Be familiar


 彼は私の想像より遥かに優秀だった。
 彼、というのはペアを組まされたブッチくんのことである。塾長に任されたあと、簡単に自己紹介をして私は彼をそう呼ぶことになった。彼は私のことをミョウジ先輩と呼んでいる。このあたりの文化、というより、このバイトの文化なのかもしれないが、互いに下の名前で呼び合うのが一般的であるから名字で呼ばれるのは何となく耳慣れない。学校でも私は下の名前で呼ばれることが多かった。彼の学校では違うのかもしれない。彼が先に「ミョウジ先輩」と呼んだので、私が彼を下の名前で呼ぶのは違うかな、と私も彼を名字で呼ぶことにしたのだ。呼ぶことに慣れてしまえば違和感は特にない。そもそも彼は優秀だったので今まで見てきた新人より遥かに手がかからなかった。それと比べて私の新人の頃なんて目も当てられないなと思う。
 ブッチくんは自分の立場や境遇をしっかりと理解しているようで、周りの人に踏み込みすぎることはなかった。周りも彼をあからさまに避けたりはしないが、やはり距離感が掴みにくいのか、どことなく距離が空いていた。私に対してもそうだ。私が彼とペアを組まされたのは周りからしても意外だったようで、その話題をしばらくの間ふられることになった。私としては後輩の指導が予想より早めになってしまって面倒だな、くらいの気持ちであったのだが、彼は私の思った以上に同僚たちから注目を集めていたらしい。彼についてとにかく質問された。彼の入ってきた時期が入学式のある時期から半年ほど経った時期であるというのも珍しいポイントだったのだろう。また、彼の外見が可愛らしくも整っていたのもあるだろう。男性からよりも女性から聞かれることが多かった。女性は新しいものとイケメンに敏感なのだ。まァ私に聞かないで彼に直接聞いてくれよと思ったし、実際度が過ぎたものは「うーん、分かんないや。直接聞いてみたら?」と答えたりもした。そもそも聞かれたことの9割は知らないことだったし、聞く予定もないのでこれからも知ることはないだろう情報であったため「知らないなぁ」と何度も繰り返して答えた。女性側も流石にそこまでの度胸はないのか、ハイエナということが気にかかるのか、「そこまで気になるわけじゃないから」と直接聞くことはしなかった。私があまり彼の情報を持たないことが分かったのか、彼自身の話題性がなくなって飽きがきたのか、次第に尋ねられる機会は減っていった。ひと月が経つと私は同僚と前までのように世間話に花を咲かせていた。
 彼は教えたことは割とすぐに覚えたし、子供と接するのが得意なようだった。好きこそ物の上手なれとでもいうのだろうか、子供が好きらしい。私とタイプが真逆なため、ますます私と組まされた意味が理解しにくい。彼は子供と仲良くなって親身に教えるタイプの「先生」なようだ。ナマエは、はじめは少しとっつきにくく思えるけど軽口は叩けるような、憧れを抱かれるタイプの先生だよね、とは友人談だ。憧れはともかくとして自分がつっけんどんな態度をとっているのは自覚しているので、ブッチくんのようなタイプは純粋にすごいな、と思う。学生の先生は子供と年齢が近いのも相まってブッチくんのようなタイプか多いのだが。
 彼は自身に良い意味でも悪い意味でも注目が集まっていることをよく分かった上で、この塾に馴染んでいった。正確には少し浮いていることは変わらなかったけれどみんなの話題の中心ではなくなっていった。私とも特別仲良くもなく、険悪でもなく、仕事の時には話すし軽口も叩くことはあるけれど、プライベート、特に私が他の人と話しているときに口を挟むことは一度もなかった。一応、彼のことを任された身として何となく彼の動向を見ていたら、どうやら彼は4年生の先輩と仲を深めたようで、その先輩とよく話しているのを見かけた。弟気質とでも言うのか、可愛がられやすい性格なのだろう。その先輩は面倒見が良く、中心的存在でもあった。この塾のなかではちょっと柄は悪いが、悪い人ではないし、彼がバイトの中では年長者に入るので彼がブッチくんを認めたことで他の人もブッチくんを受け入れていったように思う。先輩からしてもNRCの優秀な後輩が自分を慕ってくれているのは悪い気分ではないだろう。そんなわけで彼は最初の険悪な空気は何だったのかというほど、あっという間にこの塾の一員となった。彼は場を和ませる話術もあったので、みんなもつられて笑顔だった。平穏な日々が続いていた。
 そうして彼が来てから2ヶ月が過ぎた頃、事件は、起こった。
 塾では大きく分けて二つのコースがある。グループ指導と個別指導だ。グループ指導は専門の講師の先生がたが担当していて、私たちが担当することはほとんどない。長期休みの講習で一部分だけ任せてもらったり、どうしても講師の先生が来れないときに代理として教える程度だ。バイトの主な業務は個別指導にある。それぞれがそれぞれの生徒を受け持って指導するのだ。これは教えることのできる教科と生徒を合わせるのもそうだが、なんとなく雰囲気の合う生徒と教師を結びつけているように思う。新しい生徒が入るたび、塾長が直接会って面談のようなことを行うのだが、そこでどうやら判断しているらしかった。基本的に生徒側から先生を指名することはない。担当してみて合わないな、と言う場合はもちろん変えられる。その場合は大抵、子供から親御さんのほうにそれが伝わって、塾に連絡がいく。子供は意外に大人に気を遣うことができるのだ。そうでなくても新しい先生がついてから1ヶ月が経つと三者面談のようなことをして「最近はどうですか」なんて世間話から始まって、塾に馴染めているかどうかを塾長が確かめている。1ヶ月では様相が分からないな、となるとまた1ヶ月後、というようにこまめに状況を確認している。小さい塾だからできることなのかもしれないが、不満があるのならその苦痛を長期間にわたって強いたくないという塾長の想いには大いに賛同する。教師側もうまく教えられないということは感じ取るので、何も言われないのは何も言われないでつらいものがあるのだ。
 そういうわけで私は担当している子がいる。もちろんブッチくんもそうだ。はじめは私のヘルプのように、私の担当する子に少しつかせたり、新しく入った子をブッチくんメインに、私がサポートしつつ教えたりと一人で担当することはなかったのだが、今はその新入生を一人で受け持っている。彼も仕事に慣れてきているので、そのうちもう一人くらい担当することになるかもな、と漠然と考えていた。


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