09


ショッピングモールではエスカレーターに上手く乗れず手を繋ぎ、帰りは川に落ちた少女を人魚化して助け、その蘇生措置として口内を舐めて体液を与えた。
そして人魚化の際に下着代わりの水着と靴を紛失したため、車までは風見が横抱きにして移動した。

「……それは、本当に半日で起こった出来事なのか?」
『も、申し訳ありません!私がついていながら……』
「いや、別に君を責めたわけじゃない」

ご苦労だったな、と労えば、電話の向こうで疲れた声の男が安堵した気配がする。

どこにいてもトラブルが起こるこの魔都東京は言わずもがな、ナマエもまた行動が予測しにくい人物という意味では厄介な存在だ。
手繋ぎも横抱きもナマエの希望によるものだというし、彼女に振り回された風見はむしろ被害者だろう。

(……だからこの苛立ちも彼女に対してだ、きっと)

二人の様子を想像しただけでムカムカと込み上げるものがあるが、降谷はそれを全てナマエのせいにした。
とはいえいつまでもその苛立ちを引きずっているわけにはいかない。まだ安室透として、そしてバーボンとしてやることが山積みだ。

車内で電話を切った降谷は、車を降りて繁華街を歩く。
そして指定の場所で待つ一人の女性に声をかけた。

「あっ、安室さん!」
「お待たせしてすみません。冷えたでしょう」

店、予約してますので。
そう言ってさりげなくエスコートすれば、女性が期待と喜びに頬を染める。
降谷は安室透の仮面を張り付け、いつも通り柔らかく微笑んでみせた。




***




駅ビルに直結した、地上200メートル超のロケーションを誇るシティホテル。
女性に誘われるままにその一室へと足を踏み入れれば、彼女は待ち切れないとばかりに胸元に飛び込んできた。

「あの、安室さん…私……」

欲に濡れた瞳が安室を見上げ、ねだるような甘い声でその名を呼ぶ。
安室はそれを無感動に見下ろしながらも、形だけは優しい微笑みを浮かべていた。

「…まいったな。話があると言ったのはあなたでしょう?」
「あっ、ご、ごめんなさい……」

はしたない真似を咎められたと思ったのか、女性はバッと体を離して俯いた。

「一体どんな話を聞かせてもらえるのか、楽しみにしていたんですが」
「……あ、あの…、以前気にしてらしたことなので、きっと喜んでもらえるんじゃないかなって」
「へえ、それは期待できそうだ」

彼女がどんな情報を掴んでいるか、それはすでに把握している。
でなければこんな回りくどい真似をするはずがないだろう、と心の中で毒づきながらも、安室は穏やかな表情を崩さない。

離れた距離を一歩で詰め、褐色の長い指が下を向く彼女の顎先を持ち上げる。

「え…あの……」

戸惑うように揺れる瞳を、灰色がかった碧眼が真っ直ぐ見つめる。
グロスでてらてらと艶めく唇の端をそっと撫でれば、濡れた瞳に再び期待の色が滲むのがわかった。
ごくり、と女性が生唾を飲み込む。その様子を観察しながら、安室は焦らすようにゆっくりと口を開いた。

「……ご褒美は、話の後で」

甘やかな声に、小さく息を呑む音がする。
いいですね?と低く問いかければすぐに頷き返した女性に、安室は成功を確信した。



場所をソファに移し、隣に座る女性の話に相槌を打つ。
安室に褒められたい、認められたいという欲が透けて見えるその語り口は余分な情報が多く、安室はにこやかに頷くと同時に情報の取捨選択をする。

媚びるような甘い声に感情が動くことはない。今この場にいることも、ここまでの駆け引きも、全て目的に至るための手段でしかなかった。

(まあ、それはこの人も同じだろうし)

目の前の女性も、結局は安室透に気に入られたいがために聞き分けのいい女を演じ、情報を差し出しているに過ぎない。
人は誰しも自らの目的のために手段を選び、そしてその思惑を必死に覆い隠すものだ。

(裏表のない人間なんていない。…だからこそ彼女のような存在は貴重なんだろうな)

脳裏にニコニコとよく笑う黄金色の人魚が浮かんで、安室は張り付けた笑顔が柔らかくなるのを感じた。
女から情報を引き出しながら頭では別の女のことを考えているなんて、我ながら器用にも程がある。

「安室さん?」
「ああ、いえ。有益な情報をありがとうございます。とても助かりましたよ」

そう笑いかければ、どこか不安げだった女性がホッとしたように表情を緩めた。

「あの、それで……」

窺うような仕草からは、匂い立つような情欲の気配がする。
安室はクスッと薄く笑って、綺麗に整えられた髪を優しく撫でた。

「おあずけにしたままでしたね。……シャワー、お先にどうぞ」

促せば、物欲しそうな瞳がぐらりと揺れる。
シャワールームへと消えていく背中を見送って、安室は客室備え付けのインスタントコーヒーを淹れる準備をした。



そしてその三十分後。
安室は手にしたスマートフォンで、それらしい文章を作成してメールを送信する。送信先は背後のベッドで眠る女性だ。
コーヒーに混ぜた睡眠薬ですっかり熟睡しきっている女性を置いて、客室に残る自身の痕跡を全て消す。元より女を抱く気などありはしない。

手袋をした手でドアノブに触れる直前、安室はもう一台の端末の存在を思い出して手に取った。降谷名義のスマートフォンだ。
何時間かぶりに確認するそれにはナマエからの新着メールが入っていて、特に何も考えずそれを開いた。

『夜はチャーハンヲツクリマシタ』

チャーハン以降まとめて変換したな、とあっさり見抜いて、降谷は口元を緩ませる。
相変わらずホッコリさせてくれるというか、笑わせてくれるというか。結局ホテルの外に出るまで、降谷が振り返ることは一度もなかった。




***




「ここでいいわ、バーボン」
「ええ、お気を付けて」

数日後、辺りが夕焼け色に染まる頃。
助手席から降りたベルモットを見送ってから、降谷は再びRX-7を走らせた。

(半端に時間ができたな)

今回は予想より早く仕事が片付いた。思いがけず空いた時間を何に充てようかと、即座に思考を巡らせる。
時間ができたと言っても、登庁するほどでも、安室宅に戻るほどでもない。
現在地がどちらかと言うと降谷宅に近いことを確認してから、二つ先のブロックを越えたところで脇道に入った。

人目や防犯カメラを避けるように走行しながら、マンションに到着する。
ここに来るのは、組織の仕事が忙しくなり始めて以来久しぶりのことだ。
もちろん風見からの定期報告もあるし、ナマエからもマメにメールが届く。その上遠隔操作アプリでも確認しているので現状は把握しているが、降谷はなぜだか少し新鮮な気持ちになった。

「ただいま」と声をかけながらドアを開けると、玄関までテレビの音が聞こえてくる。
聞き馴染みのある声優の声に作品名はすぐにわかった。

「ナマエ?」
「あっ、零!」

リビングに入ると、ソファにスマートフォンをぽすんと放り投げたナマエが飛びついてきた。

「えっ?」
「わー!久しぶりです!今ちょうどメールしようとしてて」

嬉しそうにハグをするナマエの背後で、『狼牙風風拳!』と技名を叫ぶ声が虚しく響く。
いやちょっとこの反応は予想してなかった。

「今日は時間あるんですか?ご飯は?ここで食べます?」

にっこり細まった蜂蜜色に見上げられて、降谷は「ああ、いや」と言葉を探すように言い淀んだ。
そもそも彼女は文字通り違う世界の住人で、どちらかというと日本人より外国人寄りのノリだ。こんな挨拶程度のハグで動揺してどうする。

「近くにいたから顔を見に寄っただけで、時間はあまりないんだ」

そう伝えれば、「そうですか」と寂しげに眉尻が下がった。
その体が離れていくのを少し名残惜しく思いながら、降谷が「でも」と続ける。

「散歩程度の時間ならある。今からちょっと出られるか?」

もちろん彼女の答えはわかっている。
確信を持って誘った降谷に、ナマエは目を丸くして口を開いた。




***




散歩と言って降谷がナマエを連れ出したのは、マンションから少し離れたところにある自然公園だ。
平日夕方のそこは人もまばらで、風が木々を撫でる音がよく聞こえる。
都会の喧騒を離れたその空間はナマエのかつていた世界を彷彿させるのか、彼女はここに足を踏み入れた途端「ここ好きです」と宣言して目を輝かせた。

「こら、あんまり離れるな」

油断すればすぐ駆け出そうとするナマエを口先で制止しながら、降谷もまた心地いい空気感に身を任せていた。

ふとナマエの姿が見えなくなって視線を巡らせれば、彼女は歩道脇の花をよく見ようとしゃがみこんでいた。
全く、油断も隙もない。ナマエが満足したような表情で立ち上がるのを見て、降谷はあることを思いついた。

「ナマエ」
「はい?」

笑顔のナマエに左手を差し出すと、蜂蜜色の瞳がきょとんと瞬く。

「はぐれないように。ショッピングモールで風見とも繋いだんだろ?」
「ああ、はい」

納得したように頷いてから、彼女はなんの躊躇いもなくその手を握った。
相変わらず他者との距離感がおかしいがまあいい。これで興奮した彼女に振り回される心配はなくなった。

「……零」

少し歩いたところで、それまでよりトーンの下がった声で名前を呼ばれる。
幾分低いところにあるその頭部に目線を落とすと、こちらをちらりと見上げる瞳とぶつかった。

「ん?…ああ、君が気にすることじゃない」

ナマエは明らかに何かを気にしていた。
降谷はそれが二人を尾行する男を示していることにはすぐ気付いたが、小さく首を振って心配しないよう告げた。

マンションを出た時、尾行がなかったことは確認済みだ。
ここに来るまでにベルモットを下ろした地点を再び通り過ぎたため、彼女とのやりとりを目撃していた何者かがそこで張っていた可能性はある。
なんにせよ、今後のことを思えばここで確保しておきたいところだが。

「あ、そういえば君…元海賊ってことは荒事も平気なのか?」

ふと思い出してそう問いかければ、一拍置いて「まあ」と返ってくる。

「私は大丈夫なので、さっさとどうにかしましょう」
「はは、頼もしいことを言ってくれる」

小さく笑って、ナマエの手を引きながら遊歩道を外れた。
公園内の林に入り込めば、夕焼けが木々に遮られて徐々に光を失っていく。
薄闇の中で足を止め、二人は振り向いた。

微かな光を背負いながら現れたのは、スーツにサングラスといういかにもな風体の男だ。
男は少し離れたところで足を止めてから、「バーボンだな」と重々しい口調で問う。

「悪いが、ここで死んでもらう」

男は降谷の答えも待たず、懐から取り出した拳銃を構えた。
咄嗟にナマエを抱き込んで飛び退こうとした降谷だったが、肝心のナマエがするりと腕をすり抜けてしまったことに瞠目する。

「ナマエ!?」

降谷から離れたナマエが、低い体勢で男に向かって駆け出した。
危ない、と忠告する間もなく、サプレッサー付きの拳銃がパシュッと特有の音を鳴らす。
次に来るのはきっと血しぶきの舞う光景だ。―――しかし予想に反し、ガンッと鈍い音を立てながらもナマエは止まらなかった。

なぜか黒ずんで見えるナマエの手が銃身を掴み、それを引く。
グリップから手を放さなかった男の上体が前方に傾ぎ、無防備に下がった顎をナマエの膝がかち上げた。
そこでようやく銃を手放して男が仰け反るが、さらに一歩踏み込んだナマエが体を捻り、見事な上段回し蹴りを男の側頭部に叩き込む。
そしてその勢いのままに反対の側頭部を木の幹にぶつけ、男は声もなくずるずると倒れ伏した。

降谷は、その一連の流れを呆然としたまま見つめていた。
そこに男の拳銃を拾い上げたナマエが涼しい表情で歩み寄ってくる。

「はい、これ」
「え?あ、ああ……」

渡された銃を手に、降谷は続く言葉が見つからなかった。
荒事も平気、私は大丈夫―――まさに言葉の通りだったわけだが、まさかこれほどとは。さすが元海賊。これなら女性の一人旅でも心配いらないだろう、とぼんやり考える。

「バーボンってなんですか?」
「……君は知る必要のないことだ」
「ふーん」

了解です、と言うナマエはそれ以上追及するつもりはないらしい。

「君こそ、さっき銃で撃たれてなかったか?手も黒くなってたし、あれは一体……」

見る限り、ナマエの体に負傷はない。ならば放たれた銃弾はどこへ行ったというのか。

「あれは武装色の覇気です。腕を硬化して銃弾を弾きました」
「人魚はそんなこともできるのか」
「いえ、人魚の能力ではないんですけど…」

ナマエは言葉を探すように口元に手をやって、しばらく視線を彷徨わせてから再び降谷に向き直った。

「まあ、そういう能力なんです」
「またそれか」

説明を諦めたらしいナマエの笑顔に、降谷は一気に脱力した。


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