番外編/ホワイトデー要素あり
※時間軸:本編開始前



「ん……いいよ、おいで」

 半分寝ながらそう答えて、名前は通話を終えた。
 電話の相手にはカードキーを渡してあるはずだが、さすがにこの時間のアポなし訪問は躊躇われたのだろう。すみません、と弱々しく呟く声がまだ耳に残っている。

 再び目を閉じてしばらくして、ピッと開錠を告げる音に意識が浮上した。続いてゆっくりとドアを開ける音が聞こえてくる。
 いつでも来ていいと鍵を渡した以上、ここは彼のセーフハウスのようなものだ。それにしては遠慮がちな振る舞いに、真面目か、と小さく笑みが零れた。

(今日は何徹目かな)

 ここに来る時はいつも疲労困憊で限界寸前な彼――降谷零。大抵ボロボロだし、力尽きて靴も脱がずに倒れ込むことも少なくない。
 果たして今日は自力で辿り着けるのだろうか。降谷のために半分空けたベッドで様子を窺っていると、今にも倒れそうなほど覚束ない足音が名前のいる寝室へと近付いてきた。少しして、長身の男がどさりと倒れ込んだ反動でベッドが揺れる。

「お疲れ様」

 小さく呟けば、布団でくぐもった不明瞭な声が「お疲れ様です、苗字さん……」と返してくる。
 そのまま眠ってしまうかとも思ったが、降谷はもぞもぞと身動ぎしながら布団の中へと潜り込んできた。でかい図体の下から布団を引き抜いて掛けてやる必要はなさそうだ。

 クイーンサイズのベッドの端ギリギリまでずりずり移動して、名前は降谷に背を向ける。自分以上に多忙な男へのせめてもの優しさである。さあ、その長い手足を存分に投げ出して眠るがいい――
 そう思ったのに、唐突に後ろから抱き寄せられて思わず「わっ」と声を上げる。

「ちょっ……降谷くん?」

 疲労でへろへろのはずなのに、想定外の力強さであっさりベッドの真ん中辺りにまで引き戻されてしまった。

「苦し、」
「……どうしてそんな端に? 落ちますよ」

 抗議しようと口を開けば、吐息混じりの囁きが名前のつむじをくすぐった。降谷の高めの体温がじんわりと体を浸食していく。

「いや、離してほしいんだけど」
「すみません」

 返事になってない。
 それは解放するつもりはないという意味での「すみません」なのか、名前が「落ちないから」と言っても離してくれる気配は微塵もなかった。むしろ腕の力がぎゅうっと強まった気さえする。なぜ。

「ねえ、苦しいってば」

 体に回った逞しい腕をぺちぺちと叩いてみるが、嫌だと言わんばかりにまた腕の力が強くなる。名前は「うっ」と小さく呻いて抵抗を諦めた。これはダメそうだ。

 くたりと脱力して目を閉じれば、やがて小さな寝息が聞こえてくる。胸が規則的に上下しているのも背中越しに伝わってくるが、しかし体に回った腕が拘束を緩めることはなかった。
 そんなところまで器用じゃなくていいのに…と思わずにはいられない。

(抱き枕じゃないんだけどなぁ)

 実のところ、降谷が名前を抱き枕か何かのように抱き締めて眠るのはこれが初めてじゃない。
 されれば寝苦しいことこの上ないのだが、彼のような鋼メンタルの持ち主でも、限界を超えると人肌恋しくなるものなのかもしれない。そう思えば強く拒むことも憚られた。

 少しでも寝やすい体勢にと名前が体をよじれば、「ん……」と温かい吐息が頭頂部に触れた。背中から伝わる体温と微かな汗の匂いも生々しい。
 その居たたまれなさに降谷に勝るとも劣らない鋼鉄の精神力で耐えていた名前だったが、彼が髪に鼻先を埋めてきたのにはさすがにぴくりと肩を跳ねさせてしまった。
 ひゅ、と言葉にならない引き攣ったような音が喉の奥で鳴る。

(……実はまだ起きてたりする?)

 まさかね…。そう思いながら腕をツンツンしてみるが反応はない。いや、むしろ寝ているからこそ厄介なのかもしれない。
 色々な意味で落ち着かない状況だが、トリプルフェイスとして常に精神を擦り減らしている彼が、これで落ち着いて眠れるのなら一晩くらい耐えてやるべきなんだろう。それは充分わかっている、のだが。

(ここはセーフハウス、ここはセーフハウス…!)

 心を無にすべく繰り返し唱えて、名前は耐えるように目を閉じた。




***




 瞼を持ち上げて数秒、いつになくだるい体に布団の中で嘆息する。
 だるさも眠さも昨夜の寝つきの悪さが影響していることは言うまでもない。そしてその原因となった男がもういないのは、体を起こしてすぐにわかった。

『食材、勝手に使わせてもらいました』

 一時間以上前に届いたらしいメッセージが、彼が朝食を用意してから出て行ったことを教えてくれる。

(全然気付かなかった)

 寝つきと寝起きのよさには自信がある。にもかかわらずこの体たらく。何もかもあの男前のせいである。

 寝室から出れば、LDKにはふんわりといい匂いが漂っていた。
 キッチンの鍋の中には具だくさんの味噌汁。ご飯も炊けていて、ラップがかかった皿の中身はだし巻き卵と浅漬けだ。

「うわ、最高……」

 思わずうっとり呟いてしまう。そして寝起きの胃袋がきゅうきゅうと空腹を訴え出す。
 早速いただこうと手早く身支度を整え、飲み物を取り出すべく冷蔵庫を開ける。すると爽やかないい香りがして、名前は銀色の容器の存在に気が付いた。買ったきり一度も使ったことのないケーキ型だ。そしてその中に入った白く艶めいた物体は、まさかレアチーズケーキでは。

「え、嬉しい」

 部屋を訪れた時に朝食を用意して出て行くことはあっても、デザートまで作ってくれたのは多分初めてだ。
 しかもどうやら晩酌用に買ったまま、忙しい日々にうっかり賞味期限切れ間近になってしまったクリームチーズを使ってくれたらしい。助かるし美味しそうだしで名前の気分がグンと上向く。

(でもなんでチーズケーキ……、あ)

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しながら、名前は今日の日付を思い出した。そういえば先月、彼のデスクにチョコレートを置いておいたんだっけ。
 同僚全員に一律同じものを配っただけだというのに、なんとも律儀な男である。と、そこにスマホが震えて新たなメッセージを受信した。

『使った物は補充します。他に必要な物があれば言ってください』

 いや律儀か、と画面に向かってツッコんでしまった。
 にしてもデザート付きの和朝食とは、休みでもなんでもない普通の日の朝には贅沢すぎる。至れり尽くせりとはこのことか。

(こういうのをスパダリっていうのかな)

 ふとそんな単語が思い浮かぶが、それにしては弱ってる姿を見すぎてる感がある、と思い直して苦笑する。それから別にダーリンでもない。
 名前はスマホの画面に指を滑らせた。

『ケーキまでありがとう。これってもう食べていいの?』

 送信すれば、すぐに既読がつく。そして大して間を置かずにメッセージが追加された。

『冷蔵庫に入れたのが大体一時間前なので、あと一時間は冷やしてください』
『了解』

 それなら登庁する前に食べられそうだ。名前の上機嫌な鼻歌が、朝日が差し込む部屋に小さく響く。
 そしてなんとも現金なもので、その頃には寝苦しかった昨夜のことなど綺麗さっぱり忘れてしまっていた。もちろん、そう遠くない未来に抱き枕扱いがデフォルトになることなど知る由もなく。

(いい朝だなぁ)

 ――これは二人のゼロの多忙な日々の中に訪れた、ある平和な3月14日の朝の話。



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