母屋へと足を運んだときもそれはもうよく働いた。
 あのころ悟と言葉を交わしていたときのような快活な笑みを浮かべることはなかったものの、美晴はもともと笑顔を絶やさず男を立てることの出来る淑やかな女である。
 当主である直毘人や直哉の母からの覚えもめでたく、「良い嫁をもらったものだ」という禪院家の親戚の間で広まる評判が直哉の耳にも入るほどだった。
 そんな調子だったから、直哉としても、この穏やかな生活が続くのであればそれはそれで良いのかもしれない、などという惰性のような気持ちを抱いてしまっていた。
 それを打ち砕いたのは、予想通りというべきか、あの強く美しい男だった。

 その日も直哉は早々に『賭け事』に負け、美晴の用意した朝食をありがたく頂いた。躯倶留隊の訓練を覗き、気まぐれに信朗との組手などをしてみせた後でぶらりと母屋の廊下を歩いていると、廊下の奥からこちらへ向かってくる人の気配を感じた。

「お、直哉じゃん」

 きわめて軽薄な声色で「おっつー」なんて言葉を吐いて、すらりと背の高い白髪の男が手を振っている。珍しい人物が現れたことに直哉は驚き目を瞬かせた。

「悟君か。どないしたん、こんなとこで」
「ちょーっとそちらのご当主様に用があってね」

 自分のうなじを触りつつ、悟は隠すことなくそう言った。十中八九、彼が数年前に引き取った禪院甚爾の忘れ形見のことだろうと当たりをつけて、直哉はわざと素知らぬふりをする。

「さよか。珍しい人が珍しいとこにいてはるからびっくりしたわ」
「僕も久々に来たから迷うかと思ったよ。他人の家って覚えられないよね〜。てことで玄関まで連れてって」

 悟は勝手気ままにそう告げる。傍若無人にも見える態度ではあるけれど、それが許されるだけの才覚と強さが悟にはあった。それを痛いほど理解しているから、直哉は文句の一つも言わずに「はいはい」と悟を案内する。
 歩き出した直哉の隣に並び、悟は淡々と言葉を重ねた。

「オマエと会うのも久しぶりだね。結婚した次の日に会って以来?」
「そうやな。その節はどうも」
「もう一年ぐらい経つんだっけ? どう? 新婚生活は」

 隣を歩く悟の、サングラスの奥にある宝石のような瞳がこちらを窺っている。きらきらと輝くような美しい眼差しを尻目に、直哉は肩を竦めてみせた。

「まあ、ぼちぼちやな」
「へえ、そうなんだ」

 なんとなく、直哉はしらを切るようにそんな言葉を返した。胸の内にある疑念を悟にだけは知られたくない。そんな思いからだった。
 しかし、そんな心中を知ってか知らでか、悟は目を細めて言葉を続ける。

「あいつ結構我が強いとこあるし、直哉も苦労してんじゃないの?」
「……いやあ、そんなことはないで。美晴ちゃん、めちゃめちゃお淑やかやし、気立ても良いし」

 楚々として、貞淑。直哉にとっての妻は、そんな言葉の似合う女だった。しかし悟はそんな女など知らないとでも言うかのように、美晴のことを『我が強い』と表現する。
 まるで、直哉が美晴のことを何もわかっていないということを突き付けているようにも思えて、心臓が冷えるような心地がした。

「ふーん。猫被ってんだな、きっと」

 悟はそんな直哉の様子を気に留めることもなく、何でもないような口調でそう宣った。それから悟は思い出したかのように「あ、」と声を出す。

「どうしたん」
「いや、すっかり忘れてた。そっかそっか。そりゃ美晴も淑やかにもなるわ」

 悟はにやにやとした笑みを浮かべ、「なるほどねえ」と頷いている。

「惚れた欲目というか、蓼食う虫も好き好きというか」
「は? 何を言うとん?」

 不可解なことを言い出した悟に直哉は訝しげな目を向ける。悟はその一切に頓着することなく、最後にこんな言葉を並べてみせた。

「水魚の交わりに、鴛鴦の契りってね」
 
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