回帰


 母はとても強い人で、そしてとても弱い人だった。
物心ついた頃から、家には母しかいなかった。家は狭いアパートで部屋はリビング、母の部屋、子供部屋の3つしかない。バスとトイレは辛うじて分かれていたが、決して広いと言えないサイズだった。今はどうだろうか。何故か記憶にあるよりずっと広いリビングである。
 俺はこの人生を歩むのが2回目であった。

 父はとても強い人だったと思う。幼い記憶にしか残っていない彼は大きな人だった。今思えば子供の自分からしてみれば体格が大きくて当たり前なのだが、それ以上に我が家を占領する体積が大きかったからそう思ったのかもしれない。母は父が来るのを少し嫌がっていた。その反面来なければ来ないでストレスに感じていたようだった。俺は父が好きだった。その厳かな雰囲気というか、言葉に表せない強さが、何より憧れだった。母に育ててもらってこう言うのも酷だが、いつも会える母よりたまに会える父を好いていた。次に会えるのはいつだろうと心待ちにしていた。母は「父さんは来たくて此処に来ているわけじゃない」と口を酸っぱくして言った。今なら分かる。父は母と別れて再婚していた。その再婚相手に言われて父は此処に来ていたのだと。当時の俺はそれも分からず、ただ父が訪れることを心待ちにした。自分でも父が此処にいる時に喜ばしそうだとは思わなかった。父は何を話すでもなく、黙ってリビングでテレビを眺めていた。実際はテレビが流れているだけで、見ていなかったのかもしれない。彼は暫くの間そうして、一定の時間が経つと用が済んだと言わんばかりに出て行った。母は父を強く追い返すこともなく、また快く歓迎することもなかった。俺が話しかけると言葉を返してくれていた気もするが、いかんせん幼くその辺りは定かではない。母が父に話しかけることは殆どなかった。父もまた、母に話しかけることは殆どなかった。いつであったか御飯時に父が来たとき、食べて行くか、と母が尋ねたが父はそれを断った。それ以来、母は父にご飯について聞くことをやめた。ご飯の時間であっても、母と自分の分だけが用意されて二人で食べた。父は何も口にせずにただ、そこにいた。俺が「おとうさんはたべないの」と父に話しかけても「いい」と断られた。母が父に勧めることがなかったから、それに倣って俺も食事をしようと言わなくなった。母は父が出て行く時にだけ、「次はいつ来るつもり」と少しきつい口調で聞いた。父は「さあな」と言うばかりでちゃんと答えた試しがなかった。期間が空いて、「おとうさん、つぎいつくるの?」と一応母に聞いてみても、「どうだろうね」と呆れた、そして同時に気の沈んだ声色で言うのだ。連絡は取っていたのか分からないが、本当に父は不定期に我が家にやって来た。月に一回程度は来ていただろう。そしてある頃から何の前兆もなくぱったりと来なくなり、それから二度と彼に会うことはなかった。一度だけ、母に、父のことが好きかと尋ねたことがある。母はその質問に驚くことなく、ただじっくり間を空けて、「……さあね」と答えた。

 母は母なりに自分を大切に育ててくれたと思う。女手一つで子供を育てるのはそれなりに大変だったはずだ。彼女は仕事に忙しそうであったが可能な限り帰宅して自分との時間を作ってくれていた。そんな母との暮らしを俺は気に入っていた。決して裕福ではないし、父もいなくなってしまったけれど、不幸ではなかった。だがある日突然、理由も説明されることなく別の場所に引き取られた。父の実家だと言う。別れる前に母に会うことは叶わなかった。母はどうしたのか、と聞くと、別の場所で幸せに暮らすと言っていた。もう母に会えないか、と聞くと母は俺に立派になって欲しいのだと、それが成し遂げられればそのとき会えるだろうと、その人は言った。その言葉は全くの嘘であった。簡潔に言えば俺は迎えられた家で凄惨な日々を送った。年齢的には中学校を卒業するタイミングで一人、家を出た。追手は直ぐに止んだ。連れ戻すほどの価値もないと踏んだのだろう。居場所を転々としながら、一度も会いに来なかった薄情な母親を探していた。文句を言ってやりたかったわけではない。いや、本当は一言くらい詰ってやりたかったのかもしれない。自分を愛しているような素振りを見せたのは嘘だったのかと問い詰めたかったのかもしれない。自分たちが元々暮らしていたところに向かったが、そこはとっくに引っ越され、別の人が暮らしていた。そして漸く見つけたとき、母は既に亡くなっていた。俺が引き取られたあとすぐに刺されたのだという。犯人は分かっていない、未解決事件であった。俺は犯人が禪院家だと確信していた。だがもうどうしようもなかった。父も母も亡くし実家を出た自分に、もう身寄りはなかった。そこからはもう、息をするだけの日々であった。一カ所に留まることなく、呪術に関係することなく、生きていた。その日々を二年ほど続けただろうか、ある日暗殺者がやって来た。今更自分を殺しに来たことを不思議には思ったものの、自分にはもう生きる意味がなかったから、抵抗しなかった。一切抵抗しなかったので一撃で自分の意識は沈んでいった。俺の一回目の記憶は此処までだった。

 そして今、再びこの世に生を受けている。二度目であると気付いたのはついさっきだ。俺は今幼稚園生くらいの年だろうと予想した。なぜ気付けたかというのはそう、父が此処にいるからだった。だが、前とは様子が違うのだ。父は母を見ていた。母は気まずそうに台所に立って昼ご飯を作っている。冷蔵庫の脇には俺が幼稚園で描いた母の似顔絵が貼ってあって……それを見て気が付く。おかしい、と。そもそも家の構図が違うこともあるが、まあそれは引っ越ししていたとておかしくないとしておこう。何より疑問なのは、冷蔵庫の壁に似顔絵が三枚並んでいることだ。似顔絵は幼稚園で毎年描かされた。つまり、三枚あるということは、既に似顔絵を描くイベントを最高学年までこなしているということだ。父がこの家に来ていたのは確か自分が幼稚園の頃であったと記憶している。__時期がずれている。そうするといよいよ自分の今の年齢も自信が持てない。混乱していたために近くにいた父に「俺って、今いくつ?」と聞いてしまった。せめて母に聞いていれば良かったのに、そこまで頭が回らなかった。「……いくつだっけか」父は母に向かって聞く。母は「もうすぐ8歳」と言った。ということは、年長どころか小学生だ。母は俺に視線を向けて、「お父さんは忘れっぽいだけだから、気にしないで」と続けた。俺が父に関心を向けられているか確認したくて起こした行動だと思ったらしい。実際は一切そんなことはない。しかし、8歳となると、いよいよこれはおかしな状況だと思い始めた。父は母を気遣っているようで、母はそんな父を邪険にはしないが警戒しているようで、俺が小学校にあがっても父はこの家を訪れている。1回目の人生を思い出したせいか、今世の今までの記憶が飛んでしまっているせいで状況が掴めなかった。母はご飯の用意ができたとテーブルに並べた。父と母は並んで座った。俺は向かいに座った。いつもは__とは言っても1回目の話ではあるが__母と自分が二人で向かい合っているから、そこに父が加わっていることは違和感であった。ご飯を食べながら、俺は自分の思考を整理していた。
 この頃はもう既に父はこの家には来ていなかった。そして数年後、父は死ぬはずだ。五条悟の手によって。自分は何故一回目の人生の記憶があるのだろう。これは一生続くのだろうか?何も分からず顔を顰めていたせいだろうか、「美味しくない?」と母に聞かれてしまった。
「ううん、ちょっと考えてただけ」
「悩みがあるの?」
「うーん…」
ここで人生二回目なんです、と言ったってしょうがないし、母を心配させてしまうようなことを敢えてする気にはなれなかった。
「勉強がちょっと」
「じゃあ後で一緒にやろうか」
母はあの頃と変わらぬ顔で俺を見つめていた。母は直接的に愛してる、などとは滅多に言わなかったが、愛されているな、と当時から感じていた。口先ではなく、態度と行動で誠意を示す人だった。
「俺は?」
「この子の勉強、一緒に見れば良いでしょ」
父は箸と皿を置くと母の体を抱いた。母はそれに少し抵抗した。何が起こっているのだろうと思った。
「迎えに行かなきゃ」
「俺も行く」
「この子と留守番しててよ」
父は母に向けていた視線を漸く俺に向けると、じっと見つめてきた。
「お前も一緒に行きたいだろ?」
それは行きたいと言え、という視線だった。俺も何が何だか分からないが、何を迎えに行くのか状況を把握したかったので「うん」と了承した。母はそんな俺の返事を分かっていたように「…じゃあ行こっか」と言った。
父は母から離れようとしなかった。三人で並んで歩くと、自然と母が真ん中になった。着いた先は保育園であった。そしてそこから女の子たちがやってくる。「今日も長女ちゃんと次女ちゃんは良い子でしたよ」と保育園の先生は言う。保育園に着いたとき、迎えに来たのが伏黒恵かもしれないと疑った。しかし、女の子だったからその説は無くなった。可能性があるとしたら伏黒恵には義理の姉がいたそうだから、その子だろうか。しかし、二人の娘という時点で少なくとも一人はそうでないことが確定している。それに、と二人の子に目を見やった。
「おかあさん」
「帰ろうか」
「きょうはおとうさんもおにいちゃんもいるね」
「そうだね」
自分は前世でも兄であったが、面と向かって兄だと言われることはなかったのでなんだか新鮮だった。この子らは紛うことなく俺の妹らしかった。父に似ているが母の面影も感じられる長女と、母そっくりな次女を見て直ぐに納得した。ますますこの世界は何なのだろうと思い始めていた。







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