02. 嘯風弄月のいとまなし



 再び木々で明かりが遮られ、自分の体すら満足に見えない暗闇を降谷は進んだ。あちこちに張り出した木の根が歩を妨げ、足も痛む。しかし一人ではないという心強さがあった。

「いくつか質問してもいいかな」

 歩きながらそう問いかけると、前方から「はい」という声が返ってくる。目を凝らせばかろうじて少女の後ろ姿が見えた。ペースを合わせてくれているようで、歩きにくさに反して疲れはさほど感じない。

「さっきの“あれ”はなんなんだ?」
「あれ?」
「僕を襲ってきたやつ」

 暗闇の中、自身を刺し殺さんと襲い来る何か。それはほんの一瞬だったが、少年が死の恐怖を感じるには十分すぎるほどの出来事だった。
 降谷は言葉にしながら腕がぞわりと粟立つのを感じた。腐敗臭のような悪臭がまだ鼻の奥にこびりついているような気さえする。

「……ごめんなさい。それについては、どう答えたらいいのか私では判断ができなくて」

 そうか、と降谷は短く返す。
 「私では」と少女は言った。つまり彼女には指示を仰ぐ対象がいるということになる。そして自己判断で答えられないというだけで、先程の出来事についてはよく理解しているのだろう。つまり“あれ”の正体も。
 しかし食い下がったところで教えてもらえるわけではなさそうだ。そう考えた降谷は質問を変えた。

「じゃあ、ここはどこなんだ?」
「え?」
「ああ、聞き方が悪かったな」

 これじゃただの迷子みたいだ。降谷がポリポリと頭を掻くと、髪に引っかかっていた木の葉が腕を滑り落ちていった。

「僕は君と会う前、自宅にいたんだ」

 自宅のベランダにいたはずが、気付いたら森らしき場所にいたこと。現在位置を把握するより前に“あれ”に襲われたこと。順を追って説明しながら、降谷は我ながら非現実的すぎる話だと心の中で自嘲した。まるで素人が書いたファンタジー小説のように陳腐なシナリオだ。
 きっと馬鹿にされるか頭の心配をされる。そう思っていたのに、返っていた声色は意外なほどに落ち着いていた。

「それは神隠しとか、そういう類の現象でしょうか」

 いや逆かな、こっち目線だと神現し?そう呟きながら少女が小首を傾げるのが見える。
 神隠し。それは子供の行方不明を神の仕業とする概念だ。つまりオカルトで非科学的で、神のせいにすることで「どうにもならないこと」と自らを慰める主観的願望である。

「神隠し……」

 繰り返しながら、降谷はどうしたものかと眉根を寄せた。オカルトと呼ばれる現象の多くは科学的に説明がつくと降谷は思っているし、今は未知と呼ばれるものも今後必ず解明されるはずである。つまるところ、そういう話は全く信じていない上に興味もないのだ。
 しかし反論するまでもなく少女は続けた。

「ここは長野県です」
「……は?」
「この森は、この辺りでは「鎮守の森」と呼ばれています」

 具体的な住所は、と少女はご丁寧にも地区名まで教えてくれた。
 あんな恐ろしいものがいる森に鎮守とは不似合いな、ってそうじゃない。

「長野?」
「はい。自宅はどちらなんですか?」
「東京だけど……いや、そうじゃなく」

 東京から一瞬で長野の森とは某ピンク色のドアもびっくりである。しかも劇場版さながらに命の危機までついてくるとは。
 あまりの回答に「信じる」「信じない」の選択肢すら見失いかけるが、しかし混乱の中でも降谷は一点の違和感に気付いていた。彼女が言った市の名称、覚えのいい自分でも聞き覚えがない。しかしそれを一字変えれば諸伏の帰省先と同じ響きになるのだ。もしかしたらすぐ近くにあるのだろうか。
 疑問をそのまま少女にぶつけてみると、暗闇の中で彼女がまた首を傾げるのがわかった。

「県内にそんな市はないと思いますけど」

 その答えに降谷は沈黙した。




***




 森を抜けると、そこには見事な田園風景が広がっていた。
 街頭の弱々しい灯りより遥かに明るい月が、風にたなびく稲を群青色に照らしている。水はゆらゆらと控えめな輝きを放ち、煩わしいはずの蝉の声まで風景美を引き立てているようだった。時折頼りなく明滅するのはヘイケボタルだろうか。

「田舎でしょう」
「ああ……でも綺麗だ」

 痛みや疲れすら忘れそうなほどに、降谷はその光景に見入っていた。
 細い道を進めば、田畑に比べて圧倒的に少ない民家がぽつりぽつりと現れる。森の中にいる時は気付く余裕もなかったが、夜空に広がるのは東京では見たこともないほどに輝く無数の星々だ。そのすぐ下に聳える雄大な山陰も見事だった。

「あそこがうちです」

 その声に視線を戻すと、少女が指差す先に灰色の塀が見えた。奥に見える屋根の高さからいって平屋だろうか。
 近付く塀を何とはなしに見つめていた降谷だったが、不意にハッと息を呑んだ。同時に足も止まる。塀が途切れた場所、つまり家の真正面に何かがいる。敷地内からこちらを窺うように見つめている。

「あれは、」

 グロテスクで悍ましいその容貌は、いわゆる“人間”からは遠くかけ離れている。背筋に走った悪寒は森の中で感じたそれと同じだ。
 しかし完全に立ち竦んだ降谷を尻目に、少女はスタスタと歩を進める。降谷が「おい」と呼びかけるのとほぼ同時、歩みを止めた彼女が振りかぶった。

「え?」

 まるで野球のボールでも投げるかのように振りかぶって―――投げた。少女の手から放たれた粒状の何かは、散弾銃のように"それ"の体を穿つ。着弾の衝撃とともにそれがぶるぶると揺れ、そしていくつも空いたその穴から青白い光がこぼれ出した。

「花……?」

 降谷はその光景から目が離せなかった。グロテスクな肢体からは青白く発光した花のようなものが無数に咲き、その花々が大きくなるのに反比例してそれがみすぼらしく萎んでいくのだ。
 そしてその花が蓮だと気付いたところで、美しく咲き誇った蓮の花もまた急速に萎み、塵のように崩れていった。あっという間に全てが塵と化して風に吹き飛ばされていく様を、降谷はただ呆然と見つめるほかなかった。

「やっぱり見えてるんですね」

 少女はそんな降谷をじっと見つめる。

「今の、低級だから襲ってはこないんですけど。……まいっか、とりあえず上がってください」

 何事もなかったかのように促しながら、少女は降谷を家へと招き入れた。




***




 頬の内側にピリッと鋭い痛みが走り、降谷は思わず眉根を寄せた。森の中で転がされた時に歯でも当たったのだろう。
 一瞬息を詰めてから手に持ったお椀を再び傾ければ、口の中に味噌と出汁の風味が柔らかく広がった。
 そのまま一口、二口と味わってからお椀を置き、ふう、と長めの息を吐く。文字通り一息つくというやつだ。温かいものを口に入れて、張り詰めていた精神がほんの少しだけ緩んだ気がする。

 畳に直置きされたローテーブルの上には温められたパックのご飯と個包装のふりかけ、そして汁椀に入った味噌汁と箸がある。
 時刻はすでに深夜。夕食は自宅で済ませていたが、心身ともに疲弊した身としては大変ありがたい。味噌汁は先程少女がご丁寧にも「フリーズドライのしかないですけど」と断りを入れた茄子入りのもので、奇遇にも夕食に降谷が食べたそれと同じ味がした。

 続いて手を伸ばしたのはふりかけだ。よくある定番のふりかけだが、降谷の知る商品名とはやはり一文字だけ違うようだった。それをなんともいえない気持ちで開封してご飯にかけ、箸で口に運びながら視線を前に向ける。

「……はい、はい。え?」

 降谷の向かい側で行儀よく正座した少女は、耳元に当てた携帯電話に向けて聞き返した。

「あ、はい。一応説明しました。とりあえず先生がいいって言ったところまで」

 少女の視線がちらりと窺うように降谷を捉える。すると目が合うとは思っていなかったのか、その視線はすぐにまた外されてしまった。携帯を持っていない方の手がテーブルの上で所在なげにさまよい、傷一つない指先がテーブルの木目をそっとなぞった。

「はい、はい……うーん、どうなんでしょう」

 視線は木目を辿るように動きながら、困ったようにぱちぱちと数度瞬く。和紙の電気傘を通した優しい灯りが、彼女の長いまつ毛に影を落としていた。

 少女の名は苗字名前。現在中学三年生で、高校二年生である降谷から見れば二つ年下だ。
 祖父母も両親もすでに亡く、広い家に一人暮らし。後見人は母方の叔父だが、叔父一家は東京にいて普段から交流はないらしい。降谷も事情があって一人暮らしだが、それを告げた時に「同じですね」と頬を緩めたのは記憶に新しい。

 降谷はふりかけご飯と味噌汁を交互に口に運びながら、ふと箸を持つ右手に視線を走らせた。指先は絆創膏が貼られ手首には仰々しく包帯が巻いてあり、左手も同様の状態である。座布団に正座する足もガーゼや包帯だらけで我ながら痛々しいし、味噌汁の香りに混ざって微かに漂うのは湿布特有のツンとした匂いだ。

(呪い……)

 ゆっくりと咀嚼しながら、降谷は確かめるように反芻した。
 呪い。それは人が自らの願望を叶えるため、特に他人への不利益をもたらすために悪意をもって行う霊的な行為であると降谷は認識していた。しかし名前曰く呪いとはそもそも人の肉体から抜け出した負の感情であり、いわばストレスのようなものらしい。そしてそれは時として形を成し、呪霊となって人を襲うのだと名前は言った。それに対処すべく存在するのが呪術師と呼ばれる人々で、名前は呪術師になるため来年度から東京の高専で学ぶのだとも。
 にわかには信じがたいが、にわかには信じがたい体験をした当事者もまた自分である。

「残穢ですか?」

 “ざんえ”
 耳馴染みのない単語に顔を上げれば、真正面から名前と視線がかち合う。今度は逸らすことなくまっすぐ見つめてくる目に、降谷は居心地の悪さを覚えながら口の中のものを飲み込んだ。
 名前は目を凝らすようにその目を細めると、降谷の頭のてっぺんにまで視線を滑らせ、かと思えば肩や手、ついには体勢を変えてテーブル越しの下半身まで覗き込んできた。降谷がぎょっとするのも構わず立ち上がり、背後に回り込んでさらに眺める。

「……ないと思いますけど」

 はい、はい、と相槌を打ちながら名前が降谷の周りをうろうろ歩く。見定めるような視線を感じながら、降谷の食事の手はすっかり止まってしまっていた。

「えー、先生にわからないなら私にもわからないですよ」

 困惑の色を隠さずそう言った名前が、ようやく降谷から視線を外す。彼女はそのまま部屋の引き戸に向かうと、「それで相談なんですけど」と話しながら出て行ってしまった。今のは一体なんだったんだ。詰めていた息を吐き出して、降谷は少し冷めた味噌汁を口に運んだ。

 出て行った名前が戻ってきたのは、降谷が食事を終えたのとほぼ同時だった。パタパタと小走りの足音が聞こえたと思えばすぐに引き戸が開く。

「降谷さん、とりあえず今日はもう遅いので寝てください。着替えは……ちょっと古いけど父親のやつ出してくるので」

 ひょこっと顔を出した名前がそう言うと、降谷は思わず「待ってくれ」と腰を浮かせた。

「ここに泊まれって?」
「はい」
「いや、僕は助かるけど……苗字さんはそれでいいのか」

 いくら非常事態とはいえ、お互いに思春期の少年少女である。保護者となりうる大人もいない。抵抗はないのだろうかと名前の顔色を窺うが、当の本人はきょとんとした表情で目を瞬かせた。

「え、他に行くところあるんですか?」
「……」

 ぐうの音も出ない問いに、降谷は再び沈黙した。


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