悠くんは不思議な男の子だった。お兄さん、という感じでもない。当時の私は年上のお兄さん__下手するとおじさんかもしれない人も含め__に憧れの感情を抱きやすくて、それを恋慕だと思っていた。たまに会うイトコやハトコのお兄さんのことが好きだったのもそうだ。とはいっても、当時から自覚があったわけではない。母や親戚に「なーちゃんは昔から年上のお兄さんが好きだもんね」と言われて、なるほど、そうだったのだろうなと思うばかりで。悠くんは、そうすると、年齢こそ私の一つ上であったけれど、そちらかというと私がひっぱり回すことが多かったように思うから、やはり私の「お兄さん」ではなかっただろう。当時はちょっとだけ引っ込み思案だった悠くんと仲良くなったきっかけは覚えていない。小さいころなんてそんなものだ。ただ、私は悠くんが好きだったし、悠くんが幼稚園を一足早く卒園するときには、人生で初めて寂しくて泣いた。姉とは異なり、父母を含め、親戚の誰にもべったりではなかった私が寂しさで泣いたのを母は物珍しそうにして慰めた。翌年、自分の卒園式でも、同学年で仲良くしていた女の子と学区の違いから永遠の別れを悟って一年越しに泣いた私は、単純に家族よりも年の近い友人に心を許しがちだったのだと、ようやく判明した。母も父も、なにかと手のかかる、それでいて一生懸命で優秀な姉に集中していて、問題を起こさない私は基本的に放任されていた。愛情に明確な差をつけていたわけではない。末っ子を可愛がりすぎて一番っ子がひねくれる、というのはよく聞く話だし、両親の判断がそれほど間違いであったとは言い切れない。ただ、妹も同様に、いや、下手をすると姉以上に周囲の大人の顔色を伺えて、その少しの差を致命的なまでに認識できてしまっていた。それだけだ。そういうわけで、名前は同年代の子らと自由に交流を深めていた。悠くんは年齢が違う子のなかでは一番好きな子だった。変に大人びた名前にとって、悠くんは他の人より落ち着きがあるように見えたし、何より「秘密」を共有した仲だった。
悠くんは未来が視えるのだと言う。私はそれを聞いて、悠くんは嘘を付いていないだろう、と思った。悠くんだから無条件に信じたのではなく、「嘘を付いていないことが分かった」からだ。私には、そういうことが分かった。ものすごく端的に言えば「空気が読める」の究極系だった。悠くんが「あの人、もうすぐ転ぶよ」と言うとき、私も「そうだろうな」と思う。私が「あと少しで家の近くで雨が降って、でもこっちは降らないだろうね」と言うと、悠くんも「そうだね」と言う。互いに互いのことが分かるわけではないけれど、それでも他人よりは間違いなく分かりあえる存在だった。
私は習い事をたくさんしていた。両親の方針というのもあるし、自分がやりたいことがたくさんあった、というのもある。小学校に上がった私は放課後で空いている時間と言えば毎週水曜日だけで、その日は仲の良い友達とローテーションするように遊んでいた。両親は私の交友関係を咎めることはなかった。私を愛していないわけではないのだ。私のために、そうすることが私のためだと思っている。そして、それは実際、私のためになっていた。悠くんと私は小学校に上がってからも良く遊んだ。ただ、これは私の視点から見た話で、悠くんからすると一週間か二週間に一回遊ぶ女の子、くらいに格下げされていたかもしれない。ただ、家が近いことから登校班は一緒だったから、毎朝話す機会はあった。そんな悠くんがある日、来てほしい場所がある、と言った。私は基本的に誰かと一対一で遊ぶことが多かった。大人数で遊ぶのも嫌いではないのだけど、それは学校の休み時間とかで十分だなと思っていたし、私が本当の意味で心を許している友達が多くなかったのもある。四人で仲が良い、みたいなこともなく、友達それぞれと一人ずつ仲が良い、みたいな感じだった。放課後一緒に遊べないことも多かった私だが、きちんと友達に恵まれていた。私の幸運なところでもある。悠くんが私を誰かに会わせたいのだと気付いたとき、とても驚いたものだ。そして、面白くはなかった。悠くんの友達が私だけとは思っていない。だが、私は友達と遊ぶ時間が限られているのだから、偶の時間くらい、私に悠くんの時間を独り占めさせてくれても良いじゃないかと、本気で思っていた。
悠くんに案内されたのは、一見とても大きい施設のような、家のような場所だった。中にはたくさん人がいることが「分かる」。
「こんにちは」
「…こんにちは」
「おお、来たか」
悠くんから話がいっていたのか、突然連れてこられた私に驚くことなく、その大人は対応した。
「はじめまして、名字名前です」
「ああ、悠一から聞いてるよ。俺は最上宗一、よろしくな」
最上と名乗った男に、悠くんはずいぶん懐いているようだった。その時点でまあまあ面白くない私は、悠くんが一体なぜ私をここに連れてきたのかを考えていた。
「俺たちは、君が悠一に似たものを持ってるんじゃないかと思ってね。それで連れてきてもらったんだ」
反射的に私は悠くんに目をやった。悠くんは少しだけ気まずそうに眼を逸らした。裏切られた、と思ってしまった。そのことに驚いて、私は黙り込んだ。「秘密」をばらされたことではない。悠くんが、悠くん自身の「秘密」を私以外に共有していたことに、裏切られたと思ったのだ。私は最上を睨みつけた。私は背が大きくないから、自然と下から睨みつけるようになる。私の警戒が伝わっただろうに、最上は物腰柔らかく対応した。
「悠一から無理に聞き出したんだ。あまり責めないでやってくれ。それに、『それ』が解決するかもしれないんだ」
私の『これ』は常時発動と言えばいいのか、自分で切ろうと思って切ることができない。勝手に読み取って、勝手に疲れて、勝手に失望する。そんなんだから、私は自分を子供だと思えなかったし、子供らしく生きるには、あまりに多くのことを「知りすぎて」いた。
ふう、と息を吐く。少しかっとなっていた頭を落ち着ける。最上は齢十に満たない私が、アンガーマネジメントしたことに驚く気配があった。そんなことが分かったって、どうにもならない。
「…分かりました。良いですよ」
悠くんは、まだ目が合わなかった。
検査を終えて、私は副作用というものを知った。そして私の『それ』は強化五感の一種だろうと結論付けられた。この組織についても、知りたくもないのに説明される。説明されなくたって、予想できたけれど。いや、だからこそ、私に説明したのかもしれない。私は個人的な感情で、この組織に従属したくないと思った。この言い回しが既に、ボーダーというこの組織に対する印象を物語っている。ボーダーの一員に、仲間になりたくない。
「私は、大丈夫です。習い事とか、忙しいし」
ボーダーになってしまえば、悠くんにとってもそうなってしまう。私はやっぱり悠くんの特別であり、唯一になりたいのだ。一番じゃなくて良い。でも、他の人とは違う位置においてほしい。私にトリオンの才能があったからか、何度も引き止められ考え直すように言われる。私は習い事を辞めたくもないし、悠くんと二人で遊ぶことも諦められないのだ。
「悠くんは?」
「おれは、なーちゃんが入ってくれたら嬉しいよ」
悠くんに選択を迫るようなことを聞いてすぐ、しまった、と思ったが、彼の返事はよどみなかった。既に最上と話がついているのかもしれない。私の未来が見えているのだろうか。その未来で、私はボーダーに入っているのだろうか。いやだ。
「…見学させてもらうことってできますか」
「もちろん」
最上についてくるように言われ、私はボーダーの基地内を見て周らせてもらえることになった。最上は悠くんを「俺が案内するから」と他の場所へ行くように促した。悠くんは少しだけ後ろ髪引かれつつ、最終的にはその場をあとにした。最上に着いて周るなかで、同級生や大人と楽しそうに訓練する悠くんを見た。私は全然面白くなかった。だが、最上をこき下ろせば悠くんに嫌われてしまうかもしれない。最上ではない方が良い。だが、ちゃんと発言権があるような大人。
「どうだった」
「…やっぱり、私はいいです」
「うーん。そうか……」
それでもまだ渋る最上に対して、最終手段とばかりに、私は言葉を重ねた。
「私が勝負に勝ったら、諦めてくれますか」
「俺と?」
「いえ。…さっきいた、城戸さんと」
これには最上も驚いたように聞き返す。
「ええ?」
「竹刀でも、さっき見た、剣でも良いですけど」
冷静に考えて、私が勝負に勝って、有用性を示せば、ますます大人たちは諦めないだろうに、私は何故か敗者は勝者のいう事を聞くしかないだろうという思想を持っていた。習い事で、能力の上下をはっきり認識していたからかもしれない。
私の提案は認められて、竹刀で勝負することになった。初めて持った竹刀は想像の三倍くらい重い。私は力がない方なので余計に。軽く振ってみて、余計にそう思う。傍から見れば竹刀に振り回されるようだったろう。こんな小娘に負けるはずがない。その心理をつくつもりで。ギャラリーもちらほら集められた。悠くんがいることを確認する。
「はじめ」
じり、と間合いをみる。城戸、と呼ばれた男に隙はない。だが、力任せでもない。少々子供に甘そう、というのも理由の一つだが、何よりある程度の権力がありそうだというのが一番の理由だった。
城戸が私の攻撃を待っている。一向に攻めてこない私に場の空気は張りつめている。少しだけ焦れたように、城戸が軽く私に攻撃してくる。受け止められるほどの力はないので、軽く受け流す。それは「さっきも見た」し、その受け流し方も「さっき見た」。城戸はそれを受けて、攻撃の手を速めてゆく。私はそれを受け流す。集中して「見て」いれば、避けられる。どこに来るかが「分かって」いれば。そして、その瞬間。私は体をぎりぎりまで落とし、一気に踏み込む。下から、顎を狙った一撃。城戸は驚きつつも、きっちり避ける。だが体勢は少し崩れた。そんな私の元に相手の竹刀がやってくることは分かりきっているので、その一撃さえ跳ね除けられれば。しかし、やはり力が足りないので、勢いを殺しきれずに、互いの竹刀が反作用によって跳ね返される。城戸はもう一度竹刀を構え直して振るだろう。私はそのまま、竹刀を手放した。・・・・更に城戸が一瞬だけ驚いたとき、私は城戸の背後に回って、首をとった。城戸ごと床に叩きつけられる。どん!と大きな音を立て、その後遅れて体への痛みがやってくる。無言。
「…勝ち?」
「…そうだな」
私は自分の勝ちを認められたその瞬間、城戸の首に回していた腕を離すと、喜びに駆けた。
「やったあ!悠くん、やった!私、これでこれからも悠くんと遊べる!」
そのときには、悠くんが私にボーダー所属を望んでいたことは頭から抜けていたし、自分の悠くんと二人で遊びたかったという気持ちを隠すことも忘れていた。ボーダーの大人たちは、自分たちに警戒していたからか随分大人しく冷静そうに見えた名前がはしゃぎまわるのを、ぽかんと眺めていた。本来、名前は明るくて活発、そして聡明などこにでもいる少女なのだ。そのことを知っているのは、ここでは迅だけだった。
迅の元に駆け寄り手を取って、半ば強制的にハイタッチさせた名前は、その後すぐさま正気を取り戻して、「あ、……」と固まった。迅もまた、色んな事に驚いて、反応できなかった。未来は視えているとはいっても、まだこの頃はきちんと制御できなかったし、まさかこんなことになるとは思っていなかったのである。
「ごめん」
それは悠くんがボーダーを悪く言われたように感じてたらどうしよう、という保身の謝罪だった。名前は迅の前では、まあまあしおらしい女の子だった。明るく元気で素直な子の方が悠くん好きそうだし、という打算もきっちり入っている。
「ううん。おれこそごめん。急に連れてきたりして」
「良いよ。悠くんが、楽しそうで良かった。悠くんが普段どんなことしてるか、とかも知れたし」
悠くんが自分に少しの罪悪感を抱いていることは分かっていたので、私はそれを存分に利用しようと思った。
「でも、これからも水曜日は私と二人で遊んでくれたら嬉しいな」
健気な少女を演出すれば、大人たちも私たちを引き離そうとはしないはずだ。私ごとボーダーに入れても無駄だと分からせるために。
「うん……」
「私、今日はもう帰るけど、悠くんは?」
「おれは…、おれもなーちゃんの家行っても良い?」
「うん、もちろん!」
名前にとってはかなり嬉しい誤算だった。悠くんも私とまた二人で遊ぶことを望んでるんだ!とすっかり調子に乗った。ボーダーは他の曜日にいっぱい行けるんだから良いでしょ、と開き直ってもいた。大人たちもそれ以上は食い下がって来なかった。今動くのは握手だと踏んだのかもしれない。さっきまでの引き留めはなんだったのかというほど、あっさりと見送られた。なんだか拍子抜けした気持ちで私たちはボーダーの基地を後にした。