10
月光を受けて淡く光る水面を見つめながら、ナマエは凪いだ海を揺蕩っていた。
尾びれで一掻きすれば、あっという間に光が遠ざかる。体を包む海水は何よりも肌に馴染み、コガネウオ特有の黄金色の鱗を生き生きと輝かせた。
にもかかわらず、ナマエが浮かべる表情は一向に冴えない。
淡い色の髪がゆらゆらと視界に漂うのを雑にかき上げ、水中生物一の速さを誇る泳ぎで縦横無尽に泳ぎ回る。
ひとしきり泳いだところでスピードを緩めれば、どこからともなく魚たちがわらわらと集まってきた。
ナマエの周りを嬉しそうについてまわるそれらを見て、ようやく彼女の表情も柔らかく緩む。
「あなたたちは、私のことを知らないんですよね」
月明かりにぼんやりと姿を浮かばせる魚群から、質問の答えが返ってくることはない。ナマエも答えを期待して問いかけたわけではなかった。
「海賊も、海王類も、大陸と海域で4つに分かれた海のことも……あなたたちは、知らないんですよね」
答えのない問いが、小さな泡となって広い海に溶けていく。
夜の海はひどく静かだ。
夜釣りの船がないわけではないが、それが近付けば海や魚たちが教えてくれる。
そしてほんの少し深く潜れば、そこには静謐な世界がある。あちらで一人旅をしていた時も、こんなに静かで気配の少ない―――寂しい海に出会うことはそうなかった。
ほの暗い感情に支配されそうになるのを、ほのかに届く冴えた光だけが繋ぎ止める。
「笑って、ナマエ」
口をついて出たのは、自分に向けた言葉だった。
「笑顔で、丁寧に。笑顔で……」
両手で頬を挟み込み、ぐっと持ち上げて無理矢理な笑顔を作る。
笑っていれば、そのうち感情もついてくる。それが当たり前になる。これまで何十年もそうやってきたし、それに救われてきた。どんなに悲惨な現実だって、痛みだって、苦しみだって、笑い飛ばしていればなんとかなったじゃないか。
頬を包んでいた手で顔を覆う。ぎゅっと身を縮こまらせて、潮の流れに導かれるままに漂った。そうしていれば、脳裏に懐かしい顔が浮かんで消える。
ロジャー。ずっと一人だったナマエに、仲間と過ごすことの楽しさを教えてくれた男だ。
レイリーは過保護で心配性で、いつだって誠実だった。今思えば兄のような存在だったのかもしれない。
シャンクスとバギーの二人は、赤ん坊ほどに小さな頃から知っている。すぐに喧嘩する二人を甘やかすのはナマエの役目だった。
あの船のクルーはみんな、ナマエにとっては家族のような存在だった。ロジャーが処刑された後も、同じ海のどこかで皆が生きていると思えば寂しくはなかった。
この海には彼らと過ごした日々の残滓も面影も、何一つありはしない。
それを確かめに来て、自分はそこからどうするつもりだったのか。
「……大丈夫。今は零がいる」
"零しかいない"とは、思っていても口にできなかった。
その時、海がナマエに伝えてきたものに、彼女はゆっくりと顔を上げた。
***
「おや、お疲れですか?梓さん」
隣であくびを噛み殺した梓に、安室がそう声を掛ける。
彼女は「見つかった」という顔をした後、えへへ、と眉尻を下げて笑った。
「昨日ドラマの一挙放送見てたら夜更かししちゃって…ちょっと寝不足です」
「それは大変だ。お客さんもいませんし、濃いめのコーヒーでもいかがですか?」
「わっ、嬉しい」
いただきます!と嬉しそうに笑う梓に笑い返して、安室はコーヒーの準備を始めた。
「そういえば私、安室さんの疲れた顔ってあんまり見たことないかも」
「そうですか?」
「そうですよ!体調不良だって帰ることはあっても、表情に出たところは見たことない気がします」
「はは……いやそんな」
そりゃそうだ、全部仮病なんだから。とひそかに思いながら安室は苦笑する。
「安室さんも疲れることあるんですか?」
「そりゃありますよ。僕も人間ですからね」
なんたって、目下三徹中である。
その気になれば息をするように嘘がつけるし、周囲に不調を悟られないよう演技することも容易い。それでもそろそろ休まなければと、本人も限界が近いことを自覚していた。
だからこそ、彼女にまた電話をかけてしまったのかもしれない。
『ふふ…また眠い声してますね、零』
「もう少ししたら寝るさ」
『今何してるんですか?』
「持ち帰りの仕事を少しね」
働き者ですね、と柔らかな声がスマートフォンから聞こえてくる。
ハンズフリーにしたそれには、カタカタとキーボードを打つ音も聞こえているのだろう。
「君は?今日は珍しく遅くまで起きてるじゃないか」
『昨日ドラマの一挙放送を見てたら夜更かししちゃって。それで今日は昼間寝てたので』
「それ流行ってるのか」
『え?』
「いや」
小さく笑うと、ナマエは不思議がるように『んん?』と唸った。
「……あー、終わった」
『お疲れ様です』
労う声を聞きながら、パタンとノートパソコンを閉じる。
もう疲労も眠気も限界だ。寝る準備はすでに済んでいるし、このまま寝てしまおう。
そう思ってローベッドに倒れ込んだ降谷は、手にしたスマートフォンに話しかけた。
「じゃあ、そろそろ寝るよ」
『はい。子守唄はいりますか?』
きっと電話の向こうで悪戯っぽく笑っているのだろう。揶揄うような響きを含んだそれに、降谷は一瞬沈黙した。
いつもなら「子供扱いするな」と一蹴するところだが。
『零?』
「ああ、いや……お願いしようかな」
『えっ珍しい』
自分でもどういう風の吹き回しだと思った。
しかし彼女の声を聞きながら寝るのが心地いいと思い始めているのも事実だった。
こうして電話をかけてしまったのもきっとそのせいだ。
『…じゃあ、目を閉じて』
離れたところにいるのに、まるですぐそばで頭を撫でられているかのような、慈愛に満ちた声だった。
素直に従った降谷の耳に、いつかも聞いた旋律が届く。
ゆったりと温かなそのメロディに、降谷は深い眠りへと優しく誘われていった。
***
降谷が目を覚ましたのは、設定したアラームの10分前だった。
とはいえナマエとの電話から三時間後に設定していたので、時刻はまだ深夜だ。
(ポアロがオープンからだからそれまでに…)
体を起こし、顔を洗って着替えながらこの日のタスクを確認する。朝まではバーボンとして動くため服装も黒が基調だ。
そして着替え終わってマンションを出る前、スマートフォンの遠隔操作アプリを起動する。時間的にナマエが寝ているのは確かだが、もはや日課のようなものだった。
(……ん?)
小さな違和感に眉を顰める。
画面は真っ黒だし音も聞こえない。単純に考えれば部屋を暗くして寝ているのだろう。
しかしナマエの場合、日の出とともに起きる習慣のためか寝る時もカーテンは開けっ放しだ。
それなら今日のように月が明るい夜の場合、部屋の中にもある程度明かりが差し込んでいなければおかしい。
まさかとアプリの感度を上げてみるが、寝息すら聞こえない。
(いや、布団の中にスマホが埋まってしまってる可能性だって)
脳内にさまざまな可能性を挙げ連ねるが、一度感じてしまった嫌な予感は消えなかった。
幸い、目的地への道すがら少し遠回りすれば寄っていける。呑気な寝顔を一目見ればこの胸騒ぎも収まるだろう。
そう思っていたのに、もう一つのマンションで降谷を迎えたのは無人のベッドと、玄関の収納上に伏せて置かれたスマートフォンだった。
「ナマエ?」
大きめの声で呼びかけても、月明かりの差し込む部屋から声が返ってくることはない。
降谷は思わず舌を打って、苛立たしげに髪を掻き回した。
「あのバカ人魚…!」
彼女の行き先なんて一つしかない。
再びマンションを飛び出した降谷は、深夜の首都高に愛車を走らせた。行き先が以前朝釣りをした埠頭だったならまだしも、"海"そのものだった場合、捜索は難航するだろう。
彼女が海を見つめながら表情を曇らせたあの日、元の世界への郷愁を覚えたのだということはすぐにわかった。
それでも降谷にそれを叶えてやることはできない。せめてもの気晴らしにと外出を許したこともあったが、根本的な解決には至らないだろう。
(海に行ってどうするつもりだ)
彼女がいた海は海中にも独自の文明があり、魚人の住まう島もあったという。
だがもちろんこちらの海にそんなものはないし、海へ向かったところで彼女の居場所などないのだ。
(居場所がないことを確かめて、その後は?戻って来るつもりはあるのか)
そこまで考えて、降谷は片手でくしゃりと前髪を掴む。戻るだなんて、まるで自分が彼女の居場所であるかのようだ。
(…いずれいなくなるものに何を考えてる)
忙しさが一段落したら、彼女の存在を上に報告する。そしてその後の判断はすべて理事に委ねる。ずっとそのつもりでいたはずなのに。
(僕はただ、逃げ出した秘匿対象を回収する。それだけだ)
幸か不幸かもう少しすればこの忙しさも少し落ち着く。そうしたら彼女とはお別れだ。
降谷が纏わりつく靄を振り払うように視線を落とした時、東京湾の沖合でキラリと光るものが見えた。
ほんの一瞬だったが、月明かりを跳ね返すような眩い黄金色が彼女じゃなかったらなんだというんだ。
「あんなに遠く……日の出前から僕に遠泳させるつもりか、くそ」
泳いだ後ずぶ濡れで仕事に向かうわけにもいかないし、陸に上がったら乾かしてもらわなければ。それからもうマンションに戻る時間もない。眠かろうがなんだろうが、仕事の間は車で待っていてもらおう。
そのくらい許されるはずだ、と心の中で毒づきながら、降谷はアクセルを踏み込んだ。
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