みなそこに沈む
夏の強い日差しが、ハンドルを握る手をじりじりと焼いていた。学生時代には堅苦しく、扱いにくそうだとばかり思っていた黒塗りのセダンも、運転する側に回った今では我が子のように愛着が湧いている。
高専の制服を脱ぐと同時に袖を通すことになった黒一色のスーツもそうだ。ネクタイの結び方がわからず戸惑ってしまったのも、最初だけ。今となってはただの日常になってしまった日々を、春香はただ着実に、正確に、全うすることだけを考えて生きている。
高専を卒業して、三年。補助監督としての仕事にもようやく慣れ、高専所属ではない呪術師――すわなち、御三家やそれに連なる旧家の呪術師たち――のサポートの役割を任されることも増えた、そんな時期のことだった。
ルームミラー越しにその男の顔を覗き見る。後部座席にふんぞり返るように座っているのは、高専が決して安くはない金を積み、わざわざ仕事を依頼した御三家の呪術師だ。
特別一級術師、禪院直哉。
高専に属してはいないものの、確かな実力を持つことを示す『特別一級』の等級を冠したその男と共に任務に就くのはこれでもう何度目になるだろうか。
マイノリティの集まった呪術界はもともとが狭い業界であり、高専の所属であろうがなかろうが、連れ立って任に当たるなんてことはざらにある。
通常であれば回数をこなすごとにその術師の人当たりや性格を理解して仕事に取り組みやすくなるはずなのに、何度顔を合わそうと春香は直哉のことが少しだけ、苦手だった。
呪術師という生業は、呪いを以て呪いを制すというその特性上、所謂“良い人”というのはそう多くはない。人間の負の感情から生じる呪いを扱うのだから至極当然の話であると言えるけれど、その中でもこの禪院直哉という人物は殊更に気が強いというか、傲岸というか、口が悪いというか――つまり、端的に言えば“感じの悪い人物”として春香の脳内に記憶されていた。
(呪術師なんてみんな性格は良くないけど、それでも、なあ……)
車を丁寧に走らせながら、そんなことを考えた。
ほとんどの呪術師が一癖も二癖もある性格をしていることなんて、百も承知。春香だってもともとは術師を志していた身の上だ。良い人が、優しい人が呪術師に向かないことなんて、よくわかっている。
(まあ、補助監督だけを見下してるわけじゃないから、まだ何とか耐えられるけれど)
いついかなるときも不遜な態度を崩そうとしない直哉ではあるけれど、補助監督という前線に出ることのない立場を揶揄して威圧的な振る舞いをしているわけではない。呪術師だろうが、補助監督であろうが、時には同じ禪院家の出の者であっても一様に居丈高な態度を崩すことはなく、そういうところは他の旧態依然とした呪術師たちより比較的――いや、雀の涙ほどほんの僅かに――マシだとも言えた。
そんな印象だったから、本日、その禪院直哉が対応する一級呪霊の祓除任務のサポートに当たることが決まったときには辟易としつつも、仕事ならしょうがないか、と複雑な気持ちを何とか飲み下すことが出来た。もしかすると、ある種諦めのような感情だったのかもしれない。そんなことを思いつつ、春香は後ろに座る直哉に声をかける。
「あの、直哉さん?」
直哉は車の窓枠に肘をつき、何も言わずただ外の風景を眺めていた。春香の呼びかけにちらりと視線だけを寄越したものの、またすぐに窓の外へと視線を戻してしまう。
あたかも春香と言葉を交わす価値はないとでも言うような、そんな無礼な態度だった。しかし、そんなことは直哉に限らず日常茶飯事だ。特段気にすることなく春香はルームミラーに映る男にもう一度声をかけた。
「このまま行けば思ったよりも早く現着できそうなんですが」
京都から滋賀方面へと繋がる高速道路は、平日昼間ということもあり車の数もそう多くはない。この分だと予定より早く本日の任務予定地に到着することが出来そうだ、と判断しての言葉だった。
「サービスエリアとか、寄られますか?」
「……どこ?」
「ここからだと多賀が近いですね」
直哉は少し考える素振りを見せたあとで、「おー」とだけ相槌を打った。その生返事を肯定の意味だと解釈して、春香は頭の中でこのあとのスケジュールを組み替える。本日の任務予定地まではここからあと一時間ほど。余裕を見て京都高専を出発したため、まだまだ時間には余裕がある。春香はサービスエリアに立ち寄るべく、ウィンカーを出し、ハンドルを左に切った。
高速道路上と同じく、立ち寄ったサービスエリアも特に混雑などはせず、数台の乗用車と大型のトラックが駐車されているのみだった。
車を停めた途端にどこかへふらりと立ち去ってしまった直哉に倣い、春香もお手洗いを済ませる。補助監督として呪術師の仕事に付き添う際にいつも使用している小さなショルダーバッグからハンカチを取り出し、手を拭いた。
人が少ないのを良いことにトイレの鏡でさっと化粧を直し、駐車場へと戻る。乗ってきた車の近くには未だ人影はなく、同行者が戻っていないことを知らせていた。
(直哉さん、どこに行ったんだろ……)
立っているだけで汗が伝うような暑さの午後だった。ハンカチで首筋を拭いつつサービスエリアに併設されたコーヒーショップに足を向ける。
昼食を食べてすぐに車の運転をし始めたこともあり、眠気が生じはじめていた。このまま行けばうつらうつらしながら運転する羽目になるかもしれない。もちろん、後ろに乗せている人の発する緊張感が今現在は眠気の一つすら感じない効果を生み出してくれているが、念には念を、だ。
そんなことを考えて、春香は辿り着いたチェーン店で眠気覚ましのアイスコーヒーを注文する。
若い女性店員に伝えられた額のお金を払おうと財布を開けたタイミングで、ふと、背後に現れた気配に気が付いた。
「直哉さんも飲まれます? ついでに出しときますけど」
ちらりと振り返ると、そこには思った通りの人物が佇んでいた。端正な顔立ちをした男が突如現れたことに、店員の女性がきらきらと目を瞬かせているのがわかる。女性のその反応も理解できなくはない。和服に金髪、ピアスといった物珍しい出で立ちも、この男が着ているだけで特別に洗練されたものに見えるのだから、羨ましいものだ。
そんなことを考えていると、直哉が眉を顰め、不機嫌な声色でこう告げた。
「……女に奢られるのは好かんわ」
「いえ、経費で落とします」
春香自身の飲食代は当然自分で払わなければならないが、わざわざ呪術高専の依頼のもと御三家から出向いてくれた特別一級術師の分であれば、簡単に経費として認められる。そう判断しての言葉だったのに、直哉は呆れたようにため息を吐いた。
「かわいげないなあ、自分」
「……かわいげあったらやっていけないですよ、この業界」
「ま、そらそうか」
意外にも穏やかな相槌だった。態度は悪いし口も悪いけれど、直哉は必要以上に人を貶めることも嘲ることもしない。不思議な塩梅の人だな、と春香は思う。悪い人ではないと思うけれど、直哉のこういう読めない性格が春香はどうにも苦手だった。
コーヒーショップを出ると、夏の湿度を含んだ風が容赦なく二人を吹き付けてくる。一台の車の中、二人っきりでここまでやってきたはずなのに、彼と並んで歩くという珍しい場面に少しだけどぎまぎしてしまう。普段は歩幅の差を考えることなどなくどんどんと進んでいってしまう直哉を追いかけることが多かった。
駐車した場所へと戻るだけというほんのわずかな時間である。しかし、なぜだかそわそわと落ち着かず、春香は気まずい沈黙を破るべく口を開く。
「私の故郷に、割と有名な観光地がありまして」
歩いている道中に、その地名の入ったナンバープレートを付けた車があった。この話を始めた理由なんてそんな瑣末なきっかけに過ぎない。「ほら、あそこです」とその車のナンバープレートを指さしてみれば、直哉が視線をこちらに向けたのがわかった。
「えらいド田舎の出なんやね、君」
まるで哀れむように、直哉はしみじみとそう言ってのける。
「京都出身の直哉さんから見たらそうでしょうけど、結構人が集まるんですよ。いわゆる『名勝』とでも言うんでしょうか。雪深い土地なんで、冬なんかは手前の温泉街までしか立ち入れないんですけどね」
話しながら、春香はこの話を振ったことを後悔しはじめていた。そもそもただの補助監督の故郷の話など、直哉にとっては全く興味のない内容だろう。春香にとってもその土地で起きたことは話していて気持ちの良い話題ではない。運よくそのタイミングで乗ってきた車に辿り着いたことに、ほっとため息を吐いた。
ほんの十数分駐車していただけなのに、ドアを開けると車内はむせ返るほどの熱気を孕んでいた。後部座席に座った直哉も、不快そうに眉間に皺を寄せている。春香はさっさと車のエンジンをかけ、冷房の温度を二度ほど下げた。
そのまま出発し車を走らせていくと、車内の温度も段々と快適なものに変わっていく。ドリンクホルダーに置いたアイスコーヒーが汗を掻いていた。後ろに座る直哉が先ほど購入したばかりのコーヒーをごくりと喉を鳴らして飲み込むさまがルームミラーを介して目に入る。何をしていても絵になる男だと、そんなことを思ってしまった。
「……何が有名なん、そこは」
じろじろと観察していたことが気取られてしまったのだろうか。不意に直哉がこちらに視線を寄越し、鏡越しに男の鋭い眼光と目が合った。ついさっき話題にした単なる世間話を広げてくれる気があるようだ。男の意外な行動に、春香は驚きを隠せないまま話を繋ぐ。
「■■峡谷って、聞いたことありませんか?」
「名前だけなら」
淡々とした口調で直哉は応えた。何かを探るような目つきをしている。そう考えて、それからそれはただの被害妄想かもしれないと思い直した。
「さっきも言った通り、冬は寒いし雪が積もるしでとても行けたものじゃないので、夏にでも行ってみてください」
明るい口調を取り繕って、春香は話を切り上げる。どうしてこの話題を振ってしまったのか、我ながら不思議でならなかった。深い話を出来るほど、直哉に気を許しているわけではない。そうでなくても春香はこの話を他の誰にも伝える気がなかったのだ。
「で、何で君はわざわざその話題を俺に振ったん?」
春香の考えを見透かすように、直哉の口からそんな言葉がぽつりとこぼれた。春香のちょっとした心の機微に気がついたのかもしれない。鋭い人だな、と感心すらしてしまう。誤魔化そうと思ったけれど、鋭敏なこの男を相手に上辺を取り繕うことができるはずもなく、春香は諦めて言葉を繋いだ。
「……あの地名を見たらちょっと思い出したことがあって」
まっすぐと伸びる道を見据えながらそう呟く。直哉がこちらを窺っているのが気配でわかった。
「一度だけ、冬にその場所に行ったことがあるんです」
幼い時分、あれは確か、春香がまだ十歳にも満たないころのことだった。母親の手に引かれて向かったその先に、件の峡谷は存在した。
景勝地としても名を馳せていたその場所は、夏や秋には行楽や紅葉狩りに人が集まり賑やかになる反面、冬の時期には麓にある小さな町ですら静まり返ってしまうほどに寂れた土地でもあった。
春香には故郷の記憶はほとんどない。あるのはあの日の母の手のぬくもりと、峡谷の絶景だけだ。そんな思い出の中に、白く美しい光景が目に焼き付くように残っている。
「雪が何メートルも積もって、真っ白で、寒くて、誰もいない。まるで世界の果てまで来たと錯覚してしまうような、そんな悠遠な場所で」
――まさしく、世界の終わりを見たような。
そう続けようとした言葉はどうにか飲み込んで、春香はまた、ちらりと直哉の様子を窺った。自分から聞いてきたくせに、ルームミラーに映る男は「ふーん」とまるで興味などなさそうな様子で相槌を打つ。
「君が珍しく自分の話なんかするもんやから、なんやおもろい話でも出るんかと思って聞いてみてんけど。つまらんな」
心底時間を無駄にしたとでも思っているかのように、直哉は白けた表情を浮かべて車の窓枠に頬杖をついた。
「そんなことより今日の任務の概要ぼちぼち話せや、志鷹」
そんな言葉とともに、がん、という音と、背中の辺りに衝撃が走る。直哉の足が運転席を軽く蹴ったようだった。
「もうちょい使えるようになりや」
なんて横暴な人なのだろう。そう思いつつ、春香は助手席に置きっぱなしになっていたタブレットを直哉に手渡した。直哉のこういう傲慢不遜な態度がやっぱり苦手だった。――しかし。
その一方で、この話を続ける必要がなくなったことに、春香はひどくほっとした。直哉が話を切り上げた理由が単にその内容に興味が持てなかったからだとしても、感謝を覚えてしまうくらいには安心してしまったことを、今でもよく覚えている。
――あれは、今から二年前。二〇一六年七月の出来事だった。
□
「■■峡谷に行きたい?」
受け取ったダッフルコートをハンガーにかけながら、春香は素っ頓狂な声を上げた。
春香の住まうアパートに当然のように上がり込み、例の如くの不遜な態度でそんな話を切り出したのがつい先刻のこと。間違いなく初めて来た場所であるはずなのに、直哉は勝手知ったる様子で炬燵の前で胡座をかき、頬杖をついていた。
「冬なんて、寒いだけですよ。あんなとこ。温泉は近くにありますけど……」
そう言いながら、春香は数年前に交わしたとりとめのない会話を思い出す。春香の話なんてまるで興味がない様子だったのに、あんな世間話をよく覚えていたな、と感心すら覚えた。
とりあえずの置き場所として鴨居にハンガーを引っかけたあとで、スイッチを入れていたケトルのお湯が湧いたことに気が付いた。マグカップにお湯を注ぎ、ティーバッグの中の茶葉がゆらゆらと泳ぐさまを観察する。誰かを招き入れることを予想すらしていなかったこの家にあるのは、特売で買ったティーバッグのみだ。
安物のお茶なんて、あの直哉の口には合わないかもしれない。頭の片隅でそんな心配を浮かべていると、直哉が鼻で笑うような声を上げた。
「温泉なんてこの顔で入れる思うか?」
「本当、何があったんですか……」
直哉は何も答えずに、ただ肩を竦めてみせる。きっと教えてくれるつもりはないのだろう。ティーバッグをゴミ箱に捨て、二つのマグカップを持って春香も炬燵のあるリビングの方へと足を向ける。紅茶の入ったマグカップを差し出しながら、春香は探るように言葉を続けた。
「ご実家、大変な状況なんじゃないんですか?」
切り出した言葉に、直哉は春香の顔を無遠慮に見つめる。受け取ったマグカップに口を付けてから、吊り上がった目を細めて呟いた。
「なんも知らん思てたけど、意外にいろいろ聞いとるんやね」
「あー……。私、高専以外に身寄りもないですし、心配して連絡をしてくださる方は何人かいますよ」
「どこまで知っとるん」
うっすらと笑みを浮かべた直哉と目が合った。少しだけ、嫌な予感がする。思えばいつもそうだった。まっすぐと自分の信念だけを追い求めるこの男は、他者に対しても厳しく冷たい正論で切り込んでいく。きわめて的確なその言葉に、何度心を抉られただろう。そのことを振り払うように、春香はわざとらしく明るい口調を取り繕った。
「五条さんが封印されたこととかですかね」
「それから?」
「夜蛾先生が、処刑されたとか」
続いた言葉に、直哉が小馬鹿にするような笑みを浮かべた。何だか居た堪れない気持ちすら感じられる。直哉の言いたいことにはもう気付いていたものの、どうしても“それ”を口に出すことができなかった。
「……一千万超の呪霊が解き放たれこととか」
「この期に及んで核心からは逃げるんや。変わってないなあ、臆病なとこ」
吊り上がった怜悧な目を細め、直哉は笑った。隠し切れない鋭い眼光。そこには明らかに、春香を侮蔑するような色が宿っている。直哉は春香を揶揄するような声色で言葉を続けた。
「そんなことができてしまうやつ、一人しかおらへんのにな」
聞きたくない言葉だった。あの夏の日に話題を変えたように、この話題も切り捨ててくれればよかったのに――。そう思いながら、あり得ないことだと春香は自嘲する。
この抜け目ない男が、春香の弱みを見逃すはずはない。そう考えてから、春香は威嚇するように直哉をキッと睨みつけた。
「……そういうことを言いに来たのなら、帰ってください」
「お? えらい強気やん」
「相手が特別一級術師だからって、言うことを聞かないといけない立場は卒業したので」
数秒の間、二人とも何も言葉を発しないまま時が過ぎた。目と目が合ったまま、ただ彼の整った面差しを見据える。そうしているうちに、目の前の男が口の端を歪めてにやりと笑ったのがわかった。
「ま、ええわ」
直哉はあっけらかんとした口調で言葉を繋ぐ。
「で、付き合ってくれるん?」
少しだけ逡巡した後で、春香は頷いてみせた。
「……いいですよ」
そう答えながら、春香はそっと目を瞑る。瞼の裏に浮かぶのは、あの冬の日に見たどこもかしこも真っ白に染め上げられたあの光景だ。
どうせあの場所に帰るのならば――。春香にも、やりたいことがある。