17 -Epilogue-
―――ヨホホホー、ヨーホホーホー
降谷を眠りの淵から引き戻したのは、なんとも陽気な歌声だった。
―――ビンクスの酒を届けにゆくよ 海風、気まかせ、波まかせ
相変わらずご機嫌な歌声は降谷の気分すら上向かせてくれる。
スマートフォンが示す現在時刻は、降谷が設定したアラームのきっかり10分前。意識的か無意識かはわからないが、なんとも優秀な目覚ましだ。
ベッドを下りて寝室を出れば、キッチンでてきぱきと動くナマエの後ろ姿が見えた。
―――潮の向こうで夕日も騒ぐ 空にゃ輪をかく鳥の唄
「ナマエ」
「あ、おはようございます」
「ああ。おはよう」
挨拶とともに歌声が途切れてしまうのが残念だが、その代わりに朝日より晴れやかな笑顔が降谷を迎えてくれる。
「今日は登庁前に少し散歩しようか」
「本当ですか!」
蜂蜜色が喜びに輝くのも、澄んだ声が興奮に上擦るのも気分がいい。
組織摘発後、コガネウオの人魚であるナマエは正式に公安預かりとなり、未だ研究対象としてではあるがその存在を認められた。
研究といっても唾液の提供や採血程度で彼女への負担は少ないし、組織の研究データやサンプルも丸ごと回収できている。何よりその監督者に任命されたのが降谷だというのが二人にとっては大きかった。
たまにプールを貸切にして思いっきり泳がせてやったり、時間を見つけては一緒に散歩したりと、彼女の行動範囲も大幅に広がった。
いつかは戸籍を作ってやりたいが、今はまだこれで充分だとも思う。
「ナマエ」
「はい?」
そして何より、一番の変化がこれだ。
「わっ」
ナマエに近づいて顔を寄せると、彼女は大げさにそっぽを向いた。
「おはようのキスは?」
「えっ、あの、いや……しないです」
「前はあんなに平気そうだったじゃないか」
意地悪く続けた降谷にナマエが「うっ」と言葉に詰まる。
「あれは、違うので……」
「ん?」
わざとらしく聞き返せば、ナマエは観念したように降谷を見上げた。
「これは……好きでするやつ、なので」
赤く染まった目元に、しっとりと潤んだ蜂蜜色の瞳。それがどうしようもなく可愛く見えてしまうのはもはや末期だろうか。
「好きなら問題ないな。たくさんしようか」
「だっ、だから、」
抵抗に構わず唇を重ねれば、その体がぴくりと小さく跳ねた。
ちゅ、と軽く啄んでから確認すると、面白いくらいに顔が赤く染まっている。
「そんなに好きか、僕が。……可愛いな」
つい煽りたくなってしまうのは、申し訳ないが性分だ。
案の定眉尻を跳ね上げたナマエが、何かを耐えるように唇を引き結ぶのが見える。
「……ご飯できてるので、どうぞ!」
同じ部屋でどこに逃げるというのか、ナマエはふいっと背中を向けた。そして遠ざかる背中から「この幽霊野郎」というなんとも聞き捨てならない悪態が聞こえて、降谷はそちらに足先を向けた。
―――さて、次はどんな表情を引き出してやろうか。
かつて世界が欲した希少な人魚。
それを手に入れた男は、どんなお尋ね者より悪い顔をして笑っていた。
*2021.2.24 完結
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