*ネームレス


 金曜日の夜。
 思ったより早く上がれたからと、立ち飲み居酒屋でビールをジョッキ一杯引っかけてから待ち合わせの店へ。指定の時間より少し早いけれど、行き先はどうやらバーらしいし、先に飲みながら待っていればいい。そう思って開けた重厚なドアの先、予想の斜め上をいくクラシカルなオーセンティックバーに思わず立ち尽くしてしまった。
 暗めの照明に一枚板のバーカウンター、店内に流れる控えめな音楽にさえ高級感が漂っている。

「いらっしゃいませ。一名様ですね。カウンターにご案内します」

 蝶ネクタイをした初老の男性に先導され、長いカウンターの端に腰掛けた。
 これ店間違ってんじゃないかな、という疑問は一体どのタイミングでぶつければいいのだろう。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

 カウンター越しに問いかけられて、混乱した頭のまま「えーっと……」と唸りながら顔を上げる。
 そしてそこに立つ男を視界に入れた瞬間、私はカッと目をひん剥いた。

「え、ま……っ、松っ、」
「ふは、おもしれー顔」

 白シャツのボタンを一番上まで留めて、いつも緩めているネクタイもきっちりと隙がない。
 どう見てもバーテンダーにしか見えない出で立ちで可笑しそうに笑っているのは、私をここに呼んだ本人―――同期の松田陣平だった。

「いつ警察やめたっけ?」
「やめてねーよ。非番だ非番」
「副業禁止……」
「お前が言わなきゃバレねぇよ」

 ここ知り合いのオッサンの店、と雑に紹介してくれる松田くん。どうやら大学生の頃にもここでバイトをしていたらしく、人手不足のために急遽今週末だけ手伝うことになったのだとか。

「一緒に飲もうってことじゃなかったの?」
「そうとは言ってねぇだろ」

 そう言われてスマホを確認すれば、確かに『いい店あるから』としか書いてない。でも時間まで指定されたら普通は待ち合わせだと思わないだろうか。『オッケー楽しみ!』という自分の返信がちょっとアホっぽく見えてくる。
 いいから早く注文しろと促されて、聞いたことのある名前のカクテルを適当に注文する。さすが器用というかなんというか、シェイカーの扱いも様になっていて驚かされる。その姿があまりに新鮮で、つい色々と飲みすぎてしまった。

「ねーねー聞いてよ、この前交機と合コンしたんだけどさぁ、「これ俺の気持ち」って言ってカクテル渡してきた人がいて。面白くない〜?」

 いい感じに酔いが回り、お喋り相手を放そうとしない私に彼の眉根がグッと寄る。

「……なんのカクテルだよ」
「なんだっけ。あー、ほらあれ、テキーラとオレンジジュースのやつ」
「“熱烈な恋”」

 ん?と首を傾げる私に、彼が「テキーラサンライズのカクテル言葉」と教えてくれた。

「え、カクテル言葉なんてあるの?花言葉的なやつ?」
「気になるのそこかよ」

 呆れ顔の彼になんで知っているのか聞けば、バイトをしていた頃に客から教わったのだという。記憶力良。

「へー、面白いね。じゃあカクテルで告白とかできちゃうじゃん」
「お前な…まさにそれをされたんだろーが」
「あちらのお客様からです、とかさ〜」

 聞けよ、とツッコまれながらも緩んだ顔が笑みを形作る。
 アルコールの熱に浮かされた頭がふわふわと心地良くて、私は上機嫌に彼を指差した。

「そこのイケメンバーテンダーさんにテキーラサンライズひとつ!私の気持ちです!……なんちゃって」

 そう言って笑ってみせれば彼がきょとんと目を丸くして、珍しくあどけない表情になる。かと思えば次の瞬間にはニヤリと悪い顔で笑って「ありがたく」とグラスの準備をし始めるので、今度は私が「え?」と目を丸くする番だった。

「シラフきつかったから助かったわ」

 ああ、なんだ、お酒が飲める喜びの笑みか、と心の中でホッと胸を撫で下ろす。本気にされたかと思って一瞬焦ってしまった。
 すると手際よく仕上げた鮮やかなオレンジ色のカクテルを手元に置いて、もう一つ別のカクテルを作った彼がスッとグラスを滑らせてきた。

「これは俺からの返事ってことで」

 それは見たことのないカクテルだった。ミルクとカフェオレの中間くらいの淡い色味に、どこかで嗅いだ覚えのある甘い香り。

「えっ、いや返事って、さっきのは」
「んじゃこっちもらうな」

 遮るように言って、テキーラサンライズをビールか何かのように飲み干す松田くん。警察官の一気飲み、いろんな意味でダメなやつ。ってそうじゃなくて。

「松田くん」
「あ、ちょっと行ってくるわ」
「えっ待って、これなに?なんてやつ?」

 別の客の元へ向かおうとする彼を咄嗟に呼び止めれば、また一段と悪い笑み。

「教えねぇ。もうすぐ上がりだから飲み行こーぜ」

 えっ、えっ?と、私が一生分の「えっ」を言っているうちに彼は他の客の対応を始めてしまった。 若い女性達が「格好いい」「イケメンですね」とはしゃぐ声と、「どーも」とフラットすぎる声が聞こえてくる。
 そして私はといえば、彼の作ったカクテルと一対一。飲んだり匂いを嗅いだり画像を検索したり、回らない頭で必死になってその正体を探る。覚えのある香りは多分カルーアだし、ブランデーも同じぐらい入っている気がする。

(あ、これかな。ブランデーとカルーア、ホワイトキュラソーに生クリームで「ベルベットハンマー」)

 そしてそのままカクテル言葉を検索して、開いたページに硬直する。
 いつの間にかカウンターから出ていた松田くんが「お、見つけたか」と楽しげに覗き込んできても何も反応できないし、「じゃ、俺上がりだから着替えてくるわ」と囁いても動けないまま。
 ぎこちなく動かした視線の先で、青みがかった瞳がすっと細くなる。

「言っとくけど、逃げるなら今のうちだぜ」

 よく考えろとばかりにそう言ってから、その背中が無機質なドアの向こうへと消えていく。残されたのはとろりと甘いカクテルと、時が止まったように動けないでいる私だけ。
 どうしようと、浮ついた気持ちのままぐるぐる考える。このままここで待っていたら、きっとチョロい女だと思われるに違いない。でも。

(これは、ずるいよ……)

 だって、たとえ冗談だとしても―――「今宵もあなたを想う」、だなんて。
 それを知った瞬間から頬が熱くてたまらないし、胸がきゅんと甘く高鳴ってしまってどうしようもない。
 戻ってきた彼をせめてもの抵抗とばかりにじっとり睨みつけてみるけれど、私がそこにいるのを見た彼が顔をくしゃっとさせて笑うので、もう勝てる気がしなかった。



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