明けない夜はない
あのクリスマスの夜からほとんど一年が経過しようとしていた。
心の奥底に澱んでいたどろどろとした後悔を訳も分からず吐き捨てて、それからすぐに、春香は辞表を提出した。年が明けると同時に業務の引継ぎを慌ただしくこなし、三月には有給休暇の消化に入った。それから、直哉には会っていない。——そのはずだったのに。
あの夜直哉に連れられて足を踏み入れたエグゼクティブルームとは似ても似つかぬ安っぽく古びた客室で、春香は再び直哉と向かいあっている。
頬を包み込んでいた手のひらが静かに離れ、春香の首筋を直哉の長い指がゆっくりとなぞる。どこかくすぐったく、それでいて粟立つような感覚が鎖骨から脇の辺りを通りすぎ、春香はそっと瞼を開いた。目の前には直哉の美しくも傷んだ面差しがあり、彼の鋭い眼光と視線がぶつかる。まるであの日の焼き直しのような光景だ。
「……あの、直哉さん」
「なんやねん」
小さくその名を呼ぶと、いつも通りのつっけんどんな返事があった。射抜くような眼差しをしている。春香は恐る恐る目を逸らし、出来るだけ淡白な口調を取り繕った。
「……するんですか?」
春香のその様子に、直哉は目を細めて「あかん?」と小さく問いかける。直哉の吊り上がったまなじりが、どこまでも苛烈な普段の彼の印象とはかけ離れた、穏やかな色を宿しているようにも見えた。春香は息を呑み、それからおずおずと口を開く。どういうわけか、喉の奥が詰まるような心地がした。
「そんなことは、ないんですけど……」
声が震える。一番大好きだった人を傷つけて、孤独な道を一人きりで行かせてしまった春香には誰かに優しく触れられる権利などありはしないのに、目の前の人に縋り付いてしまいそうになる。
直哉はその透徹とした鋭い眼差しで、じっと春香を見据えていた。その視線を受け続けることが怖くなり思わず俯くと、ぽたりぽたりと雫が膝に落ちる。中途半端なところで止めてしまった言葉の続きを発せられないまま、部屋にはテレビから流れるアナウンサーの声だけが奇妙に響いていた。
「……やめとこか」
それは唐突な一言だった。ソファに腰かけたまま、春香の肌に触れていた手の温度が静かに離れていく。思わず顔を上げると、ぱっと両手を上げた直哉と目が合った。
「泣いとる女犯すん趣味やないしな」
直哉はそう呟くと、そのまま立ち上がってバスルームの方へと歩いて行く。呆然とソファに座り込んだまま彼の後ろ姿を目で追っていると、まだ使っていない、新しいタオルを片手に直哉が戻ってきた。
「辛気臭いねん。はよ拭いてくれるか」
「……すみません」
差し出されたフェイスタオルを受け取って顔を拭う。直哉はそのままソファには戻らずに、後ろにあるベッドに乱雑に腰を下ろした。
「なんで俺がこんなことしたらなあかんねん」
「慰めてくれるんじゃないんですか」
「慰めたっとるようなもんやろ、実際」
ハァ、とわざとらしく大きなため息を吐き、直哉は自分の頭をがしがしと掻いた。それもそうだな、と一人納得する。一年前のあの日も今日も、泣いた原因の一つに直哉の辛辣な言葉があることは無視できない。しかし、泣き出した春香を慰め涙を拭ったのもまた、直哉だった。一体この男は何を考えて、何を目的としているのだろう。自分の膝に頬杖を付き、不機嫌そうな表情を浮かべる男から顔を背け、春香はゆっくりとソファに身体を沈めた。
「そこで寝る気か?」
「……そうですね。直哉さんはベッドを使ってください」
「ほんまにしゃーない奴やな」
もう一度大きく溜め息を吐くと、直哉はベッドから立ち上がり、春香の元へと近づいてくる。そしてそのまま春香を抱きしめるように持ち上げて、それからベッドの上に春香をゆっくりと下ろし、こう呟いた。
「俺にこんなことさせるん、春香ちゃんくらいやわ」
呆れたような声だった。それだけを告げると、直哉もまたベッドに横たわり春香に背を向けた。キングサイズとはいえ、至近距離に直哉の鍛えられた背中がある。そのことを考えないようにしながら、春香も直哉に背を向け、ゆっくりと瞼を閉じた。
□
会話らしい会話をしないまま夜が更け、気付いた時には朝が訪れていた。
ルームサービスで慌ただしく朝食を取り、昨日と同じく目的の場所へと車を走らせていく。このまま行けば、昼過ぎには件の峡谷へと到達できるだろう。
沈黙が耐えきれずに流したラジオから、クリスマスソングが聞こえていた。一年前のあの晩ホテルで耳にしたものと奇しくも同じ音楽だということに気付き、改めて時の流れの早さをひしひしと感じてしまう。もう一年も経ってしまったのだ。一年前の今日、夏油傑は呪詛師と処刑され、この世を去った。そのはずだった。
二ヶ月ほど前に起きた渋谷での一件は、夏油傑とその共同正犯たる五条悟が引き起こし、東京二十三区を壊滅状態までに陥らせたと聞いている。たった二人の人間の仕業にしては被害が大きすぎるとも思ったけれど、そんなことができてしまうのは彼ら二人を差し置いて他にはいないだろう。
「……直哉さんは、どうお考えですか?」
「何の話や?」
「例の渋谷事変です。聞いた話では、五条さんと死んだはずの夏油さんが共謀してあんなことを起こしたとか」
沈黙を破るべく、そんな話題を投げかける。直哉は探るような目つきで一度春香を見据えたあと、また正面を向いて口を開いた。
「……悟くんがそんなことするわけないやん。あの人一人で日本なんて潰せるのに、わざわざそんなめんどくさいことするかいな」
気だるげな声色で、直哉がそんなことを呟いた。その通りだな、と春香も思う。五条はたった一人で日本のみならず世界さえ敵に回してしまえるような男だった。わざわざ人と組んで何かを企てるということが非効率に思えるほどの、抜きん出た実力者。けれど、彼がかつての親友と組んでこの事件を起こしたのだとすれば、それは春香にとっては救いであるような気もしていた。
数時間ほど車を走らせたところで、目的である■■峡谷に到着した。
直哉と再会を果たしてから丸二日。ほとんどを移動に費やして体力的にはとても疲れたけれど、気持ちの面では少しばかりすっきりしてしまった気もしていた。昨年のクリスマス、春香は直哉に身勝手に感情をぶつけ、それから呪術界と袂を分かつことになった。そんな相手に今更何を繕うでもなく、ただありのまま旅を出来たことがよかったのかもしれない。そんなことを考えた。
直哉はいつでも厳しく辛辣だ。しかし、春香が本当に嫌がるようなことはせず、昨晩だって突如泣き出した春香を慰めるような真似すらして見せた。そんなことを思うにつけ、もう充分だと思うのだ。——もう充分。これ以上のことは何も望まない。
雪が降り積もる駐車場の隅に何とか運転してきた車を止め、春香たちはどちらともなく車を降りた。ちらちらと白い粉雪が空を舞っている。直哉は来ていたダッフルコートの釦を締め、それから緩慢な動作でフードを被る。黒いウール地から金髪が覗きそこに雪が振り積もる様は美しく、それでいてどこか儚く見えて、思わず春香は直哉のコートの袖を引いた。
「……珍しいやん」
直哉は口もとに笑みを浮かべ、それから何を思ったのか袖に触れる春香の手を握る。それは春香の意図していたところではなかったけれど、彼の暖かい手のひらを手放してしまうことが惜しくなり、肩を竦めて「……冷える場所なので」と言い訳をした。
冬の峡谷は雪深いその土地柄もあり、規制線が貼られていた。そういえば、かつて母に連れられてここに来た日にも、立ち入り禁止を告げるそのテープを見なかったことにしてこの先を進んだことを思い出す。直哉もまた、あの日の母と春香を再現するかのように、長い足で立ち入り禁止と書かれたテープを跨ぎ、先を急いだ。雪が降り積もる一面の銀世界。しかしそれでも今年は例年に比べて降雪量が少ないらしく、雪道を歩き慣れていない人間でもまだ歩みを進めることが出来た。
「……何だか懐かしい気がします」
高専に保護されて以降、初めて足を踏み入れた場所だ。けれど、やはりその景色も空も、よく覚えている。母の手に引かれてやってきたこの場所に、今度はこの男に連れられてくることになるとは思ってもみなかった。
「君、ここらで拾われたんやって?」
「やっぱりご存知でしたよね」
直哉の問いかけに、春香は肩を竦めて答えた。
春香のように自分でも気付かないまま術式を発動してしまい、高専に保護される子どもの存在はそう少ないわけではないらしい。だからこそその話題は取り立てて隠されることもなく、多少なりとも呪術界の中を駆け巡って行く。常ならばそんな普遍的なニュースはすぐに忘れられてしまうものの、噂話の集まりやすい古い家柄が故か、はたまた同年代であったために記憶に残っていたのか、直哉の記憶にははっきりとそのことが残っていたのだろう。
「……それで? それを知っていて、何しに来たんですか?」
「別に。暇やったから道案内でもさせたろ思て」
春香の手を引いたまま、直哉はそんなふうに嘯いてみせた。前を歩く彼の背中を見つめる。どこもかしこも白い世界の中を切り開くように進んでいく直哉の背中を眺めていると、どういうわけか穏やかな声がこぼれ落ちた。
「嘘が下手ですね。何の目的もないのにこんな無駄なこと、直哉さん一番嫌いでしょう?」
直哉は何も答えなかった。それをいいことに、春香は静かに言葉を続ける。
「一年前、直哉さんに言われたことをずっとずっと考えていました。学生たちを死地に送るのが嫌だったのに、結局自分が見たくないから逃げただけ。私一人がいなくなったところで世界は変わらない。直哉さんのおっしゃる通りでした」
渋谷事変では、多くの学生たちが怪我を負い、命を落とした。それは春香のせいではないけれど、なんだかその遠因を作ってしまった気さえした。
高潔だった夏油は、呪術師の仲間が春香のような思いをするのが嫌だと言っていた。そんな夏油がたくさんの人を殺し、呪詛師となる道を選んだとき、思い悩む彼の心の片隅にすら触れられていなかったのだと気付かされてしまった。
身の上話などしなければ良かった。そんな話をしてしまったから、優しい夏油はあの道を選んでしまったのかもしれない。ただの後輩に過ぎない春香の存在が聡明で強い特級術師の背中を押したとは到底思えないけれど、それでも夏油はそんなちっぽけな後輩の苦しみを背負って立ってしまうような男だった。
そのことを思うにつけ、春香は後悔に苛まれる。実際にはそうでないのかもしれない。けれど、親に捨てられた卑しいかつての子どもが、あのような優秀な人の未来を奪った可能性がひとかけらでもあるとするならば。それは大罪を犯したに等しいと、そんなことを思ってしまうのだ。
「……ねえ、直哉さん。お願いがあります」
直哉の手を引いて、雪の降り積もる中を立ち止まる。突如足を止められた直哉は、緩慢な動作で振り返り、春香の言葉を促した。
「……言うてみいや」
母に手を引かれ、あの規制線をくぐったとき、確かに思ったことがある。無機質なテープで区切られただけのあの境界こそ、きっと生と死とを隔てる境界に違いないと、幼心にそんなことを思ったのだ。
ほんの一瞬、ぎゅ、と強く目を瞑る。それからゆっくりと瞼を開けて、直哉の顔を真正面から見据えた。半顔が引き攣れた男の眼差しは、それでも本来の意志の強さを隠すことなく爛々と輝いていた。出会った当時から変わらない、鋭く吊り上がった目尻が人を食ったようなような冷たい印象を与えている。しかし、その実懐に入れた人間にはどこか甘く緩む瞬間があることを春香は知っていた。
「……直哉さん」
彼の両手を取り、その名を呼ぶ。何も答えないままの男に春香もまた何も言わず、ただその手を己の首元へと誘った。
「……ここで私を殺してください」
去年のあのクリスマスから、いや、きっとあの夏の終わりにあの人がいなくなってから、ずっとずっと、春香の脳裏に焼き付いて離れない願いがある。好きだった人が仲間を守るために人を殺す背中を押し、己はぬくぬくと守られて世界で生き続けている。そんなおかしな話があるのだろうか。夏油は死に、春香は生きる。そんなことは許されないような気がしたけれど、臆病な春香は自分で自分を殺すことが出来ず、今日までずるずると生き長らえていた。
二日前のあの晩、直哉が現れこの場所に行きたいと言い始めたとき、ようやくチャンスが回ってきたと思った。直哉の目的なんてわからない。けれど、存外春香に甘いところがあるこの男なら、春香の願いを聞き入れて、その生涯を終わらせてくれるのではないかと、そんなことを考えてしまったのだ。
嫌になるほど汚く、自己中心的な考えだ。春香は自分のそういうところが心底嫌いだった。しかし、夏油や灰原、七海といった近しい人間には絶対に見せないようにしてきたその身勝手な性格も、目の前にいるこの男はすでに気が付いているはずだった。
直哉は真っ直ぐにこちらを見据えたまま、未だ何も言葉を発そうとはしない。眼帯に隠されていない左の眼と視線が交わる。その眼が数度まばたきをして、それから首元に触れた直哉の手にぐ、と力が込められた。
大きな手のひらが頸動脈を圧迫する。対象に触れることで発動する術式を持つ直哉の手は、接近戦を得意とする彼らしく固く筋張っている。目の前が暗くなる。抵抗することなくそれを受け入れていると、さまざまなことが脳裏を過ぎった。
母のこと。父のこと。灰原や七海、伊地知といった高専時代の仲間のこと。ついこの間電話をしたばかりの硝子のこと。封印されてしまったという、五条のこと。死んでしまった夏油のこと。それから。
目の前にいるこの男は、一体なぜ春香をこの場所に連れてきたのだろう。結局のところ、直哉の目的についてはわからないままだ。けれど、それで良いような気もした。彼の目的を聞いてしまったら、ここですべてを終わらせることなど出来なくなってしまうだろう。そんな確信があった。
何だか思考がぼんやりしてきた気がする。直哉に悪いことをしたな、と静かに思う。禪院家で起こったとされる死闘から生き延びたこの男も、まさかその先で見知った女を殺す羽目になるとは微塵も思わなかっただろう。あるいは予測して、春香をここに連れてきたのだろうか。そうだとすれば、ずいぶん甘やかしてくれるようになったものだ。そんなことを考えていると、ふっと気道が塞がる感覚がした。これでおしまいだ。そう思った、その瞬間のことだった。
不意に呼吸が楽になり、咄嗟にゴホゴホと咳き込んだ。身体をくの字に折り曲げて必死に息を吸う。あんなにも終わらせたいと思っていたはずなのに、身体は酸素を求めるのかと惨めな気持ちになった。
「アホらし。なんで俺が自分の手ェ汚さなあかんねん」
思わず座り込むと、ふと頭上からそんな声が落とされた。見れば直哉が先ほどまで春香の首を掴んでいた手をぷらぷらと振り、大きくため息を吐いている。春香はやっとのことで呼吸を立て直し、恨み言を呟いた。
「……ひどい人ですね、直哉さん」
「オマエの方が百倍ひどいわこのアホ。……なんでこんなアホ女助けたろ思たんやろ」
小さく続けられた言葉をよく理解できないまま春香は直哉のことを見上げる。直哉は雪で服が濡れてしまうことも厭わないまま、春香の前に片膝をついた。彼の金色に輝く瞳が春香の顔を覗き込んでいる。
「死にたいんか」
雪が降り積もる以外一切の物音がしない空間に、直哉のその声が静かに響く。春香が小さく頷くと、直哉はハァ、と大きなため息を吐いた。
「前にも言うたけど、好いた男が死んだからってしょうもなすぎるで」
「……それだけじゃないですよ」
「やったら何や、学生が死んだからか? 親に捨てられたからか?」
ずけずけと荒い口調でそんな言葉を捲し立てる。何も言い返せないままでいる春香に、直哉は「いずれにせよ、しょうもないことやな」と吐き捨てた。
「……殺したってもええけど、今はせえへんわ」
「何でですか」
「オマエの名前でレンタカー借りてここまで来とるのに足つくやんけ」
それに、残穢も残るしな。そう続けて直哉は立ち上げる。もともと鋭い目を細め、睨みつけるように春香を見た。美しく力強い眼光が、春香を貫いている。
「幸い世の中は荒れ放題。オマエは然るべきときに殺す。やから——それまで預かっといたるわ」
雪がすべての音を吸い込んでしまったかのようにしんと静まり返った空間に、直哉の声がぽつりと落ちる。真っ直ぐな声色に、春香は呆然と問いかけた。
「然るべきときっていつですか」
「そんなもん俺次第や。言うとくけどオマエに選ぶ権利ないからな」
それから直哉はかぶりを振って、春香に背を向けて歩き出そうとする。春香は座り込んだまま立ち上がることも出来ずにただその背中を見つめていた。
「……はあ。はよ帰ろ。春香ちゃんの相手するん、疲れたわ」
「……直哉さん」
「なんやねん」
ゆっくりと前に進んでいく直哉の名前を呼ぶと、彼はめんどくさそうな表情を浮かべたまま春香のほうを振り返った。いつの間にか降り続いていた雪もちららと舞うばかりとなり、雲の切れ間から暖かい光が差し込んでいる。舞い落ちる雪にその光が反射して、その風花が美しい男を照らしていた。そのさまを見ながら、春香はずっと疑問に思っていたことを口にする。
「なんでこんなに良くしてくれるんですか」
一年前のあの日も、昨日のあの晩も、直哉は春香を慰めるような振る舞いをした。彼がそんなことをする理由がわからない。いや、本当はわかる気もしたけれど——。直哉にそう思われるだけのものを春香は持っていない。だから信じられなくて、そんなことを問いかけたのだ。
目の前に立つ男は、しばし考え込むような表情を浮かべたあとで、にやりと勝気な笑みを浮かべてみせた。
「それくらい自分で考えろや」
直哉はそう言って、それからゆっくりとこちらへ戻ってくる。
「ま、教えてなんかやらんけど」
そう言うと、直哉は未だ雪の上に座り込んだままの春香に手を差し伸べた。ゆっくりと自分の手を重ね、春香は目の前に立つ男の顔を見上げた。
彼の整った顔立ちを引き立たせるように、柔らかな光が差し込んでいる。まるで暁の光のように、美しく穏やかな光だった。その光に照らされる直哉のその鋭い眼差しが、大きな手のひらが、春香の疑問のすべての答えのようにも思えた。
——長い夜が明けた気がした。