家族


***

 母は行くなら海だろうと当てをつけ、長女と恵くんに伝えて一週間、辺鄙な田舎の海沿いで母を見つけたと恵くんから連絡があった。直ぐに長女に連絡しなかったのは、久しぶりに母と二人で話す時間が欲しかったからかも知れない。
「母さん」
「…ああ、長男」
自分を連れ戻しにきたと分かっているのか、大きなリアクションはしなかった。
「帰ろう、母さん」
「どこに?」
「家に」
「、、お前は?」
「俺?俺は寮に…」
それきり黙り込んだ母に、ミスったかな、と思ったが彼女は俺に「もっとこっちにおいで」と手招きした。それからぐっと抱きしめて泣きながら「ごめんね」と謝罪を繰り返した。謝罪をすべきなのは父であって、母ではないと俺はよくわかっていたので「謝らないで」と言った。母が落ち着いたのを見計らって恵くんと、長女に連絡した。そこからの道すがら、久しぶりにたくさん母と話ができた。母は恵くんの存在を知っていた。最近のことだった。それもきっと重なったのだろうけど、本人には黙っておこう。きっと彼はそれを責任に感じてしまうから。「癇癪を起こして、大人気なかった。ごめんね」母は繰り返しそう言った。

***

 その人はうつくしい人だった。
「すみません。名前さんですか」
「……伏黒、恵くん」
「、!俺のこと、知ってますか」
「ええ」
長男さんからは、母は君のことを知らないと伝えられていたので素直に驚いた。しかし、父親にあまりに似た容姿だから、隠せるものも隠せないだろうとも分かっていた。父から逃げている、とふんわりとしか事情を聞いていないのでどこまで踏み込んでいいものか分からず迷う。
「ここでは何を?」
「うーん、特に、何も。強いて言うなら海を眺めていました。色々考えてしまって」
「……」
これに何も言えず、俺は彼女の視線の先を追った。水平線がある。お世辞にもこの海はものすごく綺麗な海とは言えない。かといって汚いわけでもない。日本の沿岸部ならどこでもよく見られる光景だ。海が好きなんだと、長男さんが言っていた。
「海が好きですか」
「ええ。生まれが海に面したところというのもありますけど、旅行でもよく海に行ったから。思い出があるんです。その思い出が海を見ていると甦ってきて、、それで好きなんです」
「、素敵ですね」
母親を知らないから、彼女の顔が母の顔なのかが俺には分からない。かといって父親のこともよく知らないが。
「懐かしいですか」
「……そうね、そうかも」
彼女を見つけたとき、直ぐに長男さんに連絡しなかったのを後悔した。声をかけて確かめてから、なんて思った俺が馬鹿だった。
「…帰りたいとは、思いませんか」
「…………貴方にそう言われるとはね」
彼女は心底驚いたようだった。
「貴方には、関係ないでしょう」
「俺は…、確かに俺は名前さんとの関わりはないです。ですが父は貴方を気にしていますし、俺はその父と繋がりがありますから、その、完全に関わりがないとは言えないでしょう」
「私は貴方の母親じゃない」
鈍器で頭を殴られたかと思った。別にこの人を実の母親と思ってはない。そもそも父にちゃんと別で家庭があったことさえ中学生になってから知ったのだ。だが、この人が母になってくれたらとは思っていたのだろうか。本当に小さい頃であるが、そのときは幼心に母が恋しかった。血が繋がってなくても良い。純粋に自分を大切に思ってくれる母が。そんな気持ちはとうに消えたと思っていたけれど。
「どう頑張っても、なれないの。分かるでしょう」
「分かっています」
分かっている。彼女からしたら愛する男を誘惑した愛人の子だ。俺の実母と籍は入れていたらしいけれど、そこは重要ではない。俺を愛せなど言わない。俺の姉を愛してくれなど。誰がそんなことを望んだ、と怒りさえ覚えた。彼女がはじめからあまりに冷静に対応するから、彼女が心の病で家を出たことを失念していた。そのことを思い出さなければ俺は彼女に怒鳴りつけていたかもしれない。貴方には失望した、と。辛うじて思い出せたのは、彼女が震えていたからだ。今にも泣き出しそうだった。涙は溢れていなかったが。彼女は悲しいようだった。
「私じゃ……貴方の母のようにはなれないの」
それは俺の「母」という役割になれないというより、「俺の母」という女性としての意味合いのようだった。彼女は父を愛していた。その愛は父によって歪められた。そこでようやく俺は、彼女が俺を責めていたのではなく、自分が父の唯一でないように感じられる根拠の俺に向かって、問うていたのだと分かった。
「父は、…あまり詳しくないですが、俺から見た今の父は、貴女を大事にしています。この世で一番」
「知ってる。だって貴方の母は生きてないじゃない」
「訂正します。今までも、死んだ人を含めてもそうです」
彼女はそれを聞いて自嘲した笑みを浮かべ、
「そりゃ貴方はそう言うしかないわ。ごめんなさい、大人気なかった。子供に対しての態度じゃなかった。本当にごめんなさい」と言った。
これまでの会話は終わり、というように締めくくられてしまったので訂正する隙もなかった。俺は本当に父がこの人を一番に愛していると疑っていなかった。本当に俺の母がこの人より大事なら戻らず、そして戻ったとて再びくっつくことはできなかっただろう。けれど俺が父をこの人以上に知っているはずもないから説得力がない。そもそもこの人の幸せは願えるが、別に父は不幸になろうと関係ない。父の幸せのために訂正してやるのも違う気がした。ただ、彼女は幸福であって欲しい思いで訂正してあげたくなっただけだ。彼女の幸せが父と共にあると言うなら止めない。しかし彼女の幸せがそれ以外であると言うなら俺はそれも止めない。とにかく俺に判断できることではなかったので、長男さんに一報を入れた。おそらく貴方のお母さんを見つけたと。会話したことは伏せておいた。
「謝られることじゃありません。この先は長男さんたちと話して下さい」
彼女はそれをよく分かっているように頷いた。日も落ちてきているのに、その場から動こうとしなかった。
「、、宿はどこですか」
「すぐそこ。あなたはそろそろ帰らないと、終電が……。東京の西でしょう?」
俺だってはじめは帰るつもりでいたが、この不安定な人を見ているとなんだかひとりにしておけなくなってきたのだ。
「俺も泊まります。宿の部屋に空きありましたか」
「……多分」
「案内お願いしてもいいですか」
「ええ」
彼女はやっと動き出すと徐ろに歩き出した。海辺の、本当に近くの宿だった。もう一部屋をすんなり押さえられるくらい、人は多くないようだった。彼女は部屋に戻り、夜になっても一度も部屋を出なかったようだった。拍子抜けした気分だった。朝方にチェックアウトを済ませて長男さんの到着を待ち、入れ替わる形で帰宅した。彼は、母と話してから、共に帰ったと報告を受けた。

***

 母が帰ったことを父に伝えるべきか、最後まで悩んでいた。父は家を出てしまったものの、一応高専には顔を出しているからだ。母との約束だからだろうか。父とは学校でも必要以上に話すことがなかった。俺がなんとなく距離を測りかねているのもある。母は家に帰ってから、本当に何事もなかったように暮らしていた。娘二人にも謝って、いつも通りなのだと。父のことも尋ねなかった。母に「父に知らせても良いか」と聞くと黙り込んで、「私がいることは言わずに、家に帰ってくるように伝えて」と言った。それじゃあ父は帰って来ないだろうと言うと「ならしょうがないね、お父さんのことは諦めて」と切り捨てたのだ。とにかく父とは話をしなければならない。
「父さん」
「…あ?」
父は、明らかによく眠れていないようだった。
「一回家に帰ってくれない?」
「…お前が帰れば良いだろ」
「もう帰った」
「また帰れば良い」
父は娘に会いたくないようだった。
「じゃあ俺も帰るから、一緒に来て。泊まらなくてもいい」
はあ、と溜息をついた。
「そこまでして何になる」
「いいから。今日の放課後ね」
暫く帰っていないことを少しは悪いと思っていたのか、父は意外とすんなり了承した。泊まらなくていいと言ったのが良かったのかもしれない。きっと父は家に帰るだろうと思った。彼が一番欲している人が家で待っているのだから。

 父は空いた口が塞がらないようだった。
「ただいま」
「おかえり」
「……ああ」
長女が迎えると父は少しだけ罰が悪そうにした。次女は遅れてやってくると父と同様に居心地の悪そうな顔をした。
「…ごめんなさい。ママのこと傷付けて」
次女はもう拗らせた感情にケリをつけていた。五条先生と長女のおかげだと思った。長女とは何やらよく話していたと、先生から聞いていた。
「お前は……。いや、いい。俺も悪かった。謝るならお前の母親にしろ」
玄関先からリビングに移動していくと、調理音が聞こえてきた。母だ。父がそれに気付かないはずがない。父はハッと顔が強張って次の瞬間にはもうリビングへ向かったようだった。残された兄弟たちは、やれやれと言ったように後を追った。母は台所に立っていた。父は母の元にいたが、母にスルーされているようだった。
「おかえり」
「ただいま」
「もうすぐできるから、待ってて」
「おい、なんで……」
「何が?」
「…帰って来てたのか」
「いけない?」
「いや、違う、良いんだ。悪かった」
「何が?まあ別に怒ってないけど」
「怒ってないのか」
「何、どういうこと?元々、落ち着いたら帰るって言ったでしょう。考えがまとまらなくて、家に帰りたくなかったからちょっと家を出ただけじゃない。そんなにおかしい?甚爾。貴方だって家に帰らないことくらいあったでしょう。連絡もなしに。私はちゃんと連絡した。何がいけないの?」
「いけなくない。だが出て行くのはやめてくれ。俺は…お前がいないと、駄目だ」
「自分は良いのに?私は一生家に居ろって?私だって出かけたいことくらいある。一人でいたいときだってね」
「俺もお前に言えないところには行かない。出かけたい時は言ってくれれば良い。どこでも反対はしない」
「…一人の時間は?」
「……家にいるときなら」
「……とりあえずそれでいいわ。今度から全部聞いてやるから。どこに出かけるのって」
「ああ。もちろん」
母と父はとりあえず互いに妥協して合意したらしい。母はずっと手元に向けていた視線を父にやると「手を洗って来たら」といった。続いて俺たちにも目を向け笑いかけて「あんたたちもね」と。

父が帰ってくると踏んでいたのか、母はいつもより大量に夕飯を作っていた。
「これで帰って来なかったら別れてるとこだった」と笑っていた。父は口角が引き攣っていた。子供たちを放ってあまりに関心がないならもうやっていけないと。母は結局子供たちと、それから父も、大事に思っているようだった。父にも、俺たちへの情が残っていた。それだけだ。母は恵くんの話題は出さなかった。妹たちの前だったからかもしれない。母は妹たちが寝ついた頃、父と俺をリビングに集めて話し出した。
「恵くんと、そのお義姉さんについてなんだけど」
そう話を切り出した母は、目で父を非難していた。
「もう彼も高専だし、今更面倒見るとかもないのは分かるんだけど、この家と無関係ってわけにもいかないでしょう」
「名前…あいつは」
「言わなかったのは、もう良いの。もう…私は元妻あの人になれないって分かってるから」
「違う。聞いてくれ名前。俺は…怖かった。それを言ってお前に捨てられるのが。あいつの方がお前より大切だからじゃない、本当だ。誓っていい」
「なら、どうして?私が捨てられる立場じゃないって分かってたはずでしょ」
「お前に嫌われたくなかった」
「今更。貴方はいつもそう。昔は…あんなにふらふらしてたくせに」
「名前」
「……恵くんたちを法的に貴方の子供だとはできないの?そもそも、本人たちが望むかだけど」
「…いや、どうだろう。できなくはないと思う。聞いてみる?二人呼んでさ」
「ええ。できればその、お世話になった五条さんも交えて」
「お前も来るのか」
「そりゃ…そうじゃない?貴方も来るんだよ」
「…ああ」
 あんなに両親は揉めたのに、後日、話はすんなりと進んだ。特に津美紀ちゃんは、家族を望んでいるようだった。五条先生は何て言うかな、なんて危惧していたのも杞憂だったようだ。「恵と津美紀が良いなら良いんじゃない?」と。五条先生と母は初めて会ったはずだけど、母はあんなに目を引く容姿である五条先生の容姿について特に言及しなかった。「変わった人とは思ったけど」と。先生は先生で、「長男のお母さん若いね。おいくつです?本当に甚爾と同年代?」と不躾な質問をして父に殴られていた。「見てんじゃねえ」先生は楽しそうだった。母は終始緊張していた。恵くんも、津美紀ちゃんも、母のどのような面を見たと言うのか、何故か既に好ましく思っているようだった。歪な、普通の家庭ではないが、悪くない。俺は幸せだった。

***

 彼女が子供について悩んでいたとき、俺は平然とこう言い放った。
「ならもう、俺と二人でどこかに行こうぜ」
誰も知らないところへ。海が近くだと尚良い。俺はそれで良い。寧ろそれが良かった。だが彼女は捨てられないだろう。そのことをよく知っていた。
「昔ならね、あり得たけど。もう子供を捨てられる年齢でもない」
「昔なら、?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
それが嘘か本当かは置いておいて、俺は素直に嬉しかった。彼女が愛しかった。昔からそうだ。いくつ歳を重ねても、きっとこれからも。彼女にそっと口付ける。触れるだけの、優しいキスを。
「久しぶりになっちまったな」
「もうそんな盛んな年齢としでもないでしょ」
「おいおい、つれないこと言うなよ」
「事実じゃない」
「衰えてないこと、証明しないとな」
「良いって…、ちょっと!」
あんまりなことばかり言う口を塞ぐと彼女は不服そうだった。回り道ばかりしてしまったが、この女が大切であることだけは揺らがなかった。彼女だけいれば良いのは変わらないが、まァ何というか、家族こういうのも悪くないだろう。
「こんな年老いた女…、かも怪しいのに、何処が良いんだか」
「全部だろ。…愛してる名前」
「…私も」
彼女が俺を引き寄せる。
「……愛してるわ、ずっと」






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