※刑事部所属夢主
※モブ彼氏あり(浮気・略奪要素なし)
※他の話との繋がりはなし



すっかり夜の帳が下りた駐車場で、空を見上げて息を吐く。
雲に隠れて星も月も見えはしないが、それでも二日ぶりに自宅に帰れるとあって足取りは軽かった。
駐車場を足早に通り抜けて愛車へと向かう。―――が、コートのポケットで短く震えたそれが、仕事終わりの解放感をあっという間に塗り潰してしまった。

その連絡が誰からかなんてわかりきっている。
画面の明かりに照らされながら、全身から力が抜けるほどに長いため息を吐いた。

『で、どうすんの』

ひらがな六文字と、読点が一つ。その短い文章には確かな怒りが滲んでいた。

(どうすんのって言われても)

どうすんの。 どうすんの、かぁ。
駐車場の真ん中で立ち尽くしたまま、脳内でぼんやりと繰り返す。
どうすんのと言われたって、約束をドタキャンしてしまったのも彼の誕生日に会えないのも仕事だからだ。
では何をどうすんのかと言えば、それらの埋め合わせをどうすんのかということだろうか。

(それか、仕事辞めろってことかなぁ)

謝罪なら既にした。何度も謝った上での「どうすんの」なのだから、もっと根本的な解決が必要なのだろう。

(二年も付き合えたことが奇跡かな……)

画面がフッと暗転したのを見届けて、力なく腕を下ろす。
そして再び車に向かって足を動かし始めたところで、背後から「苗字さん」と声がかかった。

「はい?……あ、萩原くん」

庁舎の方から歩いてきたのは警備部の萩原だ。
彼氏ができる前の合コンで連絡先を交換して以来、会えば立ち話に興じる程度には仲がいい。

「今帰り?」
「うん、しばらく仮眠室暮らしだったの。帰るのは二日ぶりかな」
「やべーな、それ」

刑事部も大変だねぇ。
そう言って萩原は可笑しそうに笑った。

「萩原くんは?」
「出動あって、その後ちょっと寝てた」

どうやら彼も仮眠室の住人だったらしい。「大変だねぇ」と返してから、お互いに同じタイミングで吹き出した。

「いやホントやべーよな、この生活。こんなんじゃ彼女もできねーわ」
「嘘ばっか。こないだ交通部の子と歩いてるの見たよ」
「げ」

見てた?と悪びれず笑ってから、萩原が再び口を開く。

「でもマジな話、彼女じゃないよ。俺フリーだもん」
「特定の相手はいないっていう意味のフリーね」
「辛辣だなぁ」

肩を竦める萩原を見て、名前は「日頃の行いって大事だね」ととどめを刺した。
なんせこの萩原という男はとにかくモテる。甘いマスクに軽快なトーク、加えて女性なら誰にでも優しいとあってはモテないはずがないのだ。
それでいつも複数の女性に囲まれているのだから、遊び人認定も致し方ないだろう。

「苗字さんは?彼氏とは順調?」
「……あー」

痛いところを突かれて、名前は宙空に視線を彷徨わせた。

「喧嘩っていうか……また怒らせちゃった」
「あらら、また?」

目を瞬かせた萩原に苦笑する。

「ドタキャン続きだし誕生日も時間作れないし、怒られても仕方ないんだけどさ」

暗転したままのスマートフォンに視線を落とせば、萩原が「まあ」と切り出した。

「彼氏の気持ちもわかるからなぁ。お互いどこまで歩み寄れるかだよな」
「んんー、歩み寄りかぁ」
「まっ、仕事が忙しいのはしょうがねーし。それで無理なら潔く諦めよーぜ」
「軽いなー」

その軽さにつられるように名前も笑う。
萩原は名前に彼氏がいることも、仕事の忙しさから度々すれ違ってしまうことも知っている。
それは萩原がこうして気にかけてくれているからというのもあるし、名前自身、彼の話しやすさについ答えてしまうからというのもあった。

「でも、そうだよね。仕事辞めるつもりはないんだし」
「そーそー」
「ありがとね、萩原くん。まずはちゃんと会って話し合ってみる」

別れずに済めばいいけど。
そう言って萩原に笑いかければ、彼の笑顔が一瞬曇ったような気がした。

「萩原くん?」
「あーいや、どういたしまして」

にっこりと笑う萩原はいつも通りだ。
今のは気のせいだっただろうかと、名前は内心首を傾げた。




***




ちゃんと会って話し合って、なるべく別れず済むように。

(…なんて真面目に思ってたのにな!)

ドンッと勢いよくジョッキを置く音に、隣に立っていた男の肩がビクリと跳ねた。

「あ、すみません」

名前も知らない男に会釈して謝る。
一人でふらりと入った立ち呑み居酒屋でやけ酒を始めて一時間ほど。店内の時計を見ればとっくに日付も変わっていた。

小鉢のたこわさをつまみ、またビールを呷る。それを数回繰り返してからスマートフォンのディスプレイを起動すれば、そこに表示されたのは開きっぱなしのメッセージ画面だった。

『もう無理』『別れよう』

短い言葉が淡々と続くのを見つめていると、乾いたはずの瞳がじわりと潤む。
ぼやけた視界で画面を睨みつけながら唇を引き結んだ。

駐車場で萩原と会った後、名前はすぐに彼氏と連絡を取った。
しかし危惧していた通り、彼の主張は「仕事を辞めなければ別れる」一択。それ以外の選択肢は一切無視で話し合いを提案してもなしのつぶて。結局それから三日間連絡を無視された後で四文字のメッセージが二通来て、呆気なく二人の関係は終わったのだった。

(あーあ……情けない)

滲んだ涙を手の甲で乱暴に拭い、カウンター越しの店員に新しいビールを注文した。
刑事が普通の会社員と恋愛なんて、最初から無謀だったのだろうか。それでも二年もったことに感謝すべきか。
目の前に新しくジョッキが置かれる。キンキンに冷えたジョッキを傾ければ、喉元を通り抜けるのは慣れた爽快感だ。この冷たさと苦味にすべて委ねて、何もかも忘れてしまおう。
結局名前が店を出たのは、それからさらに一時間後のことだった。

「さむ、」

そろそろ桜が咲く季節だと言うのに、夜半の空気は冷たく冴えている。ビュウッと吹き抜けた風に緩慢な動作でコートの前を合わせた。
二時間立ちっぱなしで飲みっぱなし。当然終電はないし、乗ってきた車を運転するわけにもいかない。代行を頼んで車内で待つか、あるいは駅近だし始発まで漫喫で寝るのもアリかもしれない。幸い車も漫喫も同じ方向だと緩く思考を巡らせながら、名前はのんびりと歩き始めた。

「苗字さん?」

歩き出した背中に届いたのは聞き覚えのある低い声だ。
既視感を覚えながら振り向いた先には、案の定萩原の姿がある。ただしその姿はスウェットにブルゾン、足元はスニーカーとずいぶんラフだ。

「萩原くんだ」
「こんな時間に何してんの?」
「何って、飲んでたけど」

一人で?という問いに頷いて答えれば、萩原がゆっくり距離を詰めてくる。

「……あれ?もしかして泣いてた?」

覗き込まれてバッと顔を背けた。アイメイクのヨレにでも気付かれたか。

「あの……花粉症でちょっと」
「ふーん」

咄嗟に誤魔化してしまったが、明らかな嘘にも追求しないでくれるのはありがたい。それでも、気に掛けてくれていた彼に隠すということに罪悪感が募った。

「飲んでたのってそこの店?」
「あ、うん。立ち飲みの」
「あそこ安いのに食いもん美味ぇよな」
「そうそう。初めて行ったけど、出てくるのも早いしアタリだった」

結局一人で二時間も飲んでいたと話せば、萩原は一瞬目を丸くしてから「そういえば強いもんな」と言いつつクシャッと笑った。
それに笑い返しながら小さく息を吐く。

「……あのね」
「ん?」
「別れたの。彼氏と」

流れに任せて笑顔のまま告げると、萩原がたれ目がちな瞳をパチパチと瞬かせた。

「え?」
「結局話し合いも全然できなかった」
「……マジで?」
「マジで」

きょとんとした顔が妙に幼く見える。
名前がそれに笑っていると、萩原は気まずそうに頭を掻いた。

「あー……そっか。なんつーか、えっと……」
「あ、いいのいいの。しょうがなかったんだよ、仕事辞めるつもりはないし」
「まあ、そうだよなぁ」

うん、と軽い調子で返しながらも不意に鼻の奥がツンとして俯いた。
ああ、まだ駄目だ。ちょっとやけ酒した程度じゃ全然立ち直れない。情けないなぁと目元を擦ったところで、その手を大きな手が掴んで止めた。

「え、」
「赤くなるよ。って俺もハンカチとか気の利いたモン持ってねーんだけど」

カッコつかねーなぁ、俺。そう言って笑う萩原に、つられるようにして名前の頬も緩む。

「ううん、ありがと。……そういえば、萩原くんもどっか行くとこじゃないの?」
「あ、俺?俺はコンビニ。住んでんのそこだから」

そう言って萩原が空いた手で指し示したのは道を挟んだ反対側に建つマンションだ。ドアの間隔からして単身者用だろう。

「えっ、そうだったんだ」
「いいとこでしょ。駅も近ぇし」
「車も電車もあると便利だよね」
「眠ぃ時は電車で寝れるしな」
「寝るんだ」

ふふっと笑う名前を、萩原は眦を柔らかくして見つめている。

「明日非番だし、遊びに行っちゃおうかな」
「いいよ」

なんてね、と続ける前に返ってきた言葉に、名前は思わず目を瞬かせた。

「俺も非番だから酒買い足しに出てきたとこなんだよね」
「え?あの、」
「一人で飲むのも寂しいし、苗字さんが話し相手になってよ」

掴まれたままの腕がじわりと熱を持つ。
真っ直ぐな瞳に見下ろされながら、「冗談だよ」の一言が喉に詰まって出てこなかった。




***




カーテンの隙間から柔らかな明かりが差し込み、空が白み始めたのがわかる。
広めのワンルームには空になった酒瓶や空き缶が転がり、ローテーブルの上にはつまみが盛られていた皿がそのまま放置されている。
名前がカーテンの隙間から外を窺えば、ベランダには煙草をふかす男の後ろ姿があった。

窓に背を向けた名前は体を包んでいた毛布をバサリと落とし、肩にかろうじて引っかかっていたブラのホックを留めた。それからベッドの上や下に散らばった衣類を拾い集めて身に着け、ベッドの端に腰掛けて再び毛布を頭から被る。

「…………やっ、」

(やってしまった…!)

毛布をぎゅっと握り締めながら、そのまま頭を抱えるように全身を縮こまらせて名前はぐるぐると思考を巡らせた。
全身を這う大きな手も、混ざり合う体温も、名前を呼ぶ甘い声だって鮮明に思い出せる。これはやってしまった。完全にやらかしてしまった。

(いや、萩原くんは悪くないんだ、萩原くんは)

誰に言うでもなく脳内で彼を庇う。やらかしたのは100%自分である。

確実に食われると覚悟して半ば投げやりにマンションに足を踏み入れた名前だったが、予想に反して萩原はどこまでも紳士的で誠実だった。
彼は酒を飲みながら名前の愚痴を聞き、慰め、励まし、そして他愛もない冗談で笑わせてくれた。最初から最後まで手を出す様子など微塵もなかったのだ。それどころか欠伸をした名前にベッドを勧め、自身はその長身を窮屈そうに曲げてソファに横たわったのだから拍子抜けである。
そこを「家主がベッドを使え」と介助の要領で無理矢理抱き起こし、「え〜?」「いやいや」と渋る萩原をベッドに転がしたのは名前だ。そして勢いに任せて彼に覆い被さり、「しよ?」と誘ったのも名前である。

(しよ?じゃないだろ、しよ?じゃ…!!)

酒の勢いとはいえ、我ながら恐ろしいことをしてしまった。これでは彼に群がる女たちのことをどうこう言えそうもない。

(セフレは嫌だ、セフレは)

これは一度限りの過ちとしてなかったことにしてしまうのがお互いのためだろう。うん、そうしよう。ウンウン頷きながら名前がそう決意したところで、カラカラと掃き出し窓が開く音がしてビクッと肩が跳ねた。

「何してんの?名前ちゃん」

部屋に戻ってきた萩原が可笑しそうに笑うのがわかった。苗字呼びから名前呼びに変わっているのが妙に生々しい。

「おーい」

頭から被っていた毛布をそっとどけられて視線が絡む。
男所帯の刑事部所属で煙草の匂いにも慣れているはずなのに、ふわりと漂う香りをどうしようもなく意識してしまう。

「どうしたの」
「あ、あのね、萩原くん」
「ん?」
「今日のことは、その……」

お互いに忘れよう。なかったことにしよう。それを上手く切り出せず口ごもる名前を見て、萩原がふっと笑みを深めた。

「待ってたんだよね、俺」

言われた言葉の意味がわからず、名前は首を傾げる。

「待ってた?」
「名前ちゃんが彼氏と別れて俺を見てくれんの、ずっと待ってた」

―――好きだよ、名前ちゃん。

行為の最中に何度も言われた言葉が蘇って頬が熱くなる。きっと気分を盛り上げるために言ってくれているのだと、努めて気にしないようにしていた言葉だ。

「俺さぁ、ショートケーキのイチゴは最後まで取っとくタイプなんだよね」
「イ、イチゴ」
「好きな物のためならいくらでも我慢できんの」

どうやら自分はショートケーキのイチゴに例えられているらしい。好きなものという表現がなんともくすぐったかった。

「そして手に入れたものはとことん大事にするタイプでもあります」

そう言って笑う萩原の表情はどこまでも優しく、蕩けそうなほどに甘やかだ。

「名前ちゃんもそうだよな」
「え、」

それは名前なりに元彼を大切にしようとしていたことを言っているのだろう。
残念ながら上手くはいかなかったが、自分のやり方が間違っていなかったと言ってもらえた気がして無性に泣きたくなった。

「同業者で仕事に理解があって、何より名前ちゃんのことがめちゃくちゃ好き。こんな優良物件ほかになくねぇ?」

窓に背を向けていてよかったと名前は心底思った。赤らんだ頬を目の前でまじまじと見られては恥ずかしすぎる。
それにしても、この男には自分の欲しい言葉が全て見えているのだろうか。一言一言の攻撃力が半端じゃない。

はぁ、と詰めていた息を吐き出せば、体中に籠っていた熱が少し和らいだような気がした。

「……あの…私、ショートケーキのイチゴは最初に食べるタイプなんだけど」
「え?」

きょとんと目を丸くした萩原が、やがて納得したように口角を上げて「ああ」と頷く。
欲しいものを我慢できない、はしたない自分。彼にはとっくに知られているし、もう隠す必要もないだろう。

「どーぞ、召し上がれ」

目を閉じた萩原の顔が、昇り始めた朝日に照らされてよく見える。
名前は屈んだ彼の首に両手を回し、その端正な顔に唇を寄せた。


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