前世


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 俺が禪院家を出てあちこち女の家を渡り歩いているとき、入れ込んだ女がいた。その女はとてつもないお金を持っているわけではなかったが、育ちは悪くないのだろう、丁寧で慇懃な、冷たい雰囲気を持っていた。その鋭い美しさに魅了されたのが初めだった。話してみれば彼女は存外に俗っぽく、品の悪い行動もたくさんした。だがその中にやはり芯があった。その内面から滲み出る強い意志と、どこか浮世離れした雰囲気は人を遠ざけ、そして同時に引き寄せた。髪色も明るくしていて目立つほど美人であるのにも関わらず、とても軽い女には見えない不思議な女だった。その女もまた、俺を気に入ってくれていると思っていた。彼女に本気だと気付いてからはすっかり他の女の元へ行くことはなくなっていた。彼女と過ごす時間が増えると、彼女が実は家事全般が得意でない上、好きでもないことに気付く。口では悪態をつき、すげないことを言うものの、本当の意味で友人や知人を見捨てることのできない人だった。だから、彼女がある日突然、結婚しなければならない人ができたからもう会えない、と言ったとき、俺は反論して暴れてやろうと思った反面、とても納得してしまっていた。彼女は別に家族のことが好きなわけではないが育ててもらった義理を通そうとしていて、両親が俺のような根無草を彼女の相手として認めることがないこと、そして彼女はそんな両親の意思を尊重するであろうことを知っていたためだ。分かってはいても、受けられはしなかった。対抗して傷付けてやろうかと思った。だが、それをしたところで真実傷付くのは自分の方であると知っていたので、俺は大人しく彼女の元を去った。こんなことを俺が言うのはどうかと思うが、彼女を想ってのことだった。この頃の俺は自分の欲しいものが自分ごときの手に収まるわけがないと考えていた。彼女のことを、俺の手に入らない高貴な人だと思っていた。それから暫く元のようにふらふら過ごしていると、俺はとてつもないお人好しに出会った。彼女とは違う、熱く夢中になるような感覚ではないが、その女を愛していた。その女といると自分も存在して良いと思えた。その女と出会って籍を入れたのち、彼女が赤子と共にいるのを見かけた。赤子は俺の子だった。彼女は結婚する予定だったが想定外の妊娠で破局したのだと、何でもないことのように言った。勝手に産んでしまって申し訳ないが、この子は私の子だと。俺は絶望していた。俺が彼女のささやかな幸せを願ってしたことはかえって裏目に出た。その上、自分はもう他の女と結婚して責任も取れない。彼女といることは法に認められなかった。法がなんだ、とつっぱねるにはあまりに今の妻に情が湧いてしまっていた。婚約者と破局したということはきっと実家や家族とも折り合いが悪くなって一人で育てているのだろう。だから実家でも、元いた都心のアパートでもない、こんなところに住んでいるのだろう。俺はどうやって家に帰って来たか、わからなかった。妻が後から帰宅すると、彼女は妊娠を告げた。目の前が真っ暗になったと思った。俺のあまりに動揺した様子から、「どうしたの」と話しかけられた。俺は全て話すことにした。隠したところでどうにもならないと思ったから。そのどこまでもお人好しな女は、会いに行くべきだと言った。俺は気が進まなかった。彼女に会ってしまえば、俺は彼女を求めずにいられなくなると考えていた。だが妻にあとを押され、俺は月に一度、彼女らの家を訪ねていた。息子に会うためだった。彼女はそれを父親の義務を課しているようで嫌だと言った。したくないならしなくて良いと。無理にしてもらうようなものではないと。俺は父親には向いていないと思っていたが、かといってこの子供の存在を無視することはできなかった。俺が懸念しているのは寧ろお前であると、言えたらどんなに楽であったか。妻は無事、息子を出産した。暫くは平穏な日々が続いていた。彼女には妻に言われて来ているとは言っていたが、息子が新たにできたのだと、その子に弟ができたのだと、言えなかった。そんな状況に甘んじていた罰だろうか、妻は産後の経過が悪くあっさり病死した。俺はもう彼女の家を訪ねなかった。彼女への未練を断ち切れなかったことが、妻を殺した原因だと考えたからだ。今思えば彼女のせいであったはずはない。だがそうでも思わなければ自分を保てなかった。自分を大切に思ってくれる数少ない人を亡くしてしまったことが耐え難かった。その後は妻とも、彼女とも会う前のような生活に戻った。色々なところを回って、最後に下らない自尊心で命を落とした。五条悟には妻との子だけ託した。彼女の子は、彼女がいるから大丈夫だと。元々俺が行くのをどこか疎ましく思っていたくらいには、母子仲睦まじく暮らしているようであったから。それが最善だと踏んで。今際に思い出すことなどないと思っていたが、予想に反して二人の女と、二人の子を思い返すことになるとはな、と少しだけ笑えた。

 ふと気がつくと、そこは墓の前だった。妻の_この場合、死別しているので元妻となるのだろうか_ものである。この時の自分の無気力感は凄まじかった。よりによってこのときをフラッシュバックするなんて。禪院にいた頃は、まだ良かった。光を知らなかったから。自分がどんなに暗いところにいるか、想像できなかったのだ。だが今はもう知ってしまった。愛や光や温かさを。だから全てを失ったこのときは本当に耐え難かった。その時のことなんて、生きている間は思い出せないくらい記憶が定かでなかったのに、こんなときにこんな形で記憶を思い起こさせるとは。神はずいぶん俺が嫌いらしい。そしてまだ赤子の恵を抱えていることに気付く。何が起こっているか分かっていないのか、泣きも笑いもしていない。そこでふと思う。走馬灯にしてはやけに鮮明だ。赤子の体温から、胸になにかぽっかり穴が空いた感覚までが。走馬灯と言うより、とても鮮明な夢のようだ。どうせこんなに鮮明な夢とも言えぬものであるなら、以前できなかった行動をしようと思った。彼女の元を再び訪れようと決めた。しかし、彼女はこの赤子の存在を知らない。元々が子供好きではない上、前妻の子と知ればさっさと追い出されてしまうかもしれなかったので、しばし孔に恵を任せた。もう何度も訪れたことがあるとは言え、昔の記憶を辿って無事に着けるかと疑問だったが体が覚えているように進んでゆくので助かった。俺は自分でも知らないうちにこの道順をよく記憶しているようであった。いつもであれば連絡もせずにやってくることを何とも思っていなかったが、今日はやけに緊張がはしる。インターホンを押すのではなく、いつものようにノックした。彼女はのぞき窓で確認したのか、扉を開けて俺を迎えた。彼女は何も変わらなかった。当たり前だ。この時期以来彼女には会っていないのだから。だが、無性にこの女を抱きしめたかった。生きている感触を得たかった。突然、無理矢理玄関先で抱きすくめたから、彼女は困惑と共に必死に抵抗した。その抵抗をやめるまでずっと力強く彼女を抱きしめた。暫くして諦めたのか、抵抗をやめた。彼女は抱きしめられながらしれっと腕を伸ばして鍵を閉める。「何?」「、あいつが死んだ」その言葉にハッとして彼女は青ざめた。「どう……どうして?」「病死だ」彼女は俺を軽く押し除けた。とても軽い力だったが素直にそれに従った。「何で来たの。どうするつもり」彼女は俺を鋭い眼光で睨みつけていた。気を張っていたが、俺は知っていた。彼女は泣きそうだった。涙の理由までは分からないが、泣いているなら慰めてやりたかった。涙を拭いてやりたかった。本心だ。妻のために彼女とは二度と接するべきでないと考えていたが、そもそも俺は彼女がなによりいっとう大事であって、彼女の幸せのためならば何でもしたかった。そのことを突然思い出していた。俺は彼女をずっと愛していたのだ。忘れられないから、遠ざけただけで。妻も彼女の不幸を望んではいないだろうと勝手に決め付けて、自分が楽になれるように考えた。仮に妻が自分を恨むなら甘んじて受け入れよう。罰は全て俺が受ける。そんな気持ちを。今更気持ちを確信したってどうにもならないのに。
「……愛してる。前から、今もずっと」
「、嘘ばっかり。…此処に来られても二人で精一杯なんだから、無理」
「信じてくれなくていい、今はな。だが来ることは許してくれ。金も入れる」
彼女は俺の切迫した様子を普通でないと受け取って了承してくれた。
「常識的でない行動には必ず訳があるから」と。俺なら別の女性に頼ることなんて容易いのにわざわざ此処に来たのは何か私の知り得ない理由があるんでしょうと自分を納得させていた。了承が得られた際の嬉しさから、再び彼女に近付いたら、それは本気で拒否された。






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