01


体に直接響くようなロータリーサウンドを奏でながら、白いスポーツカーが疾走する。
車種はFD3S型のマツダRX-7。そのハンドルを握るのは、グレーのスーツを隙なく着込んだ金髪碧眼の男だ。
ちらりと左手首に視線を走らせれば、褐色の肌に映える白い文字盤が目に入る。
時間に比較的余裕があることを確認して、男―――降谷零は再び正面に視線を戻した。

(早めに終わらせれば、ポアロの前に一度登庁できるな)

降谷は現在、自宅を二部屋契約している。
一部屋は安室透の活動拠点としているマンション、MAISON MOKUBAの一室。もう一部屋は霞が関へのアクセスに優れた高層マンションの上層階にある。

二部屋の内、潜入捜査官である彼が日頃寝起きしているのは安室名義の部屋だ。
掃除や換気のために立ち寄ることはあれど、降谷名義の部屋に帰宅することはほとんどないと言っていい。
この日も、およそ一ヶ月ぶりの掃除のために立ち寄っただけだった。

愛車を地下駐車場に停め、エントランスに上がって集合郵便受けから郵便物を回収する。
無造作に掴んだ紙束片手に無人のエレベーターへと乗り込み、やがて無機質な電子音と共に目的階へと到達する。
自室のドアを開けて一歩足を踏み入れれば、一ヶ月放置していた部屋らしく、わずかに埃っぽい匂いが鼻をついた。

降谷は革靴を脱ぐと、DMの束をバサリとゴミ箱に放った。
ネクタイを緩めながらソファの下やテーブル裏、テレビの後ろといった死角を順に確認していくが、特に調度品に触れられた形跡も、何らかの機器が取り付けられた様子もないようだ。

そして掃除の前に換気をしようとリビングの掃き出し窓に近づいたところで、降谷はピタリと足を止めた。

―――ピチョン

聞こえるはずのない水音を耳にして、訝しげに振り返る。
LDKのカウンターキッチンから聞こえた音ではない。もっと遠く、おそらく洗面所か浴室辺りだろう。
洗面台のレバーが下りきっていないか、シャワーが止まりきっていないか、しかしそのどちらも自身の性格からしてありえないと降谷は断言できた。
ならば水漏れかと洗面所に向かうと、その扉を開く前に再びピチョンと水音がした。

眉根を寄せて扉を開けば、洗面台は乾いたまま、一ヶ月前となんら変わりはないようだ。
となれば、残るは浴室だ。

洗面所から続く浴室の扉に手をかけて、降谷は一度動きを止める。
すんっと鼻を動かせば、より強くそれを嗅ぎ取れた。

(………これは、潮の香りか?)

鼻腔をくすぐったのは、室内にあるはずのない香りだった。なぜこんな香りが、それも自宅の浴室から?
疑念が膨らむが、どれもこれもこの扉を開かないことには解決しない。
降谷は意を決し、音を立てないように少しだけ扉を開けた。

(!)

わずかな隙間から覗く浴室は、一ヶ月間誰も訪れなかったとは思えない有様だった。
―――濡れているのだ。それも天井から床に至るまで、びっしょりと。
天井から落ちた雫がまたピチョンと音を立てるのを見て、降谷は躊躇うことなく扉を全開にした。

一見して、浴室全体が濡れている以外に変わった様子はない。
しかし浴室中に漂うこの香り、まさか海水で濡れているとでもいうのだろうか。

降谷は素早く靴下を脱ぎ捨てて一歩踏み込み―――そして硬直した。

(何かいる)

日中でも電気を点けなければ浴室は薄暗い。
その薄暗さの中、浴槽の中にはつやりと鈍く光るものがある。
降谷は音を立てずにもう一歩踏み込んで、そこで目にしたものに大声を上げなかった自分を褒めてやりたくなった。

体を丸めるようにして浴槽に横たわっていたのは、黄金色の鱗を持つ人魚だった。

(…いや、人魚だった、じゃないだろう。僕は一体何を見ているんだ…これは現実か?)

ドッキリか新手のハニトラか、あるいは二徹目の疲れた脳が見せた幻か。
小さく頭を振ってから眉間を揉み、再度目を開いて浴槽を確認する。
しかしそこには数秒前に見た光景が変わらず広がっているだけだった。

浴槽には黄金色の鱗を持つ尾びれが窮屈そうに収まっていて、水滴がレンズのようにそれを時折煌めかせている。
胸元が規則的に動いているのを見るに、どうやら眠りについているようだ。

(応援…は現実的じゃないな。頭がおかしくなったと思われる)

もしその連絡を受けたのが自分だったなら、「もっとマシな冗談を言え」と一笑に付すところだ。
降谷は現実逃避するように嘆息し、浴室内に危険な物がないことを確認してからその生き物を観察することにした。

淡い色の長髪はしっとりと濡れて顔や浴槽に張り付いていて、髪の間から見える顔つきは二十代半ばといったところか。
上半身は人型で女性体だが、何一つ身に着けてはいないようで、際どいところは辛うじて腕で隠されている状態だ。

そこまで観察して、降谷は再び短くため息を吐いた。いくらなんでもこんな奇想天外なハニートラップがあってたまるか。

いずれにせよ自宅に入られている以上、このまま捨て置くわけにはいかない。
まずは正体と目的を明らかにし、全く気は進まないが上の指示を仰ぐ。それ以外に取るべき手はないだろう。

そう思って再びそれに視線を戻した降谷は、咄嗟に身構えた。

(……目が)

豊かな睫毛の下から覗く、蜂蜜のように淡い色の瞳。
それが確かに降谷の姿を捉えていた。

ハッと息を呑んだのは、降谷ではなかった。
ギュギュッと浴槽を擦るような音を立てて素早く身を起こしたのは件の人魚だ。
片腕で胸元を隠し、もう片腕は前方にゆらりと差し出されたまま不自然に静止する。

(何をするつもりだ?)

蜂蜜色の瞳に滲むのは、確かな敵意だ。
こちらを害する意思がない限り手荒な手段は取らずにおこうと思っていたが、相手の出方次第ではそれもやむを得ない。

「……君、言葉はわかるか?」

努めて柔らかい声音で尋ねるが、答えはなかった。
それどころかギリッと忌々しげに奥歯を噛み締め、上向けていた手のひらをグッと勢いよく握り込んだ。

「何を」

する気だ、と言い終わる前に異変に気づく。
何かが軋むような音の後、誰も触れていないはずのシャワーヘッドから大量の水が噴き出した。
それは下に落ちることなく彼女の拳の周りに渦巻くと、急激に水量を増してあっという間に禍々しいサイズの大渦を形成する。

「は?いや、待ってくれ、話を聞―――」

彼女が拳を振り抜くのに合わせて、凄まじい速さで飛んできた水の塊が降谷の頭部に纏わりついた。
ごぽり、と吐いた息が泡となって水流に溶ける。手で振り払おうにも、流動する液体を剥ぎ取ることは叶わなかった。

頭部を包んでぐるぐると流れる渦の向こうに、こちらを睨みつける二つの蜂蜜色がぼやけて見える。
降谷は呼吸を奪われたままダンッと一歩踏み込むと、辛うじて見えた細腕を掴んで浴槽から力任せに引きずり出した。
床に引き倒し、その上に馬乗りになったところで頭部を包んでいた渦がパンッと弾ける。
ケホッと小さく咳き込みながら下を窺えば、身動きが取れなくなった人魚がびしょ濡れの顔に苦々しい表情を浮かべていた。

「おっと」

掴んだ手首の上で指先がピクリと動いたのを感じ、降谷は素早い動きでそれを封じる。
両手ともそれぞれ指を絡めてしまえば、先程のようにそれを握り込むことはできない。
いわゆる恋人繋ぎというやつだが、もちろんこの場に甘い雰囲気など微塵も漂ってはいなかった。

降谷の前髪から垂れた雫が、怒りに歪む端正な顔にぽたりぽたりと落ちていく。
それを見つめながら、降谷は言い聞かせるようにゆっくりと唇を動かした。

「……もう一度聞こう。言葉はわかるか」




***




「すみませんでしたァー!」

浴室同様びしょ濡れになった脱衣所で、降谷は濡れた髪をタオルで拭いながら無感動にその床を見た。
―――正確には、その床で非の打ち所がない完璧な土下座を決めている一人の女を。

「スーツの人間を見ると、どうしてもこう…頭に血が上って」
「それは生き辛そうだな」
「いつもはそうでもないんですけど、ちょうど逃げてきたところだったので」
「スーツの人間からか?どんな境遇だ」

ひょっとして犯罪者…いや犯罪魚か?
降谷が現実から目を逸らしかけていると、土下座を続けていた彼女がスッと顔を上げた。

「あの…とりあえず濡らしちゃったところ、片付けます」
「ん?ああ…そうだな」

浴室の扉を開けてあったこともあり、浴室も脱衣所もまんべんなく濡れてしまっている。
これらを全て拭き上げるのは骨が折れるだろう。

「とりあえず話を聞きたいし、簡単に…」

降谷の話を遮るように、座ったままの彼女が片手を差し出す。
それに思わず身構えると、彼女は慌てたように首を振った。

「も、もう攻撃はしません!」
「………」

真意を問うように、降谷が鋭い視線を投げかける。
彼女はそれに眉尻を下げてから、やがて意を決したように唇を引き結んで指先をクイっと動かした。

「!」

その瞬間、壁や床、果ては降谷の衣服からも、まるでシャボン玉の吹き具からシャボン液がぷくっと膨らむ時のように水分が吸い出されていく。
集められた水分が指の先で大きな球体を成すと、上体だけで振り返った彼女がそれを浴槽に向けた。
水でできた球体はぽわんとその方向に飛んでいき、浴槽に投げ込まれるようにしてパシャンと弾ける。

降谷はそれを見届けてから自身の髪や服を触り、水気がないことを確認して「驚いたな」と感嘆の声を上げた。
しかしのんびり感動している場合ではない。

「その力のこととか、なんでここにいたのかとか、聞きたいことは山程ある。でもその前に一つだけ教えてくれないか」
「はい」

上体を後ろに捻っていた彼女が、神妙な面持ちで降谷に向き直る。

彼女には今、適当に取り出したシャツを一枚着せているのだが、その丈はちょうど太ももの真ん中くらいで非常に際どい。
そう―――太ももだ。

「さっきまで、僕には君が人魚のように見えていたんだが」
「人魚です」

あっさり言い切った姿に降谷は思わず頭を抱えたくなる。
じゃあその白く眩しい太ももはなんだ。

蜂蜜色の瞳が真っ直ぐ見つめてくるのを感じながら、降谷は長く深いため息を零した。


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