空条夫婦の夫婦喧嘩


「…はぁー…」

肺の中の空気へ胸の内に溜まったもやもやを全て乗せる想いで、なまえは広い広い空を見上げて大きく息を吐き出した。

二酸化炭素と一緒に身体の力まで抜け、ゆっくりと背中をベンチの背もたれへ凭れさせる。

休日の朝。公園には小さな子供の声と、その親の声、犬の鳴き声や鳥の囀りが響いているというのに、そのどれもがなまえにとっては何処か遠くで聞こえているような感覚だった。

それは彼女の意識が外ではなく、自分の内へ向いているからに他ならない。

なまえの思考は、今朝方の出来事…夫である承太郎との口論に対することでいっぱいだった。

「(頭を冷やすために出て来たはいいけれど…癇癪起こして飛び出して行った、みたいに思われてたら嫌だなぁ…)」

空を眺めながら思うことは、相手に対する怒りや苛立ちのそれではなくなっている。
なまえは胸に溜め込んでいた想いを、既に言葉として出しきっていた。

今、彼女にあるのは後悔と、少しの焦り。

思い返してみれば、あんなにもはっきりとした“喧嘩”は初めてだったように思う。

喧嘩をしたなら謝ればいい。小さな子供に大人はそう言い聞かせるが、しかしてそれは大人になればなるほど難しくなるもので。

どんな表情で家に帰り、どんな言葉で謝ればいいのか。
なまえはぼんやりとそんなことを考える。

背後からゆっくりと近づく敵意に、気が付けないまま…――。


* * *


やってしまった、と。その表情からでは窺いにくいながらも、承太郎は少なからず後悔をしていた。

昔から、言葉が足りない、分かりにくいと言われることが間々あった。
以前は別にそのままでも良いと思っていたのだが、なまえと恋仲になり、少しずつ彼も気を付けるようにしていたつもりだった。
しかし如何せん、承太郎には悪気が全くないのだ。
無意識に言葉足らずになってしまうのだから、本人が気を付けようと思っていたところで…それは完璧には埋まらない。

その結果が、今の状況へと繋がってしまった。

2日間ろくに眠っていないせいで、思考は鈍く、身体が怠い。

なまえは『頭を冷やして来る』と言って家を出たのだし、子供ではないのだから少し時間が経てば戻って来るだろう。

しかし、リビングのテーブルへ置かれた、今は完全に冷め切ってしまった…自分のための料理。それを見てしまえば、承太郎は帰って間もない自宅から再度外へと踵を返すことに、何の億劫さも感じはしなかった。


* * *


承太郎が家を出て、ほんの十数分といったところだろうか。

なまえはすぐに見つかった。

しかしながら、それは偶然に見つけたというわけではなく、彼女自身が家へ帰るところだったわけでもない。

「おい、なまえ…ッ!」

「…」

身を翻しながらなまえへと呼びかけるも、彼女はまるで人形のように表情ひとつ変えず、応えることもない。

ただ真っ直ぐに対峙する承太郎を見据え、そしてその体勢は、彼女の幽波紋である“刃”を構えている時のそれだ。

「(何がどうなってやがるのかは分からねえが…少なくとも今、なまえは正気じゃあねえ)」

出会い頭に切っ先が掠めた首筋を伝う、一筋の血を指で拭った。

実際、なまえを自宅付近で発見した時から今まで、一度も言葉を交わしてはいない。
けれど、だからこそ。彼女が正気でないと分かる。
表情が抜け落ちた顔。承太郎を視界に入れてから即座に戦闘体勢へと移り、そして確実にその命を奪おうとする攻撃。
しかしそこには殺意と呼ぶような感情や、圧迫感のようなものがない。

…機械的に動いている。つまり、何者かに操られている。

少し年数は過ぎてしまっているものの、幾多の戦闘経験による直感から、承太郎はすぐにその可能性へと辿り着いた。

昔、エジプトの旅で人の精神を支配し操る幽波紋と戦ったことがあるが、それとも違うように思える。
まるで、操り人形…。

「…まずはなまえを傷つけずにアレをなんとかするしかねえ、か」

なまえの幽波紋である“インビジブルキラー”は、見えない刃。
非情に厄介である。…しかし、一時は背を預けて共に戦ったことのある伴侶だ。
その間合い。身体の使い方。攻撃のモーションに現れる癖。
知っている。全て。

思考の鈍さも、身体の怠さも。
決して解消したわけではない。
それでも、自分の大切な妻を利用されていることに対する強い怒りと、なまえを無事に取り戻すという揺るぎない決定事項の前では、そんなものは彼にとって些細なことでしかなかった。


* * *


「…ん、」

「気が付いたか」

じんわりと身体が温まっていく感覚で、なまえは目を覚ました。

2、3度の瞬きを繰り返す間に掛けられた、自分の後ろから聞こえる声。

「…え、あれ…承太郎…?…っ!?」

声の方へと首を動かし視線を向ければ、濡れた髪を掻き上げた夫。
その姿と、そして自分の発した声の響き方。それに違和感を覚えるが先か後か。

パシャンッ、と音を立て、なまえは今の状況を…納得も理解もできはしなかったが、把握した。

彼女は今、湯を張った浴槽の中に居る。

そして自身も、自分を後ろから抱きしめるように支えている承太郎も当然全裸だ。

「な、なん…っ、これは…っどういうっ、」

意識を失う前の記憶を整理する間もない衝撃に、浮かぶのは疑問ばかり。
彼に裸を見られることは初めてではないが、知らぬ間に、明るい場所でというのは流石に羞恥を感じずにはいられない。
なまえは混乱で言葉がうまく繋がらず、バシャバシャと水面を揺らしながら体を縮こめようともがく。

「狭いんだ、暴れんな」

「いやいやいやいや、なんでい、一緒にお風呂…?!」

「ちっと無茶したからな。怪我がねえか確認ついでに洗っただけだぜ」

「怪我…?」

承太郎の言葉に、ようやくなまえは記憶を辿り始める。

何処までが夢か、現か。霞がかった記憶。

「え、っと…公園に行って、そしたら知らない人に声をかけられて…」

「長身で貼りつけたような笑い方をする男だろう」

「あ、うん。そんな感じの、ちょっとゾッとする感じの人。え…もしかして知り合い?」

「いいや。名前も知らねえ」

「…?それから、…それから…、」

その後の行動を思い出そうとすると、それはまるで…幽波紋を使って自分が承太郎の命を奪おうとしているかのような。
そんな、あり得ない、あってはいけないキオク…。

そんなものは夢であってほしい。

そう思いながらも、意識を失う前の記憶として思い出せることは他になく、そして引っかかる、承太郎の言葉。

なまえは身体と首を少し動かし、恐る恐る承太郎を見る。

そして、あれらが全て夢ではないことを知った。

「承太郎、それ…首と、手の切り傷って…、」

「大したことねえよ」

「ご、ごめんなさいわたし…なんで、承太郎を、」

「お前はあの長身の男の幽波紋で操られていただけだ。お前もおれも、大した怪我はしてねえし、もう終わってる。大丈夫だ」

「…承太郎…」

温かな湯船の中にいながらも震えるなまえを、承太郎はより一層強く抱きしめる。
後ろ側から抱きしめられ、耳のすぐ傍から発せられる子供を宥めるかのような優しいテノールに、なまえは視界が滲むのを止められない。

「それに、本当なら先に謝らねえとならないのはおれの方だろ」

「え…承太郎はわたしを助けてくれたのに、謝るような事なんか何もないよ」

「そもそもお前を一人にさせたのはおれだ。敵は最初からお前を狙って、精神状態が弱るのを待っていやがったんだ」

「弱る…そうか…わたし承太郎と喧嘩して、それで公園に行ったんだっけ…」

夢ならよかったのに、それも現実だった。と、なまえは小さく溜息を吐く。

「今回の件は全面的におれが悪かった。もちろん反省はしてるが…これからもおれの言葉が足りずに迷惑をかけたり、お前を傷つけることがあるかもしれねえ」

「承太郎、もういいよ。わたしの方こそ、承太郎が忙しいの分かってたのに…ごめん」

「…なまえはおれを甘やかしすぎだぜ」

「ふふふっ、手のかかる旦那様だからねえ」

「ああ、そうだろうな。…苦労かけてすまねえが、これからもよろしく頼む」

「はい。こちらこそ」

紡がれる言葉こそ若干の硬さがあるものの、二人は互いにぴったりと身体を合わせ、全体的に上がった体温とは別の熱さに頬を赤らめ、微笑んだ。

「…なんか、今すごくキスしたい」

「この体勢じゃあキツイな」

「じゃあ、上がろうか。出たら遅くなっちゃったけど、朝ご飯にしよう」

「ああ」

休日の朝は波乱の幕開けとなってしまったけれど、二人にとっての休日は、ここからゆっくりと始まる。
そして一日の終わりには、きっと「そんなに悪くない日だった」と、そう思える日となるだろう。


end

『4部空条夫婦の夫婦喧嘩』とのリクエスト。

しかしなんというか…リクエスト頂いた内容がもう、全体的に反映されていない感。
幽波紋バトルをめちゃくちゃこってり書いたら、なんだかとんでもない長さになってしまい、「これただのファンタジーやんけ」となり、逆にその後のお話をメインで書いたら内容がうっすい感じになってしまい…書き直して書き直して、このザマよ。WRY…。

そして仲直りのところは、やはりお察しのとおり裏まで書ききれず、まさかのお風呂シーンに差し替わりました。(どうした)

少しでも楽しんで頂けたら嬉しく思います。




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