Disturbing atmosphere


 
 その日はブッチくんとよく絡んでいる4年目の先輩が体調不良で休みだった。その場合は申し訳なくも生徒側に振替という形で別日に授業を組み込むのだが、生憎その生徒は他の曜日は習い事などで忙しく、振り返ることができなかった。その日、塾に来てかつコマに空いていたのはブッチくんだけで、彼がその授業を担当することになった。私は塾には来ていたが、ちょうどそのコマに自分の受け持つ子の授業があったため、その生徒との関わりは少ないが。先生同士が仲が良いと、担当でなくとも生徒は先生を覚えているものだ。例外なくその生徒はブッチくんを既によく知っていた。その生徒は授業後に残って自習をしている。担当の先輩は授業後は帰宅してしまうので、空いているブッチくんによく質問していた。その時間に空いている、質問をしてもいい先生が私とブッチくんしかいないので、ブッチくんに聞くのは自然なことかもしれない。何の関わりもない、愛想の悪い自分には話しかけにくいだろうから。そういう面では彼が入ってきてくれて良かったな、と思う。前まではこの時間に私しか質問できる先生がいなかったので、訪問者もなんとなしに少ない気がしていた。今ではブッチくんに質問をしにくる生徒が沢山いる。優秀だとか、そういうことを抜きにして、人を、特に子供を集めやすい性質らしかった。面倒見が良いな、と思う。ちなみにブッチくんはその生徒が授業を受けているコマの二つ後に受け持つ生徒の授業がある。つまり彼が授業を終えてから一コマ分空いているので、その時間に彼はブッチくんに質問をしている、ということだ。私はブッチくんのコマのひとつ後に授業がある。何故こんな早い出勤をしているかというと、事務仕事があるからだ。長い間働いていると塾内部のことも多少は任されるようになる。その時間分、その仕事分お金はもらっているので特に不満はない。その時間が自由に使えるなら家でゆっくり過ごすが、大した用もないので問題ない。一度、私が仕事で早く来るからってブッチくんもそんな早く来る必要はないと言ったことがある。彼には仕事がないから、と。そういうと彼は「タダ働きはごめんっスけど、早く来ると塾長が昼メシ奢ってくれるじゃないっスか!」と言っていた。確かに差し入れで弁当をくれるけどそれで二コマ分早く来る価値あるか?と思う。そのお弁当は早い者勝ちなので後から来ると大抵なくなっている。早く来た人が複数個持っていくからだ。お昼の時間帯になれば一人ひとつずつ取っていき、お昼時を過ぎても弁当が残っている場合に、自由に持っていっていいことになっている。そうは言っても昼にいる人なんてこの曜日じゃ私とブッチくんくらいなもので。塾長はそれでも懲りずにこの曜日に5個の弁当を買ってくる。帰るときにはなくなっているので誰かが持ち帰っているのだとは思うが。タダ働きはイヤだという割に早めに来るのは子供が好きで、子供と触れる時間が好きだからかもしれない。子供に勉強を教える姿は生き生きしていた。それを素直に言えないお年頃なのかなと思う。しっかりしているように見えるがまだカレッジ入りたての16歳だ。そうして急遽、ブッチくんが担当することになった生徒は「え〜、今日ラギーなの?」なんて言いながら楽しそうに笑っていた。いつもと違う、ということ自体が楽しいのかもしれない。ブッチくんもブッチくんで「俺じゃ不満っスか?」と笑っていた。先輩と仲が良かったためか情報の受け渡しもスムーズだったようでつつがなく授業を進めていた。その授業後はいつものようにブッチくんが質問に答えていた。
 その数日後、そろそろ受験も近づいてきたということで三者面談が行われた。これもまた塾長が担当していた。普通こういった時は授業を担当する先生もその場にいる必要があるのでは?と思うが、塾長は、それだと正直に発言しにくいから、と言っていた。そのため、この塾では塾長の三者面談と、授業前の少し時間を使って担当教員と生徒の二者面談という二重構造をとっている。そこで二つの内容を照らし合わせて齟齬がないかをチェックするのだ。大抵は先生はそのまま引き継ぐことが多い。受験の近付いてきたこの時期には既に生徒と先生の相性や擦り合わせは大抵終わっているからためである。今年も例年通りかと思われた。____ただひとりの生徒を除いて。
 その生徒は四年生の先輩が受け持つ、ブッチくんとも仲の良い生徒だった。彼はどうにもブッチくんをとても好ましく思っていて、授業を受けた際に、あろうことか「先輩よりもブッチくんの方が良い」と感じたらしい。それでこれからはブッチくんに担当してほしいと、そういうことらしかった。らしい、というのも私は直接その生徒と話したわけではないからだ。塾長にとってもこの話は予想外らしく、いったん持ち帰ることにしたらしい。その生徒は既に今の先生に不満はないがブッチ先生の方が良いということは両親にも伝えていて、同じ時間帯にブッチくんが空いていることも知っている。彼らの中ではしっかり考えられた上での話だったとのことだ。塾長は私とブッチくんの二人を呼び出した。そして事のあらましを話したあと、少し黙って、ブッチくんに問いかけた。
「引き受けられる?……いや、引き受けたいと思う?」
ブッチくんは真剣な面持ちで塾長を見て、そして少し目線を下げて、それから私を見た。
「君が決めて良いと思うよ。引き受けても、断っても、どちらにしても君がしたい方で良い。その選択で君に損害はないから」
私は嘘つきだ、と思った。生徒からこの話が出た時点で彼にはもう損害だと思った。生徒から選ばれることは光栄なことであるけど、今回ばかりは状況が悪かった。私は途中からブッチくんの顔が見れなかった。彼の、この塾に馴染もうとする努力が、積み上げてきたものが儚く消えていく様を見ていられなかった。私は少し下に目線をやってそれから塾長を見た。塾長もまた私を見ていて、それからブッチくんを見た。それに従うように私もまた彼の方を見る。彼は顔を上げていた。視線が合う。覚悟が決まった顔だった。
「引き受けるっス」
塾長の方を向き直して、そう言った。いいのかい、と塾長は改めて問い直したが、生徒から選んでもらうなんてなかなかないことだからと彼は吹っ切れたように笑っていた。私は不安だった。けれどそれを出してしまえば受けるといった彼を責めるようなものだと知っていたから、私も笑った。君は優秀だからね、と。おそらくその場にいた全員がこの先のことを考えただろうけど、誰も口にしなかった。
ただ今だけは彼の優秀さを讃えたかった。
 しばらくして再び塾長と生徒とその母親による三者面談をして、そこで改めて先生の変更を受け入れることを伝えた。親子はとても喜んだ。その翌週からブッチくんがその生徒を受け持つようになった。先輩はその日はその時間しか授業がなかったから、幸か不幸か、その生徒の受け持ちがなくなると、その日は出勤する必要がなかった。つまりその生徒はブッチくんの授業の日、先輩とかち合うことはなかった。生徒はもちろん先輩が嫌いなわけではないから、別日に自習に来て、彼に質問もする。先輩も今まで通り対応していた。生徒からしたら先生が変わっただけで、何も変わりない日常だろう。先生側も"そう見えるように"振る舞っていた。実際のところ、全くいつも通りではなかった。先輩は目に見えてブッチくんの面倒を見なくなったし、そればかりか疎んじていた。その話題は彼を中心にか、噂好きな誰かが発信したのか、塾内によく知れ渡っていて、誰もが何となく彼と一線を引くようになった。それだけで済めば良かった。そのうち、そんな雰囲気と態度が悪化していったのだ。「ハイエナだから」。ハイエナだから人の生徒を取るのは当然。ハイエナだから。NRCに入ったのも上の機嫌をとったのだと。ハイエナだから。この塾へも塾長に媚を売って来たのだと。ハイエナだから。その一言で彼の能力や実態は覆い隠されてしまった。塾長も何となく改善したそうではあったが、どうにもできなかった。私もそうだ。彼のためというより、今の塾の雰囲気が好きではなくてどうにかしたかったけれど、どうにもできなかった。生徒の希望であるし、私たち教師陣の事情を持ち込むわけにもいかない。私は黙認していた。彼とはいつも通り接するように努めたが、もしかしたら気を遣おうとして逆に態度が変わってしまっているかもしれなかった。一番の被害者は彼であるのに、皆が彼を加害者と見做していることが、なんだか決まり悪かった。幸運だったのは、その生徒は今年が受験の年で、受験が終わればひとまず塾を辞める予定なことだった。
 受験期が近づくと塾はピリついた空気となり、教師の人間関係を気にしている場合ではなくなった。自分たちの受け持つ生徒の成績が第一だからだ。次第に皆がブッチくんに関心をなくし、当たるような態度を取られることは無くなった。空気のように避けられてはいただろうが、目に見える実害は無くなったと思う。私はひとまず安心して、私も自分の受け持ちに注力した。


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