02


尾びれの消えた人魚はナマエと名乗り、自身をコガネウオの人魚だと言った。

そもそも人魚というのは、基本的にどの種族も30歳で尾びれが二股になり、陸上での生活が可能になるのだという。
しかしコガネウオの人魚に限っては、30歳で二股人魚になった後、40歳で人と同じ足を手に入れるのだそうだ。

「ちょっと待ってくれ」

腕を組んで聞いていた降谷がナマエの説明を遮ると、彼女は脱衣所の床に正座したまま蜂蜜色の瞳できょとんと見上げてきた。

「君は一体何歳なんだ」

正直ツッコむべきところは他にあるが、どうしてもそれを聞かずにはいられない。
降谷の問いにナマエは「ええと」と小首を傾げ、ブツブツ呟きながら指折り数え始めた。

「陸に上がったのが足を得てすぐで、ロジャーに会ったのがその10年後くらい……あれ?ロジャーが処刑されたのって何年前だったかな……」

なにやら不穏な単語が含まれていた気がするが、じっと待っているとやがて「うん」と頷いて顔を上げる。

「多分、ちょうど80です」
「…………成長速度、バグってないか?」
「コガネウオは特に長命で、容姿の変化が緩やかな種族なので」

へらっと笑って言ってのけるが、とんでもない生き物である。
眠る姿を観察した時同様、起きている彼女も二十代半ばくらいにしか見えないが。

「水を操っていたのは?」
「ああ、えーと………まぁそれも、そういう種族なんです」

今明らかに面倒臭がったな、と降谷は心の中でツッコんだ。
しかし降谷にとって、今大事なのはそこではない。彼女が人魚であるというのが事実だと仮定しても、解けない謎が多すぎるのだ。

「それで、その人魚がどうして僕の家に?」
「いや、それが…その……」
「悪いが君に黙秘という選択肢はない。君の処遇については全て僕次第だと思ってくれ」

言いにくそうに口ごもるナマエにそう告げると、彼女は「うっ」と言葉に詰まってから躊躇いがちに口を開いた。

「……だって、私にもよくわからないし」
「ここに来る前はどこに?」
「マリージョアです。知人に会いにシャボンディ諸島まで行ったところで、サイファーポール…CP-0に捕らえられて」
「……待ってくれ」
「そのままマリージョアの研究所に運ばれて、隙を見てそこを倒壊させたことまでは覚えてるんですけど」
「待て待て、待てと言ってるだろ」

え、と首を傾げながらナマエが目を瞬かせる。

「言っていることの半分も解らない。悪いが僕も暇じゃないんだ。本当のことだけ、簡潔に話してくれないか」

無駄話とばかりに切り捨てた降谷に、ナマエはむすっと頬を膨らませた。
それが自称とはいえ御年80歳のする顔か。

「失礼な。嘘なんてついてませんよ」

不満げに口を尖らせる姿は、とてもじゃないが人生の大先輩には見えなかった。

「もしかして、世界政府がそんなことするはずないとか思ってます?」
「世界政府?」
「天竜人は昔からコガネウオの人魚に多額の懸賞金を懸けてるんです。CP-0は天竜人直属なので、彼らに襲われたことも一度や二度じゃありません」

世界政府、天竜人。
説明する気があるのかと返したくなるほど、先程から聞き馴染みのない単語ばかりだ。

「人魚の中でもコガネウオはちょっと特殊で、そもそも魚人島に住まう種族ではないので、」

魚人島、と知らない単語がまた一つ増えたところで、降谷はナマエを制すように手のひらを向けた。
それに言葉を止めたナマエに向かって、ため息混じりに口を開く。

「もしかしたら僕達は、大きな思い違いをしているのかもしれないな」
「……え?」
「僕は君が、人知れず自然発生した新種の生物か、遺伝子操作で人為的に造られた生物である可能性を考えていた」

それにしては意思疎通が出来過ぎるし、誰にも知られず80年間生きてきたなんていうのも全くもって非現実的だが。

「それが、君は人魚が存在して当然のような口ぶりだ」
「…そりゃ、"偉大なる航路"の外では未だに伝説扱いですけど……」
「僕達の会話、噛み合っていないと思わないか?」

きょとんと見上げてくる蜂蜜色を見下ろしてから、降谷は壁につけていた背中を浮かせる。
それから洗面所の扉を開け、「ついてきてくれ」とナマエを促した。

二本の足で危なげなく立ち上がった彼女は、素足のままぺたぺたと降谷の後を追った。
LDKを通り過ぎながら、部屋の中を興味深そうにキョロキョロと見回している。

「外を見ろ」

そう言って降谷が示したのは、掃き出し窓とは別の、通りに面した窓だった。
ロールスクリーンを上げれば、後ろからついてきたナマエがぺたりとそこにへばりつく。

「ここは、君の知っている世界か?」

高層階からの眺めにナマエの目が見る見るうちに見開かれ、その口がぽかんとだらしなく開かれるのがわかる。
目玉が飛び出しそうなほど驚く二本足の人魚を、降谷はわずかな偽りも見逃さないとばかりにじっと見つめていた。




***




ここはもしかしたら、彼女がいたのとは違う世界なのかもしれない。
そんな荒唐無稽でオカルトチックで非現実的な仮説を、当事者である彼女はなんとも嬉しそうに受け入れた。

―――じゃあ、もう逃げなくていいんだ

ホッとして気が抜けたような、ふにゃりとだらしのない笑み。
その背後に底なしの重苦しい過去が見えた気がして、降谷は一瞬言葉を失った。

「そろそろ細かいことを聞いてもいいか」
「んん、ふむう」
「……食べ終わってからでいい」

呆れたように息を吐いた降谷の視線の先では、リスのように頬を膨らませたナマエがもぐもぐと口を動かしている。

窓の外を見せた後。
気が緩んだのか突如地響きのような轟音で腹を鳴らした彼女に、降谷は非常用に備蓄していたパックご飯で塩むすびを作って食べさせていた。
作っている間にスウェットのズボンを履かせたので、ぶかぶかのシャツの下からは何回も裾を折ったぶかぶかのそれが覗いている。
下着がないのはどうしようもないが、これで幾分視界の暴力も和らいだだろう。

(まるで餌付けしてる気分だな)

塩むすびを一口食べたナマエは、大袈裟なほどに瞳を輝かせた。
まともな食事は久しぶりだと言わんばかりに目を潤ませるので、使ったパックご飯はこれで二つ目だ。

幸せそうに頬を緩め、噛み締めるように時間をかけて咀嚼する。その姿は、とてもじゃないが演技には見えなかった。

「ごちそうさまでした」

食べ終わったナマエが、手を合わせて丁寧に頭を下げる。
質問をどうぞと促され、降谷は改めて口を開いた。

「君はずっと追われていたのか」
「はい。天竜人と呼ばれる世界貴族と、その手足となるCP-0に」
「CP-0というのは?」
「正式名称はサイファーポール"イージス"ゼロ。世界政府の一機関ですが、実質は天竜人直属の諜報機関です」

ゼロ、諜報機関。偶然の類似に降谷はわずかに片眉を上げた。
彼女の話によるとCP-0は白いスーツがトレードマークらしく、初対面の降谷に攻撃してしまったのも彼の着ていたスーツに反応したためらしい。

「なるほどな。それで、"コガネウオの人魚"とやらが狙われる理由は?」

問いかけるとナマエの表情が苦々しげに歪み、彼女は眉根を寄せながら言いにくそうにもごもごと唇を動かした。

「コガネウオは、他の人魚と違って…ちょっと特殊なんです」

ナマエの表情には迷惑だという色がありありと浮かんでいる。

「人魚にまつわる伝説って色々あるんですが、天竜人はそれらがコガネウオを指すと考えているようで。まあ、あながち間違いではないんですけど……」
「伝説というと、その血肉を食らうと不老不死になるとか、歌声で人を惑わせるとか、そういうやつか」

こっちにもあるんですね、とナマエは苦笑した。
どうやら彼女が狙われるのは、不老不死の肉体を得たいという思惑によるものらしい。

「でも勘違いなんです。体液や血液で疲労を回復したり、怪我や病気を和らげたりはできます。肉を食べれば多少の若返りは可能かもしれませんが、不老不死なんてさすがに無理ですよ」
「水を操っていたのは?」
「だから、そういう種族なんですってば」
「さてはよく解ってないな」
「えへ」

図星だったのか、ナマエは誤魔化すようにへらっと笑った。

「でもそれがあるから海には好かれてて、よく助けてもらってます。こっちにも海が連れてきてくれたのかも」
「海に助けられるという概念がよくわからないが……しかし楽観的だな。逃げる必要がなくなって嬉しいのはわかるが、同族が心配じゃないのか」
「それなら気にしてません」

ナマエはにっこりと笑みを深める。

「私以外、もう誰もいませんから」

その言葉に、降谷は一瞬面食らった。
それから詳しく話を聞くと、40年前に政府の手による襲撃を受けた際、同族は全員自害したのだという。その血肉を悪用されないよう、猛毒を食らって。
そして顔が割れていなかったナマエだけが逃がされ、今日まで一人で生きてきたそうだ。

「一人じゃない時期もありましたけどね」

優しげに目を細めたナマエは、一時期は海賊として仲間達と航海をしていたのだと話す。
しかしその船長も20年以上前に処刑され、かつての一味は今、世界中に散らばっているらしい。

つまり今のナマエは完全に一人だということだ。そしてここに来たことによって、彼女は40年間逃げ続けていたものから突如解放された。
先ほど見た気の抜けるような笑みの意味が腑に落ちて、降谷は短く「そうか」と返した。

全てを鵜呑みにしたわけではないものの、彼女の境遇は大体わかった。
問題は降谷の方だ。

こんな得体の知れない生き物、一人で保護するには正直手に余る。
かといってどの部署を頼ればいいのか、前例がなさすぎてそれすら曖昧だ。
降谷の立場を考えればすぐにでもウラの理事官に報告すべきだろうが、こんな話を信じてもらえるとは到底思えなかった。

それに、本当に彼女は帰れないのだろうか?明日になればいなくなっている可能性もあるのではないか。そう考えると慌てて報告するのも浅慮な気がして、結局降谷はしばらく様子を見ることにした。

(とりあえず今日の登庁は諦めよう)

ポアロの出勤時間まではあと4時間。
それまでに掃除を終え、これからのことを固めなければ。

と、そこまで考えたところでナマエの腹が再び「ぐぅ」と鳴った。

「あ、すみません……実はさっきのだけじゃ足りなくて」
「正気か」

パックご飯を二つ平らげておいて、まだ食べ足りないというのか。

「いきなり攻撃するわ食料は食べ尽くすわ、人魚ってのは自由な生き物だな」

つい呆れが混じった降谷の言葉に、ナマエはビシッと指差しながら反論した。

「それを言うなら、零だって私のおっぱい見たじゃないですか!」
「は?」

どうやら浴室でのことを言っているらしい。
確かにあの時両手を塞いだことで、彼女の上半身を隠すものはなくなってしまったわけだが。

「目線は向けてない。それにああしなければ攻撃を続けるつもりだっただろう」
「手を塞がれても力は使えます!…ってそういうことじゃなくて」

女に恥をかかせるのは万死に値するってシャッキーが言ってました!とナマエは目尻を吊り上げた。
シャッキーって誰だ。

「…それは悪かったな。じゃあパックご飯三つで許してくれ」
「女に値段をつけるのは不粋だってシャッキーが言ってましたよ」

だからシャッキーって誰だ。

降谷はナマエの文句を聞き流しながら、三つ目のパックご飯を温めるべく立ち上がる。
なんにせよ、そこにいるのが本物の人魚で、それを保護せざるを得ない状況だというのは確かなようだ。
突然のファンタジー展開に頭痛を覚えながらも、降谷は諦めたように苦笑した。


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