番外編
繋がっているような、繋がっていないような、蛇足の短編集です。甚爾視点。
もともと、彼女は人との距離が近いことをあまり好ましく思っていなかった。自分にしては珍しく、初めは間合いを探るようにして、徐々に距離感を詰めていったのを覚えている。一度家を出て、再び彼女の家に戻ってくると、彼女の警戒心は初期のころに戻っていた。いや、それ以上かもしれない。俺のいない間に心無い態度や不快な男どもが多かったのかもしれない。それを悔やむことはあるが今更どうしようもない。俺はまたはじめから、自分の存在を慣れさせるように時間を共にした。なるべく家にいるようにして、彼女が嫌だと感じない程度のギリギリを攻めて。そうすると彼女は傍にいることを認めてくれたようだった。彼女は、人に触られることを是としないくせに、ひとたび懐くといっとう甘えてくる女だった。俺が仕事でしばらく家を空ける、というと、必ずそのあとから彼女はぴったりと俺に引っ付いた。競馬新聞を眺めていると彼女が隣に腰掛けて凭れ掛かってくる。肩に頭を預けられ、片腕に絡みつくようにして擦り寄られるのだ。俺はそのまま腕を回して彼女の肩を抱いた。その手を取られて顔に当てられる。その手に自分の手を重ねて強請るような視線を送ってくるのだ。初めの頃は、こいつから誘ってくることが珍しくて、驚きと嬉しさで直ぐに据え膳を食らっていた。だがこうも毎回、仕事に行く前に必ずこうされれば、いい加減彼女の言動にも説明がついてきた。これを誘いだと思っていたのは俺だけで__実際に彼女が拒んだこともないし、あながち間違いではない。というか。あれは誘い以外の何物でもない__彼女としては「寂しい」「私に構って」といったところだろうか。もっと言うと「置いていかないで」であると気付いたとき、俺は衝動的に彼女をかき抱いた。彼女は良く分かっていないようだった。突然の変化に戸惑って、不安を堪えたような顔をしていた。俺のせいだ。俺の変化を誰よりも恐れていた。彼女に不安を与えているのは、俺だと、よく分かっていたから、その不安を少しでもなくしたかった。不安があるということは信頼されていないということだ。俺は何度も彼女への想いを口にした。言いすぎると軽くなるから、言いすぎず、だが絶えず言葉にした。彼女はそれを受け入れた。段々と彼女の不安がなくなっていくのを感じた。そう、そのころに始まったのだった。彼女は何も俺とそういうことがしたいのではなく、ただくっついていたいだけだと気付いてからはあまり手を出さなくなった。もちろん、耐えられないこともあったが、まあ許容範囲だろう。
しばらくされるがままにしていると、焦れたように腕をひっぱられる。もうとっくに読んでいなかった競馬新聞を置いて、その空いた腕で彼女を引き寄せ、自分の上へ乗せた。向かい合わせになると今度は胸板にぴっとりと張り付かれる。依然として片腕は捕らわれたままだ。もう一方の腕で彼女の腰を支え、捕らわれた腕を緩く解いて、彼女の頭を撫でた。彼女は胸板に顔をうずめている。彼女も自分の腰に腕を回すが、あいにく腕の長さが足りなくて背中を抱く形になる。よしよし、となだめるようにして幾許か経った頃、彼女が身を起こす。それを咎めるように腕に力を加えて逃げられないようにする。これもいつものことだ。彼女の方からやってきたのに、最後には俺の方が惜しくなって「行くな」と思ってしまう。実際に家を長らく空けるのは自分であるのに。「もう支度しないと」にわかに力を緩めれば彼女は拘束から逃れて行動し始める。「…甚爾も来る?」「ああ」息子の迎えの時間だった。彼女の時間を息子に取られるような感覚がして、俺はあまり好きではなかった。
***
俺が久々に帰っても、彼女は変わらない態度で俺を迎えた。
「あ、おかえり」
そして暫く、なんとなく距離を取られる。帰ってきてすぐに抱かれるのが気に食わなかったらしい。それに応えて機嫌を取ることもあるが、生憎今回ばかりは我慢できそうもない。そっけなく振舞う彼女の背に抱き着く。少しだけ驚いたようだが、平静を装って作業を続けている。
「……」
「……なあ」
「…何」
こちらに視線もよこさないので、もっと彼女に密着して、彼女の顔を触るが逃げるように顔を背けられてしまう。顔をこちらに向けさせようとしたそのとき。
「お父さん!おかえり」
舌足らずな息子がそういった。こいつは俺に似てか、やけに人の気配に敏感だった。ちっ、と軽く舌打ちすると彼女が「やめて」と咎める。それも気に入らなかった。彼女は俺が時間を邪魔されたこと、それから息子の存在自体、両方に対して苛立っていたのを分かっていたのだろう。
「……おー」
俺は顔だけそちらに向けたが、彼女から離れようとはしなかった。彼女は呆れたように息を吐いていた。息子は俺の態度を気にする様子もなくソファーに座ってテレビを見ていた。普段なら彼女を手伝おうとするのに、珍しくそのまま腰掛けたのを不思議に思って、それからこんな子供に気を遣われたのかと、愕然とした。俺が何も言わずに立ち続けていると「そこ邪魔だから、長男と一緒にいて」と言われてしまう。そのまま流されるようにソファーに座ると、そいつは俺と彼女を繰り返し見た。
「お母さんと話せた?」
「……」
声を落としているつもりだろうが、彼女にも聞こえているかもしれない。料理とテレビの音でかき消されているかもしれなかったが。
「お父さん、お母さんのことすき?」
「…ああ」
「じゃあいっしょにいなきゃ。お母さん、さみしいよ」
「そう言ってたか」
「ううん…。でもさみしそう。お母さんもお父さんが好きだから」
「、お前は?」
「うん?」
「お母さんが好きか」
「うん!お父さんも!最近は会えるから」
「…じゃあ俺がお母さんもらっていいか」
「うーん……。うん、いーよ。おれ、いつもお母さんと一緒だし。お父さんはたまにしかいないから」
息子に許しを請うのもおかしいが、くれるというならそれに越したことはない。元々俺のものだが、俺のいない間、こいつが彼女のそばにいたのも事実だからだ。そいつが良いと言うなら、もう文句を言うやつはないだろう。彼女が許せば、彼女は丸ごと俺のものだ。そして、俺も彼女のものだ。これは彼女が許そうと、許すまいと、変わらない。彼女はそれを信じ切れていないようだが。
息子がいる状態では彼女は俺に近づくことはない。そして俺から触れても嫌がることが多い。夜を共にするなどもってのほかだった。この家は部屋が三つしかない。リビングと息子の部屋と彼女自身の部屋だ。つまり、息子がいる限り俺は制限され、日中しか彼女に触れられる時間がないのだ。それも仕事をしている彼女にとって日中の休みは貴重で、俺にばかり構っていられない。それは良く分かっている。分かっているが納得がいかなかった。俺が稼いでくるから仕事を辞めて良い、と言っても頷かなかった。俺が来なくなる日を懸念しているのかもしれなかった。彼女が仕事をやらないで済むには、と考えた結果が妊娠だった。当然だが絶対に避妊具を外すことは許されず、彼女は生理痛軽減のためピルも服用していたから、なかなかうまくいかなかった。彼女がばつが悪そうに「…妊娠した」と告げた時は心の中で喜んだ。彼女が望まぬ妊娠で気に病まないかだけが心配だったが、新しい命自体は喜ばしいことだと言っていたので一息ついた。産む意思はかたいようだったが、しばらく間を開けて、俺に伺うようにして聞いてきた。
「産んで…いいの」
「ああ。俺が産んでほしいんだ。…いいか」
「うん」
彼女にいつも以上に細心の注意を払った。気が気でなかった。彼女と寝られないのは苦痛だったが、彼女の腹に宿っているのが自分の仔だと思うと胸がすくような思いだった。彼女は仕事をやめた。前回の妊娠、出産でも休みをもらって復帰させてもらったのに、また休ませてもうことはできないと言った。だが、彼女は出産を終えると新たな働き口を探して働き始めた。妊娠中に比べ家にいなくなった彼女が気に食わなくて、懲りずにまた妊娠させようと試みた。結果的にそれはうまくいったが、彼女から「もうやめて。…なるべく家にはいるから。お願い」と言われ、これが最後の仔になるだろうなと思った。俺自身も妊娠中は欲を抑えなくてはならないし、彼女への負担があまりに大きいので、これきりだと思っていた。彼女は出産後、すぐには働かなかった。一番下の娘が1歳を過ぎたころに「そろそろ働きたい」というから、それを機に引っ越そうと言った。ここは5人で過ごすにはあまりに狭かった。新しく越したマンションでは、各個人の部屋と夫婦の寝室をつくった。彼女はそこでパートを始めた。平日と土曜に週3回程度、それが互いの妥協点だった。生活費は折半するという彼女の意見をつっぱねて俺が払っていた。彼女の稼ぎは、彼女自身で使ってほしかった。その願いはかなわず、ほとんど子供たちにあてられることになるのだが。数年間はそれでよかった。だが子供が大きくなって自立すれば彼女との時間が増える…と思いきや、「学費が不安だから仕事を増やしたい」なんて言う。ただでさえ、一番上の息子が「男」になるにつれ気に入らないのに、そいつらのためにまだ時間を使うのか、と理不尽な怒りで「もう仕事を辞めろ」と言った。
「貴方に安定した稼ぎがあったら言ってない。…不安なの、分かるでしょう」
出所もよく分からない金を頼りに生きているのが怖い、ということだろう。それは当然の感情であるように思った。つまり、定職に就けば彼女は仕事を辞めてくれるということだ。そこからは早かった。仕事で五条の坊にうまく恩を売る形で接触し、高専で雇われた。これで問題ないだろうと彼女に報告すれば、彼女はとても驚いていた。「甚爾が、先生……?」うるさい口は塞いでやった。
そこからすぐに、再び引っ越しをした。高専に通える距離の、一軒家を買った。この家を改造して、俺は彼女を家に閉じ込められるようにした。高専で働くにあたって、元妻と、もう一人の息子について問われた。俺は彼女にそれを知られたくなかった。知られてしまえば、彼女はもう二度と自分を信頼してくれないと思った。彼女に余計な情報がいかないように、閉じ込めたのだった。もちろん常に彼女が子供らに会えないわけではなかったが、俺といる時間を確保できるようにした。彼女は抵抗していた。下の子はまだ幼かったこともあって、必死に抗議していた。だが俺は承諾しなかった。もう散々あいつらには時間をやっただろうと、そういう思いも当然あった。俺は子供たちにも彼女をやるつもりは微塵もなかった。ずっと彼女といたから、彼女は俺の職を心配していた。だがまあ、問題ない程度には顔を出していた、はずだ。彼女は次第に抵抗しても無駄だと、状況を受け入れ始めていた。ここまでくると俺も、彼女も、誰も引っ込みがつかなくなってしまった。俺はこの状況に満足していたし、一生これでも良かったが、彼女はそうではないだろう。心から幸せだと言えないだろう。だが彼女が「ここから出たい」と言って、それを認められるかは分からなかった。ずっと彼女と一緒に過ごしていたから、彼女と離れる生活が想像できなかった。彼女はもう一人の息子について知ることはないだろうと思うが、それでも怖かった。息子が高専に行くと言った。俺は認めるべきか迷った。この家から出ていくのは喜ばしいが、それでもう一人の息子との接点が生まれることは確実だからだ。あれは高専に行くことが決まっていた。だが自分で決めたのなら、と結局承諾した。俺が子供らの母を奪っている自覚はあった。そのとき息子に、高専の話は母にはするなと口を酸っぱくしていった。母親を呪術界に巻き込むな、という建前で。恵は五条の秘蔵っ子として高専に出入りすることもあった。恵は父親に別の家庭があることを知っていた。あいつがわざわざ長男に言うとも思えないが、五条の坊あたりは喜んで言いそうだ。実際に入学したての頃、恵と長男を引き合わせて「異母兄弟なんだから仲良くね!」とモラルもへったくれもないことを言って去っていったことがあったらしい。俺はその場にいなかったが、あとから長男に尋ねられた。俺が本当だと言うまでもなくあいつは俺に似ていたから、長男も確信していたようであったが。
「…母さんは、知ってるの」
「…いや」
「言わないつもり?」
「ああ……お前も、言うな。分かったか」
息子は納得がいかないようだったが、母を傷つけるかもしれないとは感じたようで、何も言わなかった。恵が高専に入学してからも、いち先輩後輩として、うまくやっているようだった。息子の様子を彼女は聞いていたようだったが、息子もその辺りはうまくやっていたらしい。
***
彼女が家を出た原因は、結局俺の過度な束縛と、恵のことだった。俺に荷物を届けようと高専に来たことがあり、そのときに恵を見かけたらしい。自分の子供ではない。でも確実に俺の子だと分かったのだという。情報を整理したくて、一人になりたくて、衝動的に家を出てきてしまったと言っていた。娘たちに迷惑をかけたと反省していた。本当に反省すべきは自身であるとよく分かっていた。彼女が恵のことを知ってなお、自分と生きてくれることがたまらなく嬉しかった。恵と、連れ子の娘まで面倒を見るべきではないかと提案してきたときは「どうしてそうなる」と思わず口をついて出た。彼女がそんなことをする必要はない。だが、恵と津美紀はどうしてか彼女を気に入っていた。彼女は度々、娘も引き連れて恵たちの家に行っていた。昔なら気に食わなかったかもしれないが、今ならもう、彼女の中で一番は俺だと分かっているから、腹は立たなかった。
「お父さんって、いっつも名前さんのこと見てるよね」
「…あ?」
津美紀にそう言われたのは、彼女と買い出しに出かけているときだった。めずらしく津美紀だけが着いてきていた。その荷物持ちに俺が駆り出された。いや、言われないでも俺は彼女についていっただろうが。
「あー…まぁな」
娘に、まして彼女につながりのない娘に、そういわれるのは咎められるようで居心地が悪かった。
「いいなあ」
彼女が会計を済ませてこちらにやってくる。
「素敵だね」
津美紀は笑っていた。
「どうしたの。なんか…にやにやして」
「ううん、何でもない!」
不思議そうな顔をしている彼女から、今しがた買ったものを入れた袋を預かる。彼女は「ありがとう」と自然に手渡した。
「私、お父さんと、名前さんみたいな夫婦になりたいな」
「…やめときな。悪いことは言わないから」
「ええ?」
「あなたの父親を悪く言いたいわけじゃないけど、碌な男じゃない。もっと良い人がいるよ」
「そうかな?あっ、お父さんが好きってわけじゃないよ?」
「それはそうでしょ」
「おいおい、ひどい言われようだな」
津美紀が俺を好いてその発言をしたわけではないと、彼女も良く分かっている。もしそうだったなら、彼女はもっと取り乱しただろうし、俺も自分から、何より彼女から津美紀を遠ざけただろう。
「二人を見てると、なんか素敵だなって思うの」
「……そう」
俺たちのどちらとも血のつながらない義理の娘にそう言われるのは、互いに据わりの悪い心地だった。照れ臭いのかもしれなかった。実の子供たちは俺たち夫婦の関係に遠慮していることが多かったから_まあ全く問題なことであるが_夫婦仲について言ってくることがなかった。俺は荷物を持つ手と反対の腕で彼女を引き寄せた。案の定、彼女は津美紀の前なので抵抗したが、逃げられないように力をこめれば、すぐに諦めた。実の娘たちよりは、そういう姿を見せることに抵抗が少ないらしい。彼女は「もう帰ろう」と言うと、そのまま歩き出す。津美紀は表情を明るくして、彼女の隣に並んだ。
「ほら、やっぱり素敵でしょ」
「…ちょっとはね」
小声の会話も俺の耳はよく拾った。気分が良くなってさらに密着すれば「歩きにくいって」と小突かれた。
***
初めて出会った頃、俺はどうしようもなく何人もの女の家を転々としていた。珍しく名前の家には長いこと滞在しているな、と思った次の瞬間にただならぬ想いを自覚した。隠そうとしたがまるで無理だった。なるべく彼女に対して誠実であろうとしたが、既に遅かった。彼女も俺を好いていたが、その反面俺を見限っていた。一度、なんだったか、喧嘩をしたことがある。確か昔の女と出先でばったり出くわしたのだ。あろうことかその女は名前への敵意を露わにしたから、彼女は怒っていた。
「私を巻き込むのは違うでしょ」
可愛い嫉妬だと思った。だから彼女を手篭めにしようとキスをして寝室に連れて行こうとした。
「…やめて」
彼女は静かに怒っていた。
「そうやって宥めて解決しようとするの、やめて」
「嫌か?」
「…行為が嫌なんじゃなくて、私が怒ってるのにしようとするのが嫌」
もう寝る、と言うと彼女は一人で寝室に向かった。俺は途方に暮れていた。今まではこれが自分なりの謝罪方法だったので。まるでどうしていいか分からなかった。
彼女はそこから暫く冷たかった。俺は動揺するばかりで、謝罪の一つも言えなかった。それでも、彼女が連れなくても、彼女の元を離れる発想はなかった。彼女が俺を追い出そうとはしなかったことに甘えて。一週間が経った頃、彼女の方から「こういうときは、ごめんって言えば良いの」と言われた。
「次からはこうする、て言ってくれたら納得するから。私はそうやって謝ってほしい」
彼女の具体的な解決策は俺の心に深く刻まれた。
「…悪かった。お前にもう、迷惑はかけない。他の女のところにも行かない」
「…うん、分かった」
彼女は俺を抱きしめた。彼女から俺に触れることは本当に珍しかった。
「私も長らく怒っててごめん」
「ああ」
「甚爾は、喧嘩したら直ぐ仲直りしたい?話し合いじゃなくて、一旦抱きしめられたい?」
「…そうだな、」
俺が彼女に怒ることなんてあるだろうか。だが仮に怒っている時に彼女から求められればそれは気持ちがいいだろう。彼女にはその通りに、後者だと伝えた。
「…分かった」
俺は腕の中の彼女を離すまいと力を込めた。そのまま抱えて寝室に向かったが、今度は抵抗されなかった。
俺が怒った、というより悲しかったのだろうか、あの時は流石に堪えた。彼女が他の男と結婚すると言ったときだ。どうしようもなくやるせなくて、壊したくとも彼女を想うと壊せなくて。その時は彼女が俺にべったりだった。それは俺が言った方法を実践しているのだと分かったが、余計に別れを告げられているようで辛くもあった。彼女から抱きしめられる度、ごめんね、という想いが伝わってくるようで。綺麗な別れ方だった。最後に「ありがとう」と彼女は言った。震えていたが口元には笑みが浮かんでいた。彼女が俺を愛していたということだけで、この先も生きていけるだろうと、そのときは思っていた。彼女のいない日々があまりに陰鬱であると気付くまでは、であるが。
彼女は戻ってきてから、また俺に触れることが増えた。それは不安を失くしたい思いと、それから自分への謝罪だと気付いた。彼女は大昔にした、喧嘩の仲直りの約束を覚えているようだった。こんな風に穏やかに過ごしていると、別れ際のことを思い出す。だが、今回は違う。彼女は俺の元を去らない。いや、去らせるような真似はしない。歳を重ねて互いに安心感が増すと思いきや、俺たちはあまりに歪みすぎて__殆どが自分のせいである__なかなか不安が拭えなかった。だからこそ、互いの穴を埋めるように抱きしめ合う、その時間が増えたのだろうか。「家族」でいる時間も悪くはないとは思えた。独占していなくとも、彼女は俺を愛している。だが、ふとした瞬間に湧いてくる不安は抑えられなかった。彼女と二人でいる時間も、俺は変わらず必要だった。彼女にとってもそうだ。一番上の息子が高専に行ってすぐ、彼女を解放したのは意外にも悪手だったかもしれない。彼女も、俺が長い間拘束して洗脳紛いのことをしたせいで、俺から離れることは不安を煽っただろうに、部屋から出られた嬉しさで俺から距離を置くことが多かったからだ。彼女が自分を逃すまいと力を込める。
「……甚爾ぃ」「あァ」
時折、恨めしそうな視線を向けられることがある。その視線でさえ、堪らなかった。
「…もっと、……」
彼女はその先の言葉が見つからないようだった。もっと抱きしめて欲しい、愛してほしい、一緒にいたい。どれもすでに叶えられているのに、これ以上望むことがないと気付いたようだった。自分これ以上何が欲しいのか分からないようだった。分からないのに、欲しい。自分と全く同じ感覚だった。互いに、互いの全てを有しているのに、互いにもっと欲しがってしまう。ぴったりくっついていても、何かが。普段はそんなことは思わないはずなのに。
「いい歳して、嫌ね」
「お互い様だ」
そういう時は彼女と夜を共にするに限る。根本的な解決でないのかもしれないが、何度しても良いものだから。彼女は変わらず俺に対して謝罪を続ける。家出したことに対して、今更ながら負い目を感じているらしい。だから俺も返す。
「ちょっと痛い。力強いけど」
「愛だろ。…もう許してるってことだ。そもそもは、俺が悪かったしな」
「うん。それはそう。…でも、ありがとう」
彼女は頬を緩めると、擦り寄った。
「これは、謝罪じゃなくて。ありがとうってこと」
これからは、これに感謝の意をつけようと、新しい約束をしたんだ。
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