01. 短夜は一目散に
夏休み。
それは健全な高校生なら、もれなく心躍らせる単語である。それは全国模試上位常連である秀才、降谷零だって例外ではない。
『さっき着いた!思ったより暑い』
短いメールにふっと口元が緩む。幼馴染であり親友でもある男は、数年ぶりに帰省した地元にきっと目を輝かせていることだろう。
『長旅お疲れ様。お兄さんによろしく』
手早く返信し、携帯を手にしたままベランダへと出る。むっとした空気が纏わりつくが、日が落ちて数時間もすれば昼間のそれより幾分かマシだ。時折吹く夜風が思いのほか心地よかった。
今から遡ること三時間半前。メールの相手である彼―――諸伏景光は故郷である長野県行きの高速バスに乗車した。
諸伏の両親はすでに亡く、唯一の家族である兄もまた新人警察官として独身寮に入寮している。つまり帰省できる実家はないわけだが、夏休みの間、畑仕事を手伝うという名目で親戚の家に滞在させてもらえることになったらしい。久しぶりに兄に会えると喜ぶ姿が鮮明に思い起こされた。
「ゼロも都合がついたら遊びに来いよ」とは、出発前の彼に言われたセリフだ。課題は早々に終わらせてしまう予定だし、他の予定さえ調整できれば夏休み後半には遊びに行けるかもしれない。期待に胸を高鳴らせながら深く息を吸い込めば、都会の香りに紛れて青々とした木々の香りが鼻腔をくすぐった気がした。
と、いい気分だったのも束の間。
「う……っ」
キーンと鋭い耳鳴りがして、降谷は携帯を持つのとは別の手で耳を押さえた。不快な音はすぐに消えたが、続いてぐらりと視界が揺らぐ。自分としたことが貧血だろうか。
思わずグッと目を瞑って一歩後ずさり、倒れ込んでしまわないよう下肢に力を籠めた。
ザリッ
「え」
無意識に声を漏らすと同時にパッと瞼を上げる。―――なんだ、今の音は。ベランダに置いてあったサンダルを履いた足が、まるで土を踏みしめたような音を立てたのだ。
目を開けてはじめに捉えたのは、暗闇にぼんやりと浮かぶ白いサンダル。ここまではいい。自分の認識となんら相違ない。
それなのに、同時に視界に入った光景が降谷の脳を混乱させた。
(土だ)
部屋から漏れる明かりが淡く照らす、薄汚れた鼠色のコンクリートなどどこにもない。足先を少し動かせば再びザリッと音が鳴る。暗闇の中、小石混じりの土の上に立っているのがかろうじて見て取れた。
そこまで理解して降谷はバッと顔を上げた。視覚情報に少し遅れて、聴覚と嗅覚もようやく働き出す。視界を埋め尽くさんばかりに生い茂る木々、葉の隙間からほのかに照らす月、葉を擦り合わせながらさわさわと音を立てる風、それまでより数段涼しい空気に噎せ返るような草と土の匂い―――
「森……?」
あまりにも非現実的な光景に、思わず呆気にとられたような呟きが零れた。
地面に傾斜はないから山というよりは森だ。しかし山だろうが森だろうが、こんなところに自分がいるはずはない。夜の森なんて素人が安易に足を踏み入れていい場所ではないし、そもそも自分はつい数秒前まで自宅にいたのだ。東京の自宅に。
思わず一歩後ずされば、踏みしめられた落ち葉と土が思いのほか大きな音を立てた。ベランダではあり得ないゴツゴツとした感触を薄いサンダル越しに感じ、爪先から背筋までぞわりと寒気が這い上がる。夜風に肌が粟立ち、時折大きくなる葉擦れの音に肩が跳ねる。ここはどこだ。
徐々に現実味を帯びる光景に、これが夢だという可能性すら浮かぶ前に消える。いくら真夜中の森とはいえ、先程までとは打って変わって肌寒さすら感じる空気にTシャツから覗く腕をさすった。
(そうだ、携帯)
ハッと我に返り、右手に持ったままの携帯電話を開く。二つ折りのそれが顔を明るく照らすが、夜闇に不似合いな液晶を眩しく思う余裕もない。
しかし様々な可能性を脳内に列挙しながら見つめた画面には、残念ながらなんの手がかりもなかった。日にちも時間も変わりなく、諸伏への返信から5分と経っていない。「一瞬で自宅から森に移動した」という荒唐無稽な現象を否定するだけの情報はありそうになかった。
(……電波もない)
画面左上で存在を主張する「圏外」の文字に焦りが増す。日常生活でこれを目にするのは地下鉄に乗った時くらいだ。
オフライン対応のナビアプリが入れてあるものの、位置情報の取得にはインターネット接続が必要なため作動しないだろう。ならばとGPSで測位を開始するも、時間がかかるようで「取得中」の文字がなかなか消えない。
早くしてくれ、と降谷は祈るような気持ちで液晶を見つめた。
(くそっ、一体何が……)
焦れた降谷が再び周囲を見渡すが、鬱蒼と生い茂る木々の向こうにはただ闇が広がるばかりだ。ここがどこかはわからないが、迂闊に歩き回るべきでないということだけはわかる。液晶に視線を落としても現在地はまだ表示されていない。位置情報の取得が完了するまで電池を節約すべきかと携帯を折り畳んだところで、ザアッとひときわ強い風が吹いた。
頬を撫でる風はどこか生温かく、その違和感に降谷は顔を上げる。
(匂いが変わった?)
鼻を掠めたのは眉を顰めたくなるような異臭だった。木々が生い茂る森には不釣り合いなまでに生臭く、腐敗臭のようにツンと鼻の奥をつく。
咄嗟に左手で口と鼻を覆うが、それでも拭えない違和感に降谷はグッと眉根を寄せた。違う、匂いだけじゃない。灰青色の目を鋭くして見つめるのは木々の向こう、先の見えない闇の中だ。
―――何かいる。
何かがこちらを見ている。視線の先には闇が広がるのみだというのに降谷はそう確信していた。じっとりと張り付くような視線を感じるのだ。
これは獣だろうか。タヌキか猪か、それとも熊か。一歩でも動けばすぐに襲いかかられそうな緊迫感があるのに、脳は今すぐ逃げろと警鐘を鳴らす。
はたして獣とはこんなにも粘っこい、背筋が凍るような気配を漂わせるものだろうか?
ありもしない恐怖心を無理矢理呼び覚ますような底冷えのする空気に、降谷は一歩、無意識に後ずさる。ザリ、と土を踏む音がやけに大きく聞こえた気がした。
その刹那、暗闇から何かが飛び出した。
「!」
それは木の枝のようにも、鋭く研がれた刀のようにも見えた。幾本も伸びたそれが凄まじい勢いで降谷へと迫り、咄嗟に屈んだ彼の頭上を通り過ぎる。
風を切る音と髪が数本持っていかれる感覚に戦慄く間もなく背後からドスドスと木を穿つ音が聞こえ、言葉もなく混乱する降谷に新たなそれが迫り来るのが見えた。体勢を崩したままの降谷にはそれが自身を貫く未来しか見えない。
死ぬのか。わけもわからないまま、わけもわからないこの場所で。
しかし次の瞬間、降谷を襲ったのは体を貫く痛みではなかった。何かに包まれる感触と花のような香りがした後、乱暴に地へ転がされて受け身すら取れず「うっ」と呻く。
「走って!そのまま!」
昏く淀んだ空気を引き裂いたのは少女の声だ。再び何かに突き飛ばされてもう一回転転がった降谷だったが、「立って!」と続く声に弾かれたように立ち上がる。一体なんだっていうんだ。
混乱する頭とは裏腹に、恐怖に縫いつけられて動かなかった足が嘘のように動く。転がるように駆け出した降谷は、仄かな月明かりを頼りに宛てもなくただ走った。
木の幹に腕をぶつけ、葉で頬が切れ、木の根や岩に躓きそうになっても、ただひたすらに。
***
そのままどれだけの時間走り続けただろうか。突然グイッと左手を引かれて降谷は体勢を崩した。
「うわっ」
「こっちです」
弾かれたように顔を向ければ、そこには暗がりに浮かぶ見知らぬ少女の横顔がある。その声が先程聞いたものと同じだと気付き、降谷は咄嗟に硬直させた腕から力を抜いた。
「あと少し…!」
少女が緊張の滲む声で言う。
しばらくすると唐突に開けた場所に出て、二人の姿が月明かりに照らされた。少女が足を止めるのに合わせて手が離される。
はあ、はあ、と膝に手をついて荒い息を吐く少女を見ながら、降谷も乱れた息を整えつつ額の汗を手の甲で拭った。
「……こ、ここまで来れば、大丈夫です……」
途切れ途切れに言いながら少女が後ろを振り返る。つられて振り返れば、並ぶ木の幹に古びた注連縄のようなものがぶら下がっているのがわかった。今にも千切れそうなそれには字の滲んだお札のようなものが何枚も貼り付けられていて、縄は左右何メートルにも渡って続いている。
「これは……?」
「あ、ええと……境界というか、縄張りというか」
「縄張り?」
「いや、違うかも……えっと」
少女は言葉を探すように「うーん」と唸ってから、やがて諦めたように溜息をついた。
「ごめんなさい、わかりやすい言葉が思いつかなくて」
「ああ、いや」
短く返しながら、降谷は辺りを見渡した。先程までの張り詰めた空気はすでになく、生温い風も異臭も嘘のように消え去っている。不気味な注連縄とお札以外は相変わらず木々が茂るのみだ。
「あ」
気付いた違和感に視線を落とせば、右手に握り締めていたはずの携帯電話がない。落としたのは“何か”を避けた時か、別の何かに情けなく転がされた時か、それとも無我夢中で走っている最中か。いずれにせよ探しに戻るという選択肢は欠片も浮かばなかった。
顔を上げれば、少女が心配そうにこちらを見ている。
「あー……携帯を落としたみたいで」
「携帯ですか」
少女の視線が注連縄へと向くが、その眉は困ったように垂れ下がっていた。
「いいんだ」
「でも……」
「命があるだけで十分だよ」
降谷の言葉に少女が目をぱちりと瞬かせる。絡んだ視線はこちらが気恥ずかしくなるほどに真っすぐだった。
「状況は全く理解できてないけど、どうやら僕は君に命を救われたらしい」
ありがとう。少女に向けてそう告げれば、眉尻を下げたまま照れ臭そうに笑うのが見えた。
歳は降谷より少し下だろうか。顔立ちは大人びているが笑顔は幼く、身長は同年代の女子に比べればやや高めか。服装はつい先程まで自室にいた降谷に負けず劣らずの軽装で、しかし降谷と違って手足には傷一つ見当たらなかった。
「あの」
つい癖で観察してしまった降谷だったが、遠慮がちな声にハッと我に返る。
「家まで近いので、とりあえず手当てをさせてもらえませんか」
「手当て?……ああ」
その言葉に改めて現状を自覚する。Tシャツにハーフパンツというラフな服装から覗く手足は擦り傷切り傷のオンパレードだし、視界が悪く何度か幹に打ち付けたので打撲もあるだろう。木の葉で頬が切れる感触も何度かあった。ついでにサンダルが脱げないよう力を入れっぱなしだった足先は見事に擦れ、皮が剥けたらしい指の股がジンジンと痛んでいる。
「お言葉に甘えて、お願いしようかな」
そもそも、ここがどこかもわからないのだ。携帯もない今、再び一人になるような危険は冒すまい。
降谷は「こっちです」と先導する少女に続いて、月明かりの届かない暗闇へと再び足を踏み入れた。
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