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以降、名前はすっかり表情筋を動かさなくなった。元より強いて言うなら城戸に懐いていた側面もあってか、ボーダーが表立った組織となったとき、新たな本部に移っていった。旧本部に残った迅とは袂を分かつことになる。それを心配したのは周囲の大人だ。名前が迅に、そして迅が名前にべったりだったことなど周知である。中学生になり多少、人前では距離を保っていたが、それでも仲が良いことは伺えたし、互いを特別に想っているのだろうということは分かった。しかし、大規模侵攻以降、迅と名前は互いに関わることはしなかったし、問題なさそうに振舞うばかりで、世間話の一つもしようとしなかった。名前は迅のみならず、人との関りを断とうとしていた。最低限のコミュニケーションはとるものの、以前までの愛想のよさは鳴りを潜め、すっかり気難しい印象の隊員となった。隊を組もうともせず、しかし上層部も無理に働きかけることはできなかった。家族も友人も家も、何もかもを失った名前を壊すことになるかもしれないと思ったからだ。ボーダーに人が増えてゆくにつて、一人と一人があまり話さないことなど何の問題もなくなっていった。気付かない人の方が多い。そうやって、名前と迅は、同じ組織に所属しつつも、互いに別々の道を生きていた。誰かが冷戦と称したそれは、のちに第二次大規模侵攻と呼ばれる日まで続くことになる。
再び大規模侵攻がやってくるという日、ボーダーはあの日とは比べ物にならないほどの規模に成長していた。あれから約四年半。街に被害の面影は残るものの、遺された人たちが日常を謳歌できるほどの平穏を取り戻していた。それを脅かす近界民は、今度こそ。今度こそ、退ける。
名前はB級隊員ののち、技術班へ転校しているが、隊員の時は珍しくソロだった。それが許されていたのは城戸だからである、と専らの噂だった。名前は両親が亡くなって、城戸の戸籍にいれてもらった。ただ、その方が都合がよかったのだ。名前にとってこの名字は、自分が多少特殊でも認められる理由になったし、悪くないと思っていた。城戸隊員、と呼ばれるのは慣れないが、「名前で呼んで」といえば、大抵の人はそうしてくれた。名前は交戦はせず、本部の開発室で役割を与えられていた。そして、本部の中に近界民が侵入した際に、本部の職員たちを守る動きをとったのは当然だった。腐っても元隊員であり、他の人間よりは殿に向いている。黒トリガーの人型は、到底かなう相手ではない。しかし、私が引けはしない。注意を引いている間に、誰か一人でも助かれば良い。誰か戦闘員が来るまで、持ちこたえれば良い。忍田さんらに任せる頃には名前の活動体は限界を迎える。ベイルアウト先が安全とは限らない。名前はその場でトリガーをオフすることを選択した。それを咎められる者はいない。その場所が崩れる。他の職員たちは無事に逃げられたみたいだ。それを認識できたとき、名前の意識は落ちた。
暗闇。何も聞こえない。何も見えない。何も分からない。名前がそのような状態になることは極めて少ない。ボーダーが開発した、トリオンを遮断する「箱」に入ったとき以来だ。あれはただの実験だった。懐かしい、と思う。あんなに嫌がっていたボーダーも、入ってしまえば骨をうずめる場所になっていた。気に入った、とは違うと思う。使命を与えられているのは、生きやすかった。迅は、どこまで視えていたのだろう。私にどうしてほしかったのだろう。私はここまで来ても、迅と生きたかったのだ。だから、ボーダーを辞めなかった。ああ、そうか。起きなければならない。目を開けたい、のに、目の前は真っ暗だ。夢、だろうか。声が聞こえる。すっかり声変わりしてしまった、あの声が。
「名前?」
「……、じん」
目を開けると、久しぶりの光に視界がぼやけている。これは夢ではない、と思う。だんだんとはっきり見えてきた。迅がいる。未来視で私が起きるタイミングを待っていたのかもしれない。
「ああ、良かった…!」
そこで初めて、迅が私の手を握っていたことに気付く。彼は私の手を包むようにして自分の額に当てた。祈るような仕草だった。
「…私、生きてるよ。迅が何しても、何もしなくても。生きてるよ」
久々に声を発したからか、少し声がかすれているが、気にせずに言葉を重ねる。
「だから迅も、あんまり人の人生ばっか背負ってないで…生きてよ。迅が生きてたら、私もきっと、生きられるから」
腕はそのままに、迅は顔を上げて私の方を見る。
「…ごめんね。ずっと八つ当たり、みたいなことして。ごめん」
「ううん、良いんだ。おれこそ、ごめんな。…なーちゃんが、生きてて良かった。本当に」
「…仲直り?」
「…そうだな」
「……悠くん」
「うん」
「ありがとう」
「…うん」
私の視界が、再び歪んでいた。きっと、悠くんも。
***
「じゃあやっと仲直りしたわけ?」
「そうなるね」
退院までしばらくかかるということで、私は病室で暇を持て余していた。時折、見舞いに来てくれる人と話すくらいしか、やることがない。今日は小南が顔を出してくれていた。一緒に差し入れられたリンゴを食べている。美味しい。冬でもリンゴは美味しい。本当は梨が良かったが、贅沢は言えない。病人なので。
「はあ、やっとね、やっと!もうずうっと話さなくて、こっちが気を遣ってたんだから」
「その節はどうも、ご迷惑をおかけしまして……」
私はボーダーに来た頃、小南が苦手だった。もっというと同世代の子は苦手意識があった。悠くんを取られると思っていたからだ。だが良いのか悪いのか、迅と話さなくなってから、表情筋と引き換えに、もともと持っていた円滑なコミュニケーション能力をボーダーでも活用できるようになったので、そこから仲良くなった。小南が「最初来たときは迅にべったりで、私とは話そうともしなかったくせにね」とちょっとだけ嫌味を言われた。もちろん、にやつきながら。「あの時は迅をとられると思ってたから…ごめんって」と返すと、実際には迅を取られるとか、迅を好きな子が出てくるとか、そんなことあるはずがない、と小南が言う。
「迅が自分で連れてきて、大事そうにしてる名前見て、そんなのあるわけないでしょ。名前も迅のこと大好き!って感じだったし。迅も名前も、誰もちょっかいだそうと思わないわよ」
「改めてそう言われると恥ずかしいね、当時はそう見えてたのか…。うわあ、本当に黒歴史かも……」
「なあに言ってんの、これからまたそうなるでしょ」
「ならないよ!何言ってんの!」
「ええ?迅と付き合ったんじゃないの?」
「ええ?ないよ、そんなの」
「はあ?!迅のやつ、何してんのよ!」
怒り心頭で小南が言う。彼女は少々、口の中にリンゴを入れすぎだ。
「別に…そんな会話はなかったけどね。多分これからは普通にしゃべるだろうけど、それだけだし」
「あんな、彼氏面してんのに?あんた、いいの、それで」
「え=、分かんないよ。別に、迅の中で私が特別だったら、何でも。今はなんか、特別枠に入れてくれてるっぽいから、とりあえず良いかな」
「……迅も迅だけど、あんたも大概ね」
小南が少し引いたように言った。まあ、私も言っててどうかと思う。けれど、本当にそれで良いのだ。
「まあ、名前が元気そうで良かったわよ」
初めて病室に来たときはたくさん泣かせてしまった。今はすっかり元気になって、というのはこちらの台詞でもある。たくさん、心配をかけてしまった。迅から私が起きる未来は聞いていたみたいだが、どのくらいで目を覚ますかは分からなかったらしい。心配料ということで一緒に差し入れを食べているのだが、いかんせん最近は元気すぎてほとんどのお菓子類を食べていくので、ちょっと払いすぎか?とも思っている。今日もきっちり食べていってから小南は病室をあとにした。
迅が来るのはいつも、誰かが帰ってからだった。勘違いでなければ、二人の時間を作ってくれているのだと思う。迅にはサイドエフェクトで容易なことだ。
「おれと名前って、付き合ってないの」
「えっ」
一瞬、今日の小南との会話を聞かれていたのかと思って、迅の未来視では声までは聞こえないと思い直す。
「付き合ってなくない?そんな話、したっけ」
「ええ、おれが勝手に舞い上がってただけ?」
「いや、私だって好きだけど。なんかそういう話、しなかったから、別に付き合うとかじゃないのかな?って」
「名前との未来視てたら付き合ったと思うじゃん」
つまり、迅の想いを勝手に感じ取った私はそれで満足して、付き合っていなくとも、迅に恋人のような距離を許すだろう。その未来は容易に想像がつく。そして、それを視た迅は、私も当然迅を彼氏だと思っているからだと考えたわけだ。
「なんか、便利なサイドエフェクトに振り回されてる?私たち」
「ほんとにね…」
迅は少し落ち込んでいる。
「でも、おれが、ちゃんと言ってなかったのが悪い」
「お互い様だと思うけどなあ」
「なーちゃん」
「うん」
「好きだよ、ずっと。…おれの彼女になって」
「うん、もちろん。私も悠くんが好き」
私は喜びのまま、上半身を伸ばして悠くんの背に腕をまわす。悠くんはそれをしっかり受け止めると、私に口付けを落とした。私はきゃらきゃら笑って、悠くんも笑っていた。病室だし、私は入院着でベッドの上だし、悠くんもいつもの着飾らないジャージだし、全然ロマンチックじゃない。けれど、まあ、いいのだ。私たちが幸せなら。