針の筵

 春香が補助監督として働くことを決めたのは、あの夏の日を経てすぐのことだった。
 あの夏の日以降、灰原が亡くなり、夏油が姿を消し、高専の仲間たちの様子もすっかりと変わってしまった。灰原の死に居合わせた七海は呪術界から去り、夏油という親友を失った五条は教師となる道を選んだ。みんな痛みを抱えたままそれぞれの道を進んでいく。それは春香も例外ではなく、ただ与えられる仕事をこなすうちに数年の月日が流れていった。



 嫌気の差すような毎日だ。けれど、それでも必ず朝は来る。
 夏油傑による呪術高専への宣戦布告がなされたのは、その冬の初めのことだった。
 最悪の呪詛師による、東京・京都の二ヶ所に渡る大規模な呪術テロ。その知らせは東京校に夏油が現れてすぐ、春香の働く京都校にも共有され、春香たち補助監督の仕事も俄に忙しくなり始めた。当日対応可能な高専所属の術師の確認や御三家への協力要請、呪いが放たれるであろう場所の予測、行政への根回しに至るまで、通常業務を逼迫するほどに舞い込んだそれぞれの仕事を気の遠くなるような気持ちになりながらこなしているうちにあっという間に時は過ぎた。
 仕事量が増えるにつれ、自ずと残業も増え、帰宅時間も遅くなる。それは春香にとって、ありがたいことでもあった。正直に言えば、春香は未だ、夏油のことを思い出すだけで深い悔恨の念に苛まれる。考えることをしたくなかったから、敢えて自らいろんな仕事を引き受けた。そうやって目まぐるしくしていれば知らぬ間に二十四日が過ぎ行くと、そんなはずはないのに自分に言い聞かせていた。



「世間様が浮き足立っとる時期に、迷惑なやっちゃなあ」

 夏油による百鬼夜行の予告がなされてすぐのことだった。一級呪霊の祓除任務を終え、禪院家へと帰る直哉を車で送っていく折、二十四日の概要を彼に共有する機会があった。禪院家の擁する術師集団『炳』の筆頭である彼に先んじて話を通しておく役割を担うこととなったのは、ひとえにタイミングよく直哉の対応する呪霊祓除任務の引率が春香に宛がわれていたからに他ならない。

「高専からまた正式に禪院家へ依頼が入ると思いますので、詳細はそのときにお伝えします」

 禪院家からほど近い大通り、路肩に停めた車の中で春香は淡々と説明を終えた。
 後部座席に深く腰かけた直哉は、ゆったりと足を組み、窓枠に肘をついて外の景色を眺めている。ルームミラー越しにその表情を窺うと、彼は口もとにうっすらと笑みを浮かべていた。そうしていると、まるで美しい人形があたかも楽しげに微笑んでいるようにも見える。決して面白い話ではないはずなのに——。そう思いながらも、直哉が笑みを浮かべる理由が春香には分かる気がした。

「ところで夏油傑って、悟くんの同期なんやったっけ?」

 そう問いかけられて、春香は思わずミラー越しに見つめていた直哉のかんばせから目を背けた。直哉がこちらを見つめているのが気配でわかる。小さく息を吐いてから、春香はおずおずと返事をした。

「……はい」
「志鷹も面識あるわけや」
「……そうですね、そうなります」

 端的にそう答えると、直哉はくつくつと喉の奥で笑ってみせる。その声には嘲笑の色が混じっていた。

「大犯罪者と一緒に学生やっとったなんて、大変やなあ。同情するわ」

 思わず、息を呑む。目を見開き鏡に視線を戻すと、直哉の鋭い眼差しと目が合った。直哉はその吊り上がった眦をそっと緩めてこちらを見つめている。「一体何を言い出すのだ」と、「あの人の何がわかるのだ」と、そう言い返そうとして、それから思わず口を噤む。春香には、彼のことを語る資格など欠片もないことに気づいたからだ。
 そんな春香の心情を知ってか知らでか、直哉はさも可笑しそうに笑んだまま、「どうしたん?」と嘯いてみせる。春香は結局何も言えないまま、首を横に振った。

「……いえ、何でもないです」

 停止していたサイドブレーキを動かして、春香はゆっくりと車を出発させる。直哉は未だにやにやとした笑みを浮かべていた。



 十二月二十四日当日、京都校には多くの術師が集まっていた。
 空気の澄んだ冬晴れの朝、春香は昨日までと同じように出勤し、事務室でタイムカードを押した。今日の春香の役割は、東山近辺で任務に当たる呪術師の引率だ。京都全域がそうであるのと同様に、東山区も寺社仏閣が立ち並ぶ観光地である。文化財に指定されている建造物も多く、建物への被害を最小限に留められるよう、小回りの利く術式を持った術師にその任務が割り振られていた。
 一秒間を二十四分割して動きを作る投射呪法は、上手く使えば周りへの被害を最小限に抑えられる。京都を代表する歴史的建造物・清水寺を擁した東山に、禪院家から炳の筆頭である禪院直哉と灯の数名が宛がわれたのはそういう理由もあったのだろう。
 補助監督として働き始めて六年、直哉との付き合いもかれこれ三年目に突入していた。年若い補助監督などは口が悪く当たりのきつい直哉のことを苦手とすることも多く、彼に慣れた春香が禪院家に関する任務を請け負うことも増えた、そんな時期だったように思う。
 直哉は自分にも他人にも厳しく、また馬鹿にした態度を隠さない男だった。多くの春香の同僚たちがそうであるように、心を抉る言葉を吐かれることもあった。傷付かない訳ではなかったけれど、直哉の正論に責め立てられることは何だか心地良くすら感じられた。直哉の言葉に胸を焼かれることで、心底慕っていた人を貶めた罪を贖える気がしたからだ。
 自席で資料を確認していると、業務用の端末に通知が来たことに気がついた。それを横目で確認し、春香は任務資料が保存されたタブレットを片手に席を立つ。どうやら件の直哉が高専に到着したらしい。彼に任務の概要を説明すべく、春香は事務室を後にした。
 呪術師たちの待機場所として開放されていた会議室を覗き込む。特に保守的な呪術師の多いここ京都では、直哉の人工的な金髪はよく目立つ。だからすぐに彼を見つけられるはずだと思っていたけれど、なぜだか姿を見つけられず春香はきょろきょろと会議室を見渡して——そこである人物と目が合った。

「あれ、七海さん?」
「……どうも、ご無沙汰してます」

 探していた直哉のそれとは異なる自然なブロンドヘアを七三に撫で付けた男性が、すくと立ち上がり、春香の方に向かって歩いてくる。
 高専を卒業すると同時に呪術師を辞め、大学へ編入した七海と顔を合わせるのはかれこれ数年ぶりだった。

「戻ってこられるとは思いませんでした」
「私も戻るつもりは一切なかったんですがね……」

 七海は春香の目の前まで来ると、遠い目をしてそう呟いた。そうだろうな、と静かに思う。灰原が亡くなった後の七海の悄然としたさまは、見ている春香も辛くなるほどだった。

「……京都には慣れましたか?」
「ええ、もうかれこれ五年ほど経ちますし。呪霊の数は多いですが、いいところですよ」
「確かに。仕事でなければのんびり観光でもしていきたいくらいだ」

 七海はふ、と頬を緩める。何だか意外だと思った。春香の知る七海なら、こんな人の多い観光地よりはゆったり過ごせるリゾート地なんかを好みそうだ。そう思ってそれをそのまま伝えると、七海は苦虫を噛み潰したような表情でこう言った。

「そこに五条さんがいなければどこでもゆったりできますし」
「あー……」

 春香は東京にいる同期のことを思い出した。同期の伊地知も、五条には苦労させられていると聞いている。

「それはまあ、否定できないかも……」

 そう呟くと、七海は同意するように頷いてみせる。お互いに、それ以上の言葉は交わさなかった。交わしてしまったが最後、会話はこの騒動の首謀者の話題に行き着いてしまう。彼をよく知る七海とその話をするのは春香も避けたかったし、七海もまた、最悪の呪詛師と成り果てたかつての先輩のことを話題に上げるのは憚られたのかもしれない。そのことがありがたくもあり、寂しくもあった。
 僅かな沈黙の後、今やもう聞き慣れてしまった声で「志鷹」と名前を呼ばれる。声のする先を振り返ると当初の目的の人物が佇んでいた。

「あ、外にいらっしゃったんですね」
「楽巌寺のじいさんがおったからな、ちょっとゴアイサツに」

 意味深長な言い回しをして肩を竦めた直哉はちらりと七海の方を見遣った後で「配置は?」と問いかけた。春香は「東山の辺りになります」と説明しながら、タブレットと共に持ち出してきた地図を渡す。

「えらい観光地やんけ。だっるう」

 直哉は隠すことなく大袈裟にため息を吐いた。カラーリングされた髪が彼の動作に合わせて揺れる。

「だからこそですよ。物的被害が出ないように、お願いしますね」
「はいはい」

 気のない返事をして、直哉はまた、どこかへふらりと立ち去ろうとする。慌てて名前を呼ぶと、直哉は「また行くときなったら声かけてや」と後ろ手に手を振った。

「……彼は禪院家の?」

 目の前でやり取りを見ていた七海が、訝しげな声を上げる。確か直哉と七海は同い年だったが、面識はないはずだ。けれど、あまり人当たりのよくない直哉の悪名は、もしかすると七海も知るところだったのかもしれない。

「……はい」
「……なるほど。気をつけてくださいね、志鷹さん」
「七海さんこそ、お気をつけて」

 そんな会話をして、それから七海と別れ、事務室へ舞い戻る。準備を整えた後で、いつものセダンではなく、ワゴン車のキーを手に取った。そして直哉に声をかけるべく、春香はまた、どこかに行ってしまった彼を探しに事務室の外へと繰り出していった。
 大人しく待機場所に戻っていた直哉を運良く見つけ、禪院家の術師らを車に乗せる。ワゴン車を出発させて数十分が経過し、ようやく目的地に到着した。
 今回対応に当たるのは禪院家お抱えの術師集団炳と灯に属する呪術師たちである。現地に到着すると同時に直哉がその面々に指示を出し、それ従って炳の面々が各々配置を確認する。平素一切の協調性を見せない直哉が集団を取り仕切る様は何だかとても意外にも見えたし、それでいてひどく様になっているようにも思えた。
 直哉たちの様子を横目に見ながら春香は考える。今回の百鬼夜行は昼夜兼行——、否、ともすれば三日三晩続くことになるやもしれない。こんな折、補助監督である春香は物事の行方をただ見守るしかできはしない。そのことがとても歯痒かった。

「志鷹、そろそろ頼むわ」
「はい。かしこまりました」

 指示出しを終えた直哉が春香を振り返り、そんな言葉をかけた。春香はそれに頷き、それからゆっくりと帳を下ろしていく。十二月二十四日の戦闘が始まろうとしていた。



 特級術師・五条悟の手により百鬼夜行の首謀者である夏油傑が処刑された——。
 そんな通達が京都に届いたのは日もすっかり沈んでしまってからのことだった。長く続くかもしれないと危惧していた戦闘は始まってしまえばあっけないもので、春香のよく知る人々には特段大きな被害も出ることなく激動の一日は幕を閉じた。上層部の人間が高専側の大勝利を喜ぶ声を聞きながら、春香は当然のことだと独り言ちた。あの夏油傑がかつての仲間たちを傷つけるような真似をするとは思えない。結果的には多くの負傷者といくらかの死者が出たものの、あの規模の呪いを相手にしたとしては最小限の被害で済んだ。千を超える数多の呪霊たちは、おそらく彼の緻密なコントロールのもと陽動のために送られたに過ぎないのだろう。

 騒動が終わり、東山から高専に戻らず直帰すると言い出した禪院家の術師らを見送って、春香は高専の事務室へと戻っていた。
 一連の事件自体は首謀者の死亡によって終わりを迎えたものの、補助監督の仕事はむしろこれからが本番でもある。術師側に大きな損害はないとはいえ、道路に走った亀裂や建造物の被害を書類にまとめ、行政に修繕工事の手配を依頼しなければならない。時刻はすでに二十時を回っていたものの、事務室では多くの補助監督がそういった事後処理の作業に励んでいた。
 部屋に備え付けられているコーヒーメーカーから濃いめのコーヒーを注ぎ、春香も道路の損傷箇所などをまとめ始める。東山区は直哉の尽力——をしてくれていたのかどうかは不明だが——の甲斐あってか、文化財などに損傷はなく、数箇所ほどの路面の亀裂のみの被害で済んだ。この分だと役所への報告は明日でも充分間に合うだろう。報告書自体はすぐにまとめ終えたもののなかなか事務室を出る気になれず、同僚が持て余していた仕事をいくつか請け負った。コーヒーをちびちびと飲みながら仕事を処理していると、いつのまにか時刻は二十二時を過ぎ、事務室にいるのも春香一人きりとなってしまっていた。

 キーボードを叩いていた手を止めて、マグカップにわずかに残ったコーヒーを啜る。冷え切った苦い液体を舌で転がすと、何だか侘しい気持ちを覚え、春香は椅子に座ったまま天を仰いだ。人の消えた事務室の中、春香の頭上にだけ電灯の明かりが灯っている。
 春香はじっと眩しいほどに光る蛍光灯を見つめた後でそっと窓の外へと視線を向けた。冬の夜空は澄み渡り、月も美しく輝いている。そのさまを見ながら、ここのところずっと考えないようにしていた人のことを思った。あの人の最期の日が、こんなふうに美しい日でよかった。たった一人で惨たらしく亡くなるのではなく、親友に看取られて逝くことができてよかった。そんなことを考えて、それから自分の身勝手さを自嘲した。あの夏の日、春香が夏油の背中を押さなければ彼は今でもこの世界で笑っていられたかもしれないのに——。なんとまあ、浅はかなことを考えるのだろう。

「……帰ろうかな」

 誰もいない部屋に独り言がぽつりと落ちる。彼のことを考えたくなくて仕事を詰めていたはずなのに、こうなってしまってはもう意味がない。引き受けた仕事もあとは本来の担当者による承認が必要なものが僅かに残るのみとなってしまっていた。
 ぐ、と伸びをして、それから使っていたパソコンの電源を落とす。事務室を出て廊下の突き当たりにある給湯室でマグカップを洗い戻ってくると、事務室の中に人影が見えた。

「何してんねん、こんな時間まで」
「えっ、直哉さん?」

 思いがけない人の登場に、春香は素っ頓狂な声を上げる。誰もいない事務室の中に、見慣れた男が一人、見慣れない洋装に身を包んで佇んでいた。

「あの、帰られたんじゃ……」
「死にそうな顔しとるな」

 直哉は問いかけには答えず、ぽつりとそう呟いた。羽織ってきたらしいコートを小脇に抱え、肩を竦めてみせる。

「疲れとるんはこっちやわ」

 その通りだと思った。予想していたよりも遥かにたやすく終わってしまったとはいえ、今日行われたのは千を超える呪霊の祓除任務だ。一つ一つの呪霊の等級は低くとも集まればそれを祓うのに骨が折れるのは道理だし、それ以前にその呪いたちを操っているのは特級を冠する呪詛師である。前線に立ち呪霊を祓うことができるのは呪術師だけ。春香たち補助監督はいつだって彼らを死地に送り込む立場にいる。

「……そうですよね、すみません」

 小さく謝って、事務室の中に足を踏み入れる。自席に置いてあった通勤用のハンドバッグを手に取ってから、春香は直哉に声をかけた。

「部屋締めますけど、帰られます? それか何か用事でも……?」

 なぜか直哉の顔を見ることができなくて、鞄の持ち手を掴む自分の手ばかりを見つめていた。衣摺れの音がして、部屋の中の男が近づいて来るのがわかる。顔を上げられないままでいる春香に直哉は「なあ、志鷹」と呼びかけた。

「慰めたろか?」
「は……?」

 言葉の意味を理解できず、思わずそう聞き返した。直哉はそんな春香の様子を気にも留めず口の端に笑みを浮かべてこちらへ手を伸ばしてくる。

「付いておいで、春香ちゃん」

 妙に熱い男の手が春香のそれに重なった。



 □



 深夜、テレビをつけるとクリスマスソングが流れていた。日付はとうに変わり、世間にはクリスマスが訪れている。こんな日でも金に糸目をつけなければ宿泊できるホテルはいくらでもあるのだと、春香はこのときはじめて知った。
 白くぴんと張られたシーツに沈みながら、春香はここに来るまでに見た街の様子を思い出す。華やかなイルミネーションに彩られた街並みは、とても美しく、聖夜を祝う人々の目を楽しませていた。
 人々は誰も彼も笑顔を浮かべ、家族や親しい仲間たちと和気藹々と街中を闊歩している。水面下で目に見えない呪いを用いた未曾有の大規模テロが行われたとは知らないまま、彼らはいつものように今日のこの日を楽しんでいた。呪いを生み出す非術師を厭い、たった一人であの道を行ってしまった夏油には、はたしてこの光景がどんなふうに見えていたのだろう。
 年の瀬の浮ついた街並み。そこを楽しげに歩く非術師たち。呪霊を視認することができない彼らの目には、もちろん呪いを祓う呪術師たちの犠牲も映りはしない。優しい夏油にはそれが辛かったのかもしれないと、今このときになってようやく思い至った。
 部屋の奥にあるシャワールームからはごうごうという音が鳴り響いている。春香をここに連れてきた男が入浴を終えてドライヤーで髪を乾かしていることに気づき、なんだかやるせないような自棄を起こしたいような、そんな焦燥を覚えた。
 ベッドに肘をつき、横たえていた身体をわずかに起こす。無かったことにするのならこれがタイムリミットだ。彼がベッドルームに戻ってくる前に逃げ出してしまえば“何か”が起こることもないだろう。多少当て擦りのようなことは言われるかもしれないが、そんなものはどうとでもなる。そんなことは言われずともわかっているはずなのに、立ち上がることはできなかった。
 がちゃりとドアノブが回る音がして、バスローブを身に纏った男が現れる。

「なんや、起きとるやん」
「え?」
「テレビの音はするけど物音はせえへんし、先に寝とるんか思たわ」

 直哉はそう言いながら部屋を横切って、隣のリビングルームへと歩いて行った。スイートルームだとかエグゼクティブルームだとか、おそらくそういう洒落た単語で言い表されるであろう部屋に泊まるのは初めてのことで、広々とした何部屋もある間取りにどうにも慣れそうにもない。
 がさがさと物音がしたと思ったら、水の入ったペットボトルを二本携えた直哉がベッドルームに戻ってきた。そのうちの一本を投げて寄越したあとで、直哉はペットボトルのキャップを捻り、そのまま口をつけてごくごくと喉を潤している。

「……さすがにこの状況で先に寝れませんよ」
「へえ、どんな状況?」
「……直哉さん」

 にやにやと口角を上げて問いかける直哉を諫めるように彼の名前を呼ぶ。いったい何がおかしいのか直哉はケタケタと声を上げて笑って、それから春香が寝ころんでいるキングサイズのベッドに腰を下ろした。手に持っていたペットボトルをサイドテーブルに置き、春香の顔を彼の吊り上がった瞳が覗き込む。

「険しい顔しとるなあ、今日はずっと」
「直哉さんのせいですよ」
「よう言うわ。俺のせいちゃうやろ」

 直哉の端正な顔立ちにそっと薄笑いが浮かぶ。そしてほんの一瞬春香から視線を逸らした後で、また春香の顔を覗き込み、こう問いかけた。

「そんなに好きやったん? 夏油傑のこと」
「……どうして」
「今日のこのタイミングで他の奴が理由なんてこと、ありえへんやろ」

 鋭い人だ。そう思い、春香は自分の腕を目の上に乗せて顔を隠した。直哉は頭の回転が速く、判断の速い男だった。だからすぐに正解に辿り着くし、いつだって核心を突くようなことを言う。けれど、かれこれ十年もの間春香の胸中で燻り続けていた思いに触れられるのが怖くなり、春香は静かに声を潜めて言葉を返した。

「だったらどうだって言うんですか」
「別に。春香ちゃんが誰をどう思っとろうが俺には関係ないけど」

 直哉はそこで一旦言葉を切る。春香はこのときはじめて、彼に苗字ではなく名前で呼ばれていることに気が付いた。

「でもまあ、面白くはないわな。そんなんでオマエが泣いとるのは」

 よくわからないことを言いながら、直哉の手が春香の腕を持ち上げ、隠していた顔を露わにさせる。自身の腕の重みが亡くなったとたん、目元にすうっと冷気が走り、それでようやく自分の頬が濡れていることを自覚した。

「……直哉さん」
「なんやねん」

 春香の呼びかけに応えるように、直哉が春香の瞳をじっと覗き込んだ。夜の月を映し込んだように明るい彼の虹彩がどろりと溶けて見える。

「私、もう辞めようと思います」

 直哉は何も言わなかった。鋭い眼差しだけが静かに続きを促しており、春香は何かに駆られるように言葉を続ける。

「直哉さんのおっしゃる通り、初恋だったんです。でも私は自分でそれを台無しにした」

 脳裏に浮かぶのは、あの夏の日の情景だ。あの夏の日、一人項垂れる夏油を慰めるつもりで発した言葉は、彼の背中を押し、夏油はたった一人であの道を選んでしまった。
 夏油が呪術高専の学生として最後に当たった任務地の村。現場検証のために撮影された現地の写真を、補助監督になってから見る機会があった。
 胴をねじ切られた中年男性。脳みそを半分さらけ出している老婦人。おおよそ人の可動域を外れた方向に手足を曲げた幼い男の子。あの優しい人がそんな凶行を犯したことを信じたくなくて、けれどそこに残っていた残穢の記録が犯人が夏油であることを悉く強調していた。

「あの人が呪詛師になったの、私のせいです。私があの人の背中を押したから……」

 長年抑え込んでいた後悔が零れ落ちる。説明の不足した言葉は、きっと直哉には理解しがたいことだろう。直哉は目を細め、淡々と春香に問いかける。

「それで辞めるんか?」
「……はい」
「アホらし。しょうもない理由やな」
「だって……!」

 ため息と共に吐き出された言葉に、春香は食らいついた。

「あのころも周りにたくさんの大人がいたのに、あんなに窶れた夏油さんのことを助けてくれる人は誰もいなかった! 今だってそうでしょう! 呪術師を、まだ十代の子どもたちを私たちは戦場に送らないといけない! 時には惨たらしく死ぬ羽目になる場所に!! そんな残虐なこと、もう、これ以上は無理なんです……」

 支離滅裂なことを言っていることには気付いていた。しかし、吐露したのは紛れもない春香の本心だった。

「……そんで君が逃げて、何の役に立つん」

 直哉は淡々とした口調でそう問いかける。

「逃げたら逃げただけ、人手不足のこの業界は立ち行かんくなる。君のやっとることはその子らを見捨てたんと一緒やろ」

 それはまさしく正論だった。結局のところ、春香がやろうとしているのはただの“逃げ”に過ぎない。わかっていたからこそ言い返せずに春香は静かに唇を噛んだ。直哉は珍しく逡巡するような表情を浮かべている。数秒にも数分にも思える奇妙な沈黙のあと、直哉は春香の腕をゆっくりと引っ張り、上体を起こさせた。

「……なあ、春香ちゃん。もう寝とき」

 それは、普段の苛烈な振る舞いからは想像もつかないほどに穏やかな声だった。そんな声で名前を呼ばれ、身体を胸に引き寄せられた。大きな手が春香の頭に触れ、髪を梳くように撫でられていることに気が付いた。

「直哉さん、どうして、」

言葉が詰まり、春香はしゃくりあげるように息継ぎをした。

「どうして、こんなことするんですか…」

 目の前に直哉の温もりを感じながら、春香はそう問いかけた。心臓の奥が冬の身を切る寒さに凍えている気がする。直哉の手のひらの熱が、それを溶かしてくれるような気もしたし、ずっと凍り付いていたいような気もしていた。

「春香ちゃんには教えたらんわ」

 囁くように小さな声で、直哉はぽつりとそう答えた。その言葉を聞きながら、春香はまったく別のことを考える。


——あの人のいないこの世界で、はたして生きていく意味などあるのだろうか。

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