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後に大規模侵攻と呼ばれた災害で、私は全てを失った。珍しいことではない。東三門に住んでいた人間としては、ありふれた話だった。家族は全滅。たまたま生き残った私も五体満足とはいかず、左腕と左脚を失った。他にも怪我を負った箇所はあるのだが、挙げるとキリがないので省略する。親しかった友人も軒並み亡くなったか、行方知らずとなっている。文字通り、天涯孤独だ。どんな手続きから進めていけば良いのか、全く見当もつかなかったが、国や県、市からだけではなく、民間企業であるボーダーが、このあたりを補ってくれた。私はまだ義務教育課程であったから、間もなくしてボーダー提携の孤児院に行くこととなった。私のように、災害の後遺症を抱えた子は珍しかった。被害者は亡くなるか、行方不明か、無事か、の三択が多かった。ボーダーに所属した後、近界民の狙いや性質を聞けばなるほど、そうなると理解できる。寧ろ、このような傷を抱えて生き延びた私が異常なのだ。何故かトリオン器官を抜き取られ損なった私は、今も息をしている。脆弱なトリオンによって見逃されたのか。はたまた既に息絶えていると見做されたのか、真相は闇の中だ。私はそれを解明したいとは思わなかった。近界民の思惑、というより、政治には関心がなかったのである。
私にも将来の夢、なんて大層なものを抱いていた時期があった。私は県では有名なジュニアのフィギュアスケート選手だった。国を代表するような選手にだって、選ばれたこともある。ただ、全国有数の選手が集まる合宿のようなものに参加した時に、ここが私の限界だと思った。私は高校までフィギュアを続けるつもりがなかった。この先のビジョンが見えてこなかったのだ。今思えばフィギュア選手としてのキャリアを積んで活躍することの自信がなかったのだろう。当時は「フィギュアはお金がかかるし」と親孝行の振りをして、言い訳していた。いつだったか地域の大会での優勝インタビューでも聞かれたことがある。
「ずばり、将来の夢は何ですか?」
「…研究者、ですね」
私は周りに比べて頭の良い子だった。フィギュアばかりで大した勉強時間は確保できていなかったのに、いつだって中学校では一番の成績だった。しかし、ここでもまた、私は自信があったわけではないのだ。私には一人の姉がいた。姉はフィギュアには大きな関心を持たず、ピアノを習いながら優秀な成績を修めていた。それはそれは、私とは比べ物にならないほど。私は理系科目が得意なのに反して、文系科目を得意としていた姉は、度々学校で表彰されていた。感想文であるとか、検定であるとか、ピアノコンクールであるとか。姉妹で異なる分野の才能を有していたのは幸いだったが、それでも私は終ぞ、姉よりも優れているという自信を抱くことなく、生涯の別れとなってしまった。
そんな私は漠然と、この世の謎を解き明かしたいという、幼い好奇心を抱えていて、それには研究者が向いているだろうと、対外的にその夢を語ることが多かった。インタビュアーは望んでいた回答が得られず面食らっていただろう。私のライバルとして担ぎ上げられていた同級生__今思えば私は彼女の足元にも及ばなかったが__もまた、怪訝そうな表情だった。
「名前ちゃん、選手にならないの?オリンピックは?」
「ならない。出れないし」
私はいつだって消極的で、現実的だった。そうすることで、自分を守っていた。
「なんで?名前ちゃんなら、なれるでしょ」
何の疑いもなくそう言い放つ彼女が、私は少しだけ苦手だった。絶対的な自信を有しているように思える彼女が、羨ましかったのだ。私は「こう」はなれないと、分かっていたから。
左半身を失ってしまったことは本当に痛手だが、こうして私はフィギュアを引退する理由ができた。引退を余儀なくされた、とも言う。元々受験期前には辞めるつもりだったのだから、問題ないだろう。辞めます、という連絡はコーチへの電話一本で済んだ。今の姿を見たら、失望させてしまうと思った。コーチもまた、私の将来に期待をかけてくれていた一人であったから。しかし、そもそもこの身体でひとりで出かけることがあまり現実的ではない。家からスケートリンクはかなり距離があり、毎回親が車で送迎してくれていた。脚だけではなく片腕もない私は、将来的にも運転ができるようにはならない。彼女に、今の私を見せなくて済んで良かった。不幸中の幸いだ。

私は基本的にあまり子供が好きではない。末っ子だったというのもあるし、フィギュアを始めたのが人より少し遅かった私は、年下の先輩に生意気な態度を取られたりして、年下に良い思い出がなかったからだ。孤児院の子供たちは、生きる気力を失っているように見えた。小学生以下が多いその場所で、私は年長者であり、年長者のふるまいを求められるのだが、全く一人で生きることをしてこなかった私は大して役に立たなかった。身体的に障りがなくとも家事の経験などないのに、突然片腕片脚を失って上手くやれるはずもない。毎日、必死に覚えて、毎日、必死に生きていた。どうして生きているのか、とか、難しいことを考えるのは止めた。それに何の意味もないと、すぐに気付いたからだった。
身体障碍者は就職も難しい。そもそも学校に通うことが難しく、碌な学歴も得られそうにない。ボーダーの孤児院はそこまで面倒を見てくれるらしかった。ボーダー職員の道を提示された私は、すぐにそれに食いついた。残念ながら私は「トリオン」という才能に恵まれなかったが、頭脳の才能には恵まれた。ボーダー職員、技術者たちにもすぐにそれが伝わると、中学生のうちからその技術に触れさせてもらえることになった。私は必死に勉強した。これまでの、「なんとなくやったらなんとなくできる」勉強ではなく、新たな技術を学ぶのだ。ボーダーの技術者たちとは大幅に異なる道を歩んできたであろう私は、恐らく全く異なる考えを持っていて、新たな視点からトリオンを分析しやすく、技術者というよりは研究者としての地位を確立し始めた。図らずしも、私が以前人前で語った軽薄な夢は、私の想像しない形で実現しようとしていた。
「トリオン体」によって、身体の欠損がカバーされたことも大きい。流石に情報守秘の観点からボーダーの外でもトリオン体でいる許可は下りなかったのだが、ボーダー内部であれば問題ないとされた。いくらボーダー提携の孤児院とはいえ、ボーダーに関係しない進路を選ぶ人も多いのだ。全員に事情を説明するわけにはいかないだろう。義足や義手ではない、本当の手足のように動かせる技術をボーダーが有していると分かれば、どの企業も、国も、その技術を欲しがる。トリオン技術の秘匿は難しくなるだろう。私としても、ずっとトリオン体でいれば便利なことに違いはないのだが、自分が「欠けている」ことを忘れそうになるので、丁度良かった。
私は一月もすれば、すっかりこの生活に慣れていた。人一倍適応能力が高かったらしい。学校には行けていない。小学生や幼稚園生はまとめて送迎バスが来ているが、現状中学二年生である私は、あまり学校に乗り気ではなかった。昔からの親友を一人残らず失い、そして新たに友達を作るという行為は、思春期の中学生にとってあまりにハードルが高い。しかも身体障碍者というオマケ付きだ。孤児院に学年の同じ子供がいなかったのは運が良かったのかもしれない。私が学校をさぼっても、それを咎めて引き連れていくような存在がなく、そしてボーダーも無理に私を行かせようとはしなかった。結局ボーダーに就職するなら、学校で一般教養を学ぶよりも、ボーダーの技術を学んでくれた方が得だ。それに私の才能をエンジニアチーフらに見出され、そのような特別な待遇になったらしい。私に保護者がいないのも大きな要素だろう。大規模侵攻によるショックで学校に行けない生徒は一定数いて、私は学校に行かない代わりに、そういう学生のための通信教材を与えられていた。これを出していれば、中学校は卒業できるらしい。技術班の大人のうち何人かには渋い顔をされたし、行けるなら行った方が良いと言われたが、全く学校に行く気にはなれなかった。中学校にはボーダーに入隊した生徒が他にもいたのかもしれないが、私は戦闘員の知り合いなんて、大していなかった。少なくとも、私が知っている人はいなかったはずだ。
そんなわけで、私はボーダー本部と孤児院を結ぶバスにばかり乗って、孤児院とボーダー本部を行き来する生活を送った。娯楽もなく、基本的に暇なので、積極的に孤児院での仕事も請け負った。それは年長者としての責任というより、何か仕事をしていないと落ち着かなかったのだ。考え事をする時間は、少ない方が良い。孤児院の大人も、私は精神的に安定しているから大丈夫だとみなしたのか、私を「大人側」として扱うこともあった。ボーダーへの就職が決まり、今年度でここを去る、ほとんど「大人」のようなものだからかもしれない。元より愛想が悪い方ではなかったので、大人に気に入られることは容易だった。大人にとって都合の良い存在でいることは、さして難しいことではない。意外であったのが、子供からも少しずつ好かれるようになったことだ。生意気ではない子供と接するのは、案外ストレスにはならないことに気付いてからは、子供たちを避けることはしなかった。親族を失った子供たちにする仕打ちとしては、あまりに残酷だと思っていたから。せめて遺された私たちは身を寄せ合って耐えていくべきだ。私の身体を揶揄うような子もいなかった。


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