行く夏

 昼食を食べ終えてすぐ現場に足を踏み入れたはずなのに、すべての呪霊を祓い終えて校舎を後にするころにはすでに西日が差し込むような時間になってしまっていた。
 廃校を出て補助監督と別れた地点まで戻ってみると、車ごと宮田が姿を消していた。夏油が電話すると、ガソリンを給油するべく山を降りているとのことだった。「すぐに戻ります」と慌てた声で捲し立てて電話を切った宮田の戻りを待つべく、二人は工事現場にあったベンチに腰を下ろす。
 夕方とはいえ、五月の風は優しく爽やかに木々をゆらゆらと揺らしている。そのざわめきをぼんやり感じていると、夏油が目を細めて春香を労った。

「お疲れ様。初めての任務なのに、よくやったよ」
「ありがとうございます。……でも、夏油さんのおかげです」

 教室に足を踏み入れたあと、春香たちが対峙したのは一体の一級呪霊だった。
 入学したてで四級術師に位置付けられる春香にとってはかなりの格上の相手である。式神を使役し、呪いを陽動し、引きつけ、時に式を打ち破られそうになりながら——最終的には何とか呪霊を祓うことができた。特級を冠する夏油のフォローがあってこそではあるものの、初めての呪霊の祓除任務としてはなかなかの成果と言えるだろう。そんな慢心が打ち砕かれたのは、報告書の通り、その部屋に再び一級呪霊が姿を表したからだ。
 呪いを祓い終え、ほっと胸を撫で下ろしていた春香が新たな呪霊の出現に対応できずに固まっているのを横目に、夏油は涼しげな表情のまま自ら降伏させた呪霊を呼び出しあっという間にその一級呪霊を祓除する。夏油の実力の高さに慄いているのも束の間、またもや一級呪霊が春香たちの目の前に現れた。
——核を壊さない限り、攻撃をすればするほど分身を生み出す呪霊。敢えて言葉で言い表すならば、そんな特殊な術式を持つ呪霊だったのだろう。祓ったと思えば現れ、春香たちを翻弄するその呪いにとどめを刺したのは、夏油が所持する大型の一級呪霊であった。

「いろいろと勉強になりました。普段からどういう呪霊なのか考える必要があるんですね」
「まあ残穢を探れば根本は叩けるんだけど。私はこういう術式だから、呪霊が持っている術式についてもいろいろ想像してから対処することが多いかな。……悟なんかはそんなまどろっこしいことしなくても見るだけでわかっちゃうんだけどね」
「私もこれからいろいろと学ばないと。呪霊のこととか。術式のこととか」

 そう呟いた春香に、夏油は「その意気だよ」と頷いて見せる。
 それから一瞬何かを考えるような表情を浮かべた後で思い立ったようにこう問いかけた。

「そういえば、志鷹さんってご両親は非術師なんだよね?」
「……? はい。それが何か?」
「その式神術は誰かに習ったの?」

 入学して日が浅いのに、かなり使いこなしているようだったから。そう続けられた言葉に春香は「あー……」と言葉にならない声を上げる。隠していたわけではないものの、積極的には話そうとは思えない、とある事情が春香にはあったからだ。
 答えるべきか、それとも誤魔化してしまおうか——。そんなことを考えていると、不意に夏油の切長の瞳と目が合った。好奇の目で見られているわけでも奇異の目に晒されているわけでもない、ただ純粋に疑問に思ったことを聞いただけだとでも言うような、そんな清廉さがその目には宿っている。
 そのことに気がついて、春香はふと昨日交わした灰原との会話を思い出した。

『でも、尊敬できる人で、誰よりも優しい人だよ』

 そう告げて楽しそうに笑った灰原の笑顔の意味が、今なら正しく理解できる気がする。そう思い、覚悟を決めて春香はおずおずと口を開いた。

「……私、入学前から高専に保護されていて。そこで夜蛾先生にいろいろ教わっていたんです」
「保護?」

 夏油はきょとんとした表情でそう聞き返した。何をどこまで説明すれば良いのだろう。そんなことを思いながら春香は辿々しく言葉を続ける。

「……ええと、私、親に捨てられて術式を暴走させたことがあるんです」

 ちらりと夏油の表情を窺うと、彼は顔をこわばらせて言葉を探しているように見えた。



 春香には親と呼べるような人は存在しない。
 父は春香が生まれてすぐに家に帰らなくなった。そこにどんな原因や理由があったのかはわからない。けれど、女手一つで娘を育ててくれた母はよくそのことで春香を糾弾した。

『あなたのせいであの人は帰ってこなくなったのよ』

 手を振り上げ、髪を掴み、母はよくそんなことを叫んでいた。母の主張はわからなくもない。春香の両親は非術師で、呪霊を視認できない彼らにとって何もないはずの場所を見ては泣き叫ぶ幼な子の姿は不気味に見えたことだろう。
 あれは、春香が小学校を卒業する年のことだった。その冬一番の大雪の日、春香は母に手を引かれ、件の峡谷を訪れていた。
 痛いくらいに強く春香の手を握り、一心不乱に雪の中を歩いていく母の華奢な背中。音もなく雪が降り積もった、一面の銀世界。まるで世界の果てにも思えるその場所にたどり着いたとき、母は春香を睨め付けこう呟いた。

『あんたなんか生まなきゃ良かった。そしたらあの人は私を捨てなかったのに』

 その時から、一度たりとも両親と顔を合わせたことはない。
 母はまだ子どもだった春香を峡谷に放置し行方を眩ませた。真冬の峡谷の気温は零度を下回ることもざらで、母もそのことははっきり理解していたことだろう。わかっていながら春香を置き去りにしたのだから、つまりはそういうことだった。
 母に置いて行かれ途方に暮れながら寒さに凍えていた春香は、ふと気がつけばいつの間にか故郷を遠く離れた東京都立呪術高専学校の古びた校舎の中にいた。
 聞いた話では、あの日雪に埋もれて震える春香を呪力を帯びた動物のような何かが覆い被さり隠していたらしい。普段呪霊の発生しないその場所に突如として現れた呪力を持った何かの存在に気づいた窓の一人が高専に通報し、春香は高専に保護されることとなった。その後春香の命を守ってくれたその何かが式神の一種であることが判明したことで、春香はそのまま高専へと入学を果たした。
 呪いが見える人間にとって、何も見えない非術師から差別や偏見の目で見られることはそう珍しくはない。春香の境遇もこと呪術界においては往々にしてある事象であり、同じようなバックボーンを持つ人間もわずかながら周りに存在した。だから、特段その事情自体に特別な感傷など持ち合わせていなかったはずなのに——。

「……そっか。ごめんね、不躾な質問をして」

 春香の話を聞いた夏油が、気遣うような表情を浮かべた。春香は首を横に振り、言葉を返す。気遣ってもらう必要など、全く感じなかったからだ。

「いえ。みんな知ってますし、それに、両親が私を捨てたのも分かる気がするので」

 得体の知れないものを見えると“嘘”を吐く娘。夫が蒸発した母にとって、そんな子どもの存在はさぞ育てにくかったことだろう。けれど彼女は娘に衣類を与え食事を恵み、十二年もの間どうにか春香を育ててくれた。当時の母の苦労は推し量れるものではなく、彼女がそんな娘を捨てる選択肢を取ってしまったことは、決して責められないような気さえした。
 ……見えないふりをすればよかったのかもしれないと、今となっては考えることもある。呪いなどないふりをすれば捨てられることはなかったのかもしれない。そう思うけれど、土台無理な話だ。呪霊はいつも春香のそばにあり、春香に恐怖を与える存在だった。

「それに、高専には良い人も多いでしょう?」

 呪いが見える人に囲まれて生活を送り、衣食住を保証された今の生活はそう悪いものではない。呪霊を祓うことで少なくはない額の給料も手に入る。それは、これから一人で生きていかねばならない春香にとってはこのうえない待遇だ。

「本当に、その通りだ」

 唐突に、夏油がそう相槌を打った。五月の穏やかな風に、彼がつけていたサンダルウッドの香水の匂いがふわりと香る。夏油はゆっくりと目を細めて春香に微笑み、それからこう続けた。

「……春香ちゃんは、頑張り屋さんだね」

 その瞬間の、夏油の笑顔が、柔らかな声色が。いつまでも脳裏に焼き付いている。



 □



 そして、あの夏がやってきた。


 じめじめとした、まとわりつくような暑さの夏だった。
 異常なまでに呪いが湧き、当時まだ一年生だった春香や伊地知ですら連日呪霊の祓除に駆り出されるほどの繁忙期。嫌気がさすほどに忙しい毎日の中、任務を終えて高専の寮に戻った春香は休憩スペースで一人座り込む夏油の姿を見つけた。
 挨拶をしようとして、それから慌てて思い留まり髪を手櫛で整える。あの五月の初任務の日を境に春香の生活は一変してしまっていた。
 寮で夏油とすれ違えばどきどき胸が高鳴ったし、話しかけられれば舞い上がって受け答えした。夏油は人当たりがよく優しい人間だったから、あの日の任務を共にした春香のことを気にかけてくれるのもきっと彼にとっては当然のことだった。そのはずなのに、そんなことには思いも寄らないまま、ただ恋の楽しさに浮かれていた、そんな夏。
 折り畳み式の携帯電話を開き、真っ黒色の小さな液晶画面で髪の乱れがないか確認する。小さく「よし、」と呟いて携帯を閉じて制服のポケットに仕舞い込むと春香は夏油に声をかけるべく、休憩スペースを覗き込んで——そこで、気が付いた。
 いつもなら穏やかながら堂々とした振る舞いを見せる彼が、物憂げに虚空を見つめ、何かを考え込んでいる。きつく結えられていることが多い長髪も無造作に下され、普段身なりを気にして整えている夏油にしては極めて珍しいことのようにも思えた。

「……夏油さん?」

 お疲れ様です、だとか、こんにちは、だとか、そういう無難な挨拶をしようと開いた口から思わず訝しがるような声が飛び出てしまう。宙を見つめていた夏油は、春香の存在に気がつくとゆっくりと口角をあげた。

「あれ、春香ちゃん。お疲れ様」
「あ、はい。お疲れ様です」

 まごつきながら挨拶を返す。今は声をかけるべきではなかったのかもしれない。そんな小さな後悔を胸の内にしまい込んで、春香は休憩スペースに足を踏み入れた。
 相対した夏油は、やはりいつもの精悍な印象とは異なり、何だか窶れているようにすら見えた。頬がこけ、目の下には隈もできている。この暑さにこの忙しさだ。特に日本に三人しかいない特級術師の一人として数えられる夏油は、休む暇もなく任務に引っ張り回されているのかもしれない。そんな心配から思わず様子を窺うような言葉が口から飛び出してしまう。

「何か、……何かありました?」

 春香の問いかけに、夏油はゆっくりと首を振る。体調が悪いのだろうか。そんな心配を乗せて発した言葉だったが、夏油は春香の思惑とは異なることを口にした。

「いや……。人と会ってたんだ」
「人と……?」
「そう。……初めて悟以外の特級術師に出会ったよ」

 夏油や五条に比肩する唯一の特級術師。その存在には春香も覚えがある。面識こそないものの、特級を冠する呪術師について知らないものなどこの呪術界にはいないだろう。特級術師・九十九由基はそれほど優秀な呪術師でありながら、高専嫌いで任務を受けたがらないと噂される人物として有名だった。

「何を話されていたんですか?」
「……何だったんだろう。私もまだまとまっていなくて……。でも、ずっと誰かに否定して欲しかったことを、肯定されてしまったような気がするよ」

 夏油は物憂げな表情を浮かべ、そんなことを呟いた。こんなふうにぼんやりと話す夏油の姿を初めて見た気がする。何だか放っておくことが出来なくて、物珍しい彼の独白に春香は「否定して欲しかったこと?」と口を挟んだ。宙を見つめていた夏油の切れ長の目が春香の顔を捉える。

「……春香ちゃん。君はご両親のことを恨んでいるかい?」

 それは、きわめて真剣な眼差しだった。普段の夏油なら、春香の内面に踏み込むようなそんな質問はきっと好まなかっただろう。けれどその眼差しが、彼の心の奥底にある何かをさらけ出しているような気がして、春香は一度口を噤んでから言葉を選んだ。

「……どうでしょう。彼らが私を捨てたこと、それ自体は仕方がなかったように思います」
「ずいぶん大人な考え方をするんだね」
「あの人たちにとって、育てにくい子どもだったのは確かなので。……でも、恨む気持ちがないと言ったら嘘になるのかな……」

 相変わらず、夏油は春香の顔を真っ直ぐに見つめている。恋心を抱いている相手からまじまじと凝視されるのはどうにも居心地が悪かった。恥じらいのような気持ちを誤魔化すように、春香は言葉を探す。

「高専は非術師家庭の出身の人もいますけど、ご家族の理解がある人が多いように思います。長期休暇の時期になると、任務がない限りはみんな寮から自宅へ帰ってしまうじゃないですか。そういうときにはやっぱり寂しいし、虚しい気持ちにはなりますよ」

 思えば今年のゴールデンウィークもそうだった。三年生より上の先輩たちは忙しく任務に駆り出されていたものの、同期である伊地知や一つ上の先輩である七海や灰原は、それぞれ幾日ずつか休暇を取って実家に顔を出していた。羨ましいとは思わない。春香にとってはもう高専が家のようなもので、家族がいないことも気になどしていない。そのはずだった。

「母が私を捨てたこと自体は責められないと思います。何もないところを指さし怯える子どもなんて、誰だって気味が悪いでしょうし」

 そこで言葉を切って、こちらを見つめる夏油の瞳をしっかりと見据えた。眼差しには憐憫の色が混じっている。まるで春香が今から言うことをすでに知っているような視線だと思った。

「でも、必死に自分に言い聞かせているだけなのかも。そうでも思わないと、自分が惨めだから」

 呪いが見える、育てにくい子どもだから。だから捨てられてしまうのは仕方のないことなのだ。そういい聞かせながらずっと今まで生きてきたのかも知れない。自分でももうよくわからない感情が、ずっとずっと春香の心の端にこびりついて離れそうにもない。
 夏油は穏やかに、しかし、愁いを帯びた表情を浮かべてこちらをじっと見つめていた。下ろされた長髪が彼の面差しに影を作り、何だか思い詰めた表情をしているようにも見えた。

「……私はね」

 しばらく口を噤んだあとで、夏油はぽつりと切り出した。

「同じ呪術師の仲間が春香ちゃんみたいな思いをするのが嫌なんだ」

 口元が僅かに緩み、夏油は自嘲するような笑みを浮かべていた。何を思い悩んでいるのだろう。夏油の語る言葉は、同じ呪術師であれば誰しもが抱く感情であるはずだ。そんなことを思いながら、春香は深く考えることなくこんな言葉を口にした。

「……こういうのはどうでしょうか?」

 ベンチに座る夏油の隣に腰かけて、春香は静かに言葉を続ける。

「もしもこの先私みたいに呪いが見えることで困っている人がいたら、夏油さんが助けてあげてください。きっと夏油さんなら、たくさんの人を救えるはずだから」

 彼の顔を真正面から見ることが出来なかったのは、何だか気恥ずかしいことを言っている自覚があったからだ。気恥ずかしく、机上の空論にも等しい、薄っぺらい言葉だった。馬鹿みたいな綺麗事。そんな言葉を吐いたことを春香はずっとずっと後悔し続けている。



 それから約一か月後、夏油傑は百十二名もの住民を呪殺。呪いを視認できる少女二人を誘拐し、行方を眩ませた。
 それにより、特級術師・夏油傑は呪術規定九条に基づき呪詛師として処刑対象となる。

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