16
無人島での生活は毎日が寸劇のようなドタバタぶりだったが、それでもなんとか無事に一週間が経過した。
食べられる物と食べられない物もわかってきて、ナマエは平たい石で魚の身を潰さずにはらわたを取れるようにもなった。虫にもいちいち驚かなくなったし、初日を思えばかなりの進歩ぶりである。
「ナマエ。近々この島を出ないか」
突然そう提案した降谷に、木の実の薄皮を剥いていたナマエがぱちぱちと目を瞬かせた。
間の抜けた表情には未来で見慣れた面影があって、降谷は思わず頬を緩ませる。
「なんで」
「一生ここにいるわけにもいかないだろ」
「いや、一生いるつもりだけど」
今度はギロリと睨まれることはなかった。
相変わらず降谷の名前を覚える気すらないナマエだったが、少しは気を許してくれているらしい。
「ずっとここにいたら世界情勢も政府の動向もわからないだろう」
「そんなの必要?」
「情報は何にも勝る武器だぞ。君はここで物言わぬ獣にでもなるつもりか」
「人と関わるつもりはないから」
「人に媚びろと言ってるんじゃない。上手く使えと言ってるんだ」
「………」
真剣に話す降谷に、何かを感じ取ったのかナマエが木の実を置いて向き直る。
流さず聞いてくれるらしい彼女に降谷は再び口を開いた。
「たとえば仕事を得て報酬を受け取れば、行ける場所も出来ることも増える。人の集まるところには情報も集まるし、もしかしたら気の合う仲間だってできるかもしれない」
「仲間なんていらない」
「もしもの話だ。特別親しくならなくたって、利害で成り立つ関係もある」
「……人間なんて、信用できない」
言いながら、ナマエはぎゅっと眉根を寄せた。
やはり今の彼女にとって人間とは、一族を襲撃して滅ぼした憎むべき存在でしかないようだ。
「じゃあ僕は?僕だって人間だ」
「アンタは違うでしょ。幽霊だから」
「……君が読んだのは一体どんな本だったんだ。幽霊は別に生まれた時から幽霊なわけじゃないぞ」
「えっ?」
なに本気で驚いてるんだ。
きょとんと目を丸くしたナマエに降谷は呆れ顔で続けた。
「死んだ生き物が成仏せずこの世に留まっているのが幽霊だ。まあそれは一般論で、僕自身はオカルトを信じてはいないが」
とは言うものの、自分自身がそのオカルトな存在になってしまった今はおそろしく説得力がない。
「それに何度でも言うが、僕は厳密には幽霊じゃない。生き霊というのが正しいのかどうかわからないが、体は別のところにあってちゃんと生きてるんだ」
「はあ……」
蜂蜜色の瞳を真ん丸にしたまま、ナマエは呆然とした様子で呟いた。この様子じゃ何も理解できていないだろう。
その後、改めて自身の状態を詳しく説明した降谷だったが、どれだけ噛み砕いてもよくわかってなさそうなナマエを見て説明を諦めた。
「とにかく、いずれはこの島を出ることを考えた方がいい。世界から逃げることはもちろん大事だが、世界から取り残されることはきっとそれ以上に恐ろしいぞ」
「………」
「それに僕が元の場所に戻ってしまえば、こうして話す相手すらいなくなるしな」
「それは……別に」
「寂しくないのか?本当に」
「………」
黙り込んでしまったナマエを見れば、決して孤独に慣れているわけじゃないことは一目瞭然だ。
話し相手すらいない状態で一生を過ごすことの恐ろしさを、彼女もようやく想像してみたのかもしれない。
「でも……」
消え入りそうな声で呟きながら、ナマエの視線が地面に置かれた剥きかけの木の実に落ちた。
でも、ともう一度口の中で呟く姿からは弱々しさすら感じる。
「人と関わるなんて、どうしたらいいかわからない」
「そりゃいきなりは難しいさ。まずは笑顔を心がけてみるのはどうだ?誰だってにこやかな相手には好感を抱くし、丁寧に接すれば相手もまた同じように返してくれる」
「笑顔で……丁寧に?」
「ああ」
頷いてから、降谷は妙な既視感に襲われた。笑顔で、丁寧に。これは以前彼女自身が言っていた言葉ではないだろうか。
もしかしてこれがきっかけで?いやそれではタイムパラドックスが、と思考を巡らせるが、結局ファンタジー世界に整合性を求めるだけ無駄だろうという結論に至る。
「笑顔………」
ナマエはどこか遠くを見るような目で呟いた。
この世界、この時代でナマエに出会ってから一週間。彼女の笑顔は一度だって見ていない。
「笑った顔、きっと似合うと思うけど」
気付いたら考える間もなくそう言っていた。
似合うどころか、脳裏に浮かぶのはどれも笑顔の彼女だ。そのくらい記憶の中の彼女はいつもにこやかに笑っていた。
「笑うなんて、どうやったらいいんだろう」
そう言うナマエの表情はどこか儚く、途方に暮れているようにも見える。
これまでに聞いた彼女の話を総合すれば、一族が滅んでからまだ数ヶ月だ。その間ずっと宛てもなく海中を逃げ続けていた彼女に対して、何もなく笑えというのも酷な話だろう。
降谷は努めて優しく微笑みかけながら、彼女自身から聞いた話を思い出していた。
「これは受け売りだけど……最初は無理矢理でいいんだ」
「無理矢理?」
「そう。こうやって頬に手を当てて、上に持ち上げてごらん」
「こう?」
「ははっ、そうそう。ちゃんと笑顔になってるぞ」
それは作り笑いというにもあまりにお粗末で不格好な表情だったが、肝心の口角はちゃんと上がっている。
「無理にでも笑っていれば、そのうち感情もついてくるんだそうだ」
「ふうん……本当かなぁ」
君が言ったんだぞ、とは言えないが、ナマエなりにそう思うだけの経験をこれから蓄積していくはずだ。だから多分大丈夫だろう。そう思った降谷は、信じていない様子の彼女に向けて「きっとな」と短く返した。
「丁寧に接するっていうのはどうやるの」
「まずは敬語だろうな」
「敬語」
「初対面ならなおさら、敬語で丁寧に話しかけるのが無難だ」
敬語か、と再び呟くナマエの声は嫌そうだ。丁寧な言葉遣いが苦手なのだろう。
そう遠くない未来に君は敬語キャラになると、ここで言えないのが非常に残念だった。
***
降谷がナマエに島を出ることを勧めた次の日。
岩場から海水に手を差し込んだ彼女のもとに、またビチビチと魚が跳び上がってきた。
「ごめんね、ありがとう」
ナマエもまたいつものように魚に話しかける。
サバイバルも少しずつ板についてきた彼女だが、まだ生きた獣を仕留めるには至らない。食べるものといえば野草や木の実、果物ばかりの日々で、魚は貴重なたんぱく源だ。
「あ」
もう一尾、と再び海水に手を差し込んで、ナマエが何かに気付いたように呟いた。
「どうした?」
「この先を貨物船が通過するみたい」
「距離は? 遠いか?」
「……今から泳いでいけば追いつけるかも」
体を起こしながら、ナマエはどこかそわそわと落ち着かない様子だ。
まだ島を出ると決めたわけではないし、降谷も急かすつもりはなかった。それがまさかこんなにも早く機会が回ってくるとは思わなかったのだろう。
「どうする。行くか?」
降谷の問いに、ナマエが逡巡するように視線を彷徨わせる。
それからきゅっと唇を引き結んで降谷を見上げたナマエが、こくりと小さく頷いた。
ナマエは陸に上がった魚をそっと海に戻し、自身も着ていた服を脱ぐ。もちろん降谷は視線を逸らした。
脱いだ服を適当に丸め、それを長袖シャツに包み込んでからさらに丸める。中身が飛び出さないようにしながらシャツの袖を腰に巻いて、ザブンと水しぶきを立てて海へと飛び込んだ。
「ついてくるの?」
「別にこの島に用があるわけじゃないからな。一緒に行くよ」
「ふうん」
興味なさそうに呟いて水中に潜る。
降谷は反対に少し浮上して、海面に見える黄金色を追いかけるように空を飛んだ。
体力も生活力もなくても、水棲生物一泳ぎが速いという特長は健在だ。
あっという間に貨物船に追いついたナマエは、他の人の目には見えないらしい降谷を斥候としてフル活用して貨物室へと忍び込んだ。
そしてそこにあった物資を堂々と物色して靴を履き、食料を少しずつくすねながら三日間の航海を乗り切った。
ちなみに窃盗行為を咎める降谷の声はスルーだった。にもかかわらず、船員に見つからないよう降谷を目として使いまくったのだからなかなかに強かである。
そうして到着した島は観光地らしく、人の多い賑やかな島だった。
中心街にはさまざまな屋台が立ち並び、色とりどりの服を着た人々が通りを行き交っている。
「大丈夫か?」
「う、うん」
ナマエは人の多さに目を回しつつ、時折人とぶつかりそうになってよろめきながらもなんとか通りを進んでいた。
「政府に顔は割れてないんだろう?なら堂々としていればいい」
「………うん」
頷きながらもその顔には不安そうな表情が浮かんでいる。
降谷の姿はナマエにしか見えていないため、声も自然と小さくなっていた。
「君は嫌がるかもしれないが、見た目だけなら君は人間となんら変わりない」
「………」
「何も心配いらないよ」
ただし何年も同じ場所に留まれば、見た目年齢が変化しないことに気付かれることもあるだろう。
一つの場所にいられるのは二年が限度だ。そう伝えればナマエは神妙な面持ちで頷いた。
「人前で水を操るなよ」
「わかってるよ、しつこいな」
うんざりとした表情を浮かべながらも、徐々に緊張がほぐれてきているのがわかる。
「ほら、笑顔笑顔」
「わかってるってば」
「君は笑っている方が魅力的だ」
「適当なこと言うな」
ナマエは照れくさそうに頬を染めながらも、むすっとした表情を崩さない。
本当のことだと降谷が言えば、「見たことないくせに」と不機嫌そうな声が返ってきた。未来のことを話してやれないのがもどかしい。
その時、ナマエがピタリと足を止めた。その視線はある屋台に向いている。
「誰に声を掛けるか決めたのか?」
「……あの人。乳母に似てる」
そう言ってナマエが指差したのは、屋台で果物を売る恰幅のいい女性だ。気の良さそうな笑顔を浮かべていて、確かに話しかけやすそうな相手ではある。
「いいんじゃないか。頑張れよ」
「うるさいな」
眉間に皺の寄った仏頂面は、とてもじゃないが笑顔で明るく話しかけられるようには見えない。
「一回練習しておくか?」
「ちゃんとできるからいい」
そう切り捨てながらも、ナマエの表情には隠し切れない不安が滲んでいる。
これから彼女は一人で旅を続け、やがて信頼できる仲間たちと出会う。
そして海賊になってしまえば顔割れどころの話ではないのだが、その頃には彼女も強くなっているはずだし心配はいらないだろう。
ここからの彼女は、きっともう大丈夫だ。
ナマエは胸元に手をやり、肺の空気を丸ごと入れ換えるように深呼吸を繰り返した。
「……じゃあ、行くから」
「ああ。頑張れ」
意を決したように唇を引き結んだナマエは、振り返ることなく歩き出した。
すっかり慣れた足で危なげなく歩き、女性の元へと辿り着く。
その瞬間、降谷は背後から強く引っ張られるような感覚に陥った。この世界に来た時と全く同じ感覚だ。
「ッ、これは……!」
抗えないほどに強く引かれ、周囲の景色が急速に遠ざかる。
そして降谷は、誰に知られることもなくその場から掻き消えた。
後に残されたのは賑やかな街並みとそこに生きる人々、それから背後で降谷が消えたことも知らず、緊張の面持ちで口を開いた人魚だけだ。
「あ、あの、すみません……」
「はい?」
「一人で旅をしているんですが、路銀が尽きてしまって……どこか働ける場所を知りませんか?」
笑顔で、丁寧に。
ナマエの顔は硬く強張ってはいたが、しかし確かに笑みを形作っていた。
***
全身に重力が戻ったかのような不思議な感覚に、降谷はゆっくりと瞼を持ち上げた。
この目の覚まし方、デジャヴである。しかし今度は空中に浮いているわけでもなく、背中はしっかりと柔らかな布地に触れていた。
目の前に見えるのは白い天井だ。慣れた空気感に、周囲を確認しなくてもここが自身のマンションであることがわかる。
どうやらナマエは意識のない大男をなんとかベッドまで運んでくれたらしい。
(あ)
自分とは違う体温が左手を包んでいることに気付き、降谷は横たわったままそちらに視線を向けた。
そこには案の定、降谷の手を握ったままベッドに突っ伏すようにして眠るナマエの姿がある。
テレビなどでよく見るロマンチックなシーンなのだろうが、彼女の過去に触れた今、その姿を見て胸に渦巻くのは少し違う感情だ。
彼女がこうして生きていること、いつも笑顔を見せてくれること、それから降谷のためにその身を組織に差し出したこと。
そのどれもが確かに愛おしいのに、なぜだか無性に泣きたくなる。
(あれからどうやって生きてきたのか、いつか聞いてみたいな)
勇気を出して話しかけた先で、ちゃんと働けたのか。二年後の別れは辛くなかったか。料理や体術をどうやって覚えたのかも興味があった。
それに今なら、海賊として過ごした日々だってまた違った気持ちで聞ける気がする。
ほかほかと温かいような、それでいて苦しく締めつけられるようなこの感情を一体なんと呼べばいいのだろう。
彼女を好きだという恋情とは似ているようで遠い。そのすべてを肯定して包んであげたくなるような、なんともいえない感情だった。
ん、と吐息混じりの声を漏らして、ナマエが身じろぎする。
それをじっと見つめる降谷の視線の先で、瞼の下から見慣れた蜂蜜色が現れた。そして、潤んだそれが確かめるように数回瞬く。
「………零…?」
一体あれからどれだけの時間が経ったのか。そして彼女もどれだけの時間眠っていたのか。その声はすっかり掠れていて頼りなかった。
「ナマエ」
名前を呼びながら、降谷もまた喉に違和感を覚える。渇いて張り付きそうなほどにカラカラだ。
あれこれ話す前に、まずは水をもらおうと上体を起こした。―――のだが。
「うわっ」
飛び掛かってきたナマエの勢いに負けそうになり、咄嗟に後ろ手をついて踏ん張る。危うく枕に逆戻りするところだった。
「ナマエ?」
降谷の胸元に額を強く押し付けながら、その体は小刻みに震えている。
「れい、が……っ」
絞り出すように言って顔を上げたナマエは、瞳からとめどなく涙を溢れさせていた。水の膜が張った蜂蜜色は部屋の灯りを受けてまるで宝石のようにきらめいている。
「れ、零が……」
「僕が?」
努めて優しく促すが、ナマエはぐっと唇を引き結んで俯いてしまった。
「どうしたんだ?言ってごらん」
「でも、」
「大丈夫。聞くよ」
乱れた髪を整えるように撫でる。
ナマエがぐしぐしと目元を擦るのを「赤くなるぞ」と止めれば、彼女は情けなく眉尻を下げて降谷を見上げた。
「……おかしなこと、言うんですけど」
「ああ」
ナマエは言いにくそうに口ごもりながらぼそぼそと呟く。
聞き取れず「もう一回」と促すと、今度は先程より少し大きな声で「零だったんです」と言った。
「僕?」
「私に色々教えてくれた人で……私が初めて、頼りにした」
語尾は不自然に途切れ、また涙が溢れ出した。ヒック、としゃくりあげながらナマエが唸る。
「うぅ……っ、れ、れいだったんです〜」
ついにはわあわあと泣き出してしまったナマエを見ながら、降谷はぽかんと口を開けていた。
「い、いつの間にか消えてて、いなくなってて…っ」
なんで私忘れてたんだろう、と自分を責めるような呟きに、降谷は両手が濡れるのも構わずナマエの頬を挟み込んだ。
彼女にとってはもう40年も前のことだ。無理もない。
「なるほど。僕らは同じ夢を見ていたらしい」
次から次へと生温い涙を溢れさせながら、ナマエは「同じ夢?」と繰り返した。
こんな不思議な現象、いくら存在自体がファンタジーな彼女も理解はできないだろう。なんせ降谷自身理解できていない。
「なあ、ナマエ」
降谷は夢について説明することを早々に諦めた。
名前を呼ばれたナマエがきょとんと見つめてくるのに笑みを深めて、浮かんだことをそのまま言葉にした。
「キスしていいか」
案の定ナマエは目を瞬かせてから、「いいですけど」と即答する。だからそうじゃない。
「別に疲れてるわけじゃない。そうだな……僕がしたいのは、想い合う男女がするしっかりと気持ちの籠もったキスだ」
「おもいあう、男女……シャッキーが言ってたやつですか?」
出たなシャッキー。だから一体誰なんだ。
とりあえず全く知識がないわけではないことを確認して、降谷はまた言葉を選んだ。
「疲れとか怪我とかそういうことは置いといて。僕とキスするのは嫌か?」
「置いといて……?」
「僕と触れ合うのが好きとか嫌いとか、心地いいとか鬱陶しいとか、何か思うことはないのか」
両頬を挟み込まれたまま、ナマエは「んん」と唸って目線だけを彷徨わせる。
「えっと……多分、苦しいです」
「苦しい?息がか」
「息も苦しいし、こう……胸がぎゅーってなって、痛いような、痺れるような……よくわからないんですけど、多分苦しいんだと思います」
こう、と胸元を掴む仕草を交えながらナマエが言う。予想だにしない答えに降谷は思わず面食らった。それではまるで―――
「零?」
「……あ、ああ、いや……そうか」
「零は知ってるんですか?どうしてこうなるのか」
質問を返すナマエはすっかり涙も止まり、降谷の答えを待っているようだ。
降谷はナマエのことをウラ理事に報告し、適切な部署に回すべきだと最初は考えていた。というかつい最近までそう思っていた。
しかし今、自分は世界的な犯罪組織摘発の功労者だ。上に一つくらいわがままを言ったって罰は当たらないだろう。
―――つまり、これからも彼女と一緒に。
「うーん……僕の考えが正しいかは、もう少し試してみないとわからないな」
言葉の意味を確かめるようにぱちりと瞬く蜂蜜色に、胸の辺りがふわりと温かくなる。
「今からしてみるから、どう思ったか教えてくれるか」
我ながらなんてわざとらしくダサい誘い方だろうか、と降谷は思う。
それでもナマエは何一つ疑うことなく素直に目を伏せてみせた。
「はい」
その信頼がどれだけ甘美で心地のいいものか、彼女はきっと知らないのだ。
降谷はふっと小さく笑って、その無防備な唇に甘く嚙みついた。
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