不香の花


 ふと窓の外に、細雪がちらついていることに気がついた。
 書類をシュレッダーにかけていた手を止めて、そっと窓辺へと足を向ける。ビルの十階の高さから外の世界を見下ろすと、そこでは誰も皆慌てて傘をさしはじめ、まるで地面を多彩な色で染め上げているようにも思えた。
 ただ呆然と、地上を歩く色とりどりの傘を見る。こんな局面に至ってもなお、人間は活動を止めないのだから強いものだ。そんなことを考えながら、志鷹春香は片付けを再開するべく部屋の中心部へと舞い戻った。
 数個の事務机が向かいあうように並べられた室内には、閑散とした雰囲気が漂っている。
 無理もない。春香の勤める会社の廃業が決まってから、早ひと月。小さな零細企業の社員たちは早々に片付けを終え、残るはこの事務所の最終的な始末を任されたわずかな人数のみとなってしまっていた。

「あら、降ってきちゃったのね」

 そんな声が聞こえ、思わず振り返る。
 つい先ほどまで帳簿の並んだ棚を片付けていたふくよかな女性が、今度は段ボール箱を組み立てながらこちらを見てにこにこと笑っていた。

「春香ちゃん、傘は持ってきた?」
「はい、折り畳みですが。田中さんは?」

「私もばっちり持ってきてるわ。今夜はかなり降るらしいし、さっさと終わらせて帰りましょう」

 そうですね、と相槌を打ち、春香は再びシュレッダーに向き直る。破砕音を響かせながら機械が書類を飲み込んでいくさまをぼんやり眺めていると、また、田中がのんびりとした声を上げた。

「私たちもついてないわねえ。働いている会社が急に無くなるなんて、思ってもみなかったわ」
「社長があんな形で亡くなられましたし、しょうがないですよ」
「まさか東京出張中に巻き込まれるとはね。怖いわよねえ」

 口もとに手を当てて、田中はそんなことを呟いた。穏やかで、上品な態度。きっと、何が起こっているかなど想像もつかないのだろう。春香は目を細めてゆっくりと頷いた。
 羨ましいと思った。今この日本で何が起きているかなど、知らない方がどれだけ幸福か。そのことをしっかりと理解できている人はそう多くはない。

「『呪霊』とか言ったかしら。映画の中の話みたいで、現実味がないわ」

 田中はそう言うと、棚にあった帳簿類を詰めた段ボール箱にガムテープで封をした。その様を見ながら、春香は曖昧に笑ってみせる。
 一千万を超える『呪霊』なるものが東京に解き放たれ、二十三区を壊滅状態にまで陥らせたという報道がなされたのは二か月ほど前――十月の終わりの出来事だった。
 東京・渋谷で起きた呪術テロ『渋谷事変』。昨年『新宿・京都百鬼夜行』を企てた――そしてその際五条悟によって処刑されたはずの――夏油傑を首謀者として引き起こされたその事件は日本全国を混乱の渦の中に突き落とした。
 当然のことだ。日本の首都機能を破滅させ、多くの人間の命を奪った原因が『呪霊』などという得体の知れないものにあると報道され、簡単に信じることの出来る者などほとんどいなかっただろう。

「よし、これで終わりね。さっさと帰りましょう」

 重たい段ボールを部屋の片隅に寄せて、田中が大きく伸びをする。彼女の言に従うように、春香はシュレッダーの電源を落とし、コンセントを抜いた。


 会社の入ったオフィスビルを出て、田中と二人、傘をさしつつ並んで歩く。傘と傘の露先同士が重なり合ってしまうほどの至近距離で、田中が心配そうに春香の表情を伺った。

「春香ちゃん、うちの会社にも来たばっかりだったのに急にこんなことになって、大変ね。これからどうするか決まってるの?」
「いえ、正直何も。……まあ、失業保険も出ますし、これからゆっくり考えてみます」

 白く柔らかい雪が色とりどりのイルミネーションに輝く街並みをぼんやりと照らしている。
 まだ前職に従事していた昨年はこうしてクリスマスの気配を楽しむこともできなかったことをふと思い出した。焦燥に煽られ、悲嘆に暮れる必要のない生活は酷く穏やかで、春香の選択が間違いないものであったと強調してくれているようにも思えた。……そう自分に言い聞かせていた。

「職場は離れちゃうけど、何かあったら頼ってくれていいのよ」

 優しい人だな、と思う。春香には甘えられるような親がなかったから、優しい母のような田中の存在は、短い付き合いながら心の支えでもあった。

「田中さん」
「なあに?」

 品のある笑みを浮かべて振り返った田中に、春香は何かを告げようとする。しかし、その言葉を口にするまでのわずかな時間に、あるものを視界の端にみとめて、慌てて繕うように口角を上げた。

「……いえ。お互い、気を付けましょうね。近ごろいろいろきな臭いですし」
「ええ、春香ちゃんもね」

 すでにいつも田中と別れる道の曲がり角に差し掛かっていた。握手を交わし、手を振って去っていく田中を見送ったあとで、春香は大きなため息を吐き、先ほど見つけたものに視線を移した。


 目の前を、数本の手が生えた歪な動物のようなものが横切っている。おどろおどろしい姿。けれど、化け物のようなそれが大した力を持たない類だということを春香はよく知っていた。
 ゆっくりと辺りを見渡してから、その化け物に近づいた。拳を握り、手に力を込める。
 バシッという音を立てて殴りつけた蠅頭が霧散したところを一瞥すると、春香は家に帰るべく踵を返した。


 □


 春香が呪術界と袂を分かつことになったのは今年の三月のことだった。
 それまで勤めていた補助監督の職を辞し、一般企業で働き始めてから九か月。ようやく“普通の”仕事に慣れることが出来たのに、まさか会社そのものが無くなってしまうなんて。補助監督を辞めるときには思ってもみなかった突然の出来事に、春香は人知れずため息を吐く。

「時期尚早、だったかな……」

 そんな独り言が、ぽつりと誰もいない路地裏に響いた。しかし、たとえ補助監督を続けていたところで行き着く先は同じだったのかもしれない。きっと日本全体がこの境地に至ってしまった以上、これまで通りの生活を続けることの出来る者はそう多くはないだろう。
 薄暗く狭い道を歩きながら春香はゆっくりと思考を巡らせる。ちらちらと舞い踊るように降る雪が、どこか懐かしく思えた。
 ああちょうど、去年の今ごろのことだ。補助監督を辞める決断をしたあの日のことを、春香はとてもよく覚えている。
 耐えられないと思った。命を擦り減らし、いつ死ぬともしれない現場に学生たちを引率することが怖くてたまらなかった。大人は助けてくれはしない。そんなことをまだ年若い子どもたちに植え付ける役目を買って出ることが、どうしても出来なくなった。
 だから、逃げた。有り体に言えばそれだけのことだ。

『……そんで君が逃げて、それが何の役に立つん』

 ふと、そんな声がリフレインする。補助監督を辞める決断をしたときに、彼に言われた言葉を思い出す。
 逃げようとする春香を、唯一引き止めたのがその男だった。他の人々は皆、新天地を開こうとする春香の背中を押してくれた。しかし、たった一人、その男だけが春香を糾弾した。
 思い返してみれば、男の言葉はきわめて正論に近かった。春香が補助監督を辞めたところで、学生たちは呪霊と戦う道を避けられはしない。結局のところ春香の逃げを周りは優しく見守ってくれただけだったのだと、今となってはそんなことを思う。

(私はいつも人の厚意を無駄にしてる)

 帰路を歩きながら、自嘲した。逃げを打とうとしていた春香に真っ向からぶつかって、春香の決断を責め立てたその人も、今はもう、この世にいない。


 補助監督を辞めたとて、情報だけならいくらでも入ってくる。天涯孤独の春香にとって、呪術高専は実家であり、故郷だった。そこで知り合った同僚や学友との付き合いは春香が仕事を辞めたくらいでは絶えることはなく、さまざまな情報をもたらしてくれた。
 五条悟の封印。壊滅状態の東京。高専時代の先輩であった、七海建人の死。
 これまで想像もしていなかったことが、この世界で起こり始めている。そのことに思い至り、ぎゅ、と強く傘の柄を握りしめた。

(そして、あの人も死んでしまった)

 件の彼に、思いを馳せる。正しく言えば、殺されたらしい。そんな情報も春香の耳には入っていた。
 きっと、恨みでも買っていたのだろう。口が悪く、人の憎悪を集めやすい男だったから無理もない話だ。そう思いながら、春香は人知れずやるせない気持ちになった。
 傘を持つ手の指先が、冬の寒さに悴んでいた。手袋の一つや二つ、身に付けるべきだったのかもしれない。しかし、長年の惰性が春香にその選択肢を与えなかった。
 痛みさえ伴う指先にふう、と息を吹きかける。
 誰もいない路地裏にその音と春香の足音だけが響いていた。早く家に帰ってしまおうと、頭を振って足を踏み出したところで――ふと、気づく。衣摺れの音。人の気配。春香以外の人物がこの路地裏に存在することに。
 何一つおかしいことではない。先にあるのは春香の住まう安アパートだけ。それでも、その住人がこの道を通ることなんてざらにあることだ。しかし、春香が気になったのはそんなことではない。その人の気配が、残穢が、よく知る人のものに思えてならず、春香は衝動的に足を止めた。

「なあ、気づいとるんやろ」

 この片田舎では珍しい京都弁が辺りに響く。久しく聞いていない方言。それでも、それを形作るのが、もうずいぶんと聞き慣れてしまった声だということにすぐに気がついた。
 思わず、心臓が跳ねる。まさか、という言葉が頭の中をぐるぐると回った。振り返るべきなのか、このまま立ち去ってしまうべきなのか。そんな二択に挟まれて逡巡しているうちに、その声がまた「相変わらずのろまやなァ」と春香をせせら笑う。

「背後取られて固まるなんて、ほんまに呪術師としての才能ないんやね」

 恐る恐る振り返ってみれば、黒いダッフルコートを身に纏った男が、泰然と佇んでいた。

「なんで、こんなところに……」

 というより、どうやって――?
 そう続けたかった言葉をごくりと飲み込む。
 声を聞いて、予想した通りの人物だった。しかし、その一族すべてが惨たらしく殺されたと聞いたのは、ほんのひと月ほど前のことだ。
 そんな男がここに現れたことに慄然としながら、春香はまっすぐと男を見据える。コートのフードを深く被ったその顔を覗き込み、唖然とした。

「どうされたんですか、その……」

 先に続く言葉を口にすることができず、春香はぎゅっと唇を結ぶ。

「男前が上がったやろ」

 男はそう言って口の端を歪めるように笑った。それは見慣れた彼の笑い方であったけれど、どうにも違和感は拭えなかった。彼の整った顔立ちの、その半顔が引き攣るように爛れていることに気付いてしまったからだ。

「亡くなられたと、聞いていましたが」

 思わず、声が震える。男は春香の動揺を鼻で笑い、言葉を続けた。

「嫌やなァ、春香ちゃん。幽霊にでも会うたみたいな顔して」
「……実際それに近いですよ」
「酷い話やでほんまに」

 喉の奥を鳴らしてくつくつと笑う。いつも通りの彼の仕草に、少しだけ安心を覚えた。

「仕事帰り? ご苦労さん」
「はあ、まあ。今日で終わりですけどね」
「そりゃまたなんで?」
「社長が渋谷の一件に巻き込まれて亡くなりまして。会社を畳むことになったんです」

 春香の言葉に、男はしらけたような笑みを浮かべる。

「へえ、運もないんやなあ。そんなんやったら君、今暇を持て余しとるやろ」

 男はそう呟いて肩を竦めた。そんな何でもない仕草が酷く絵になってしまう人であり、そういうところはこういう場面でも変わることはない。からからとした笑みを浮かべて、彼はこう言葉を続けた。

「ちょっと付き合うてや、補助監督さん」

 男――禪院直哉はそう呼びかけて、その吊り上がったまなじりをそっと細めた。

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