11. 水芙蓉はかくも優しく
「へえ、高専の」
「うん、そう。ビックリしたー」
にやける顔を誤魔化すようにストローをぐりぐりと回しながら、名前は突然出会ったという男の話をした。こうも嬉しそうに話すのだから決して悪い出会い方ではなかったのだろう。降谷も自然と頬が緩む。
そんな彼女が飲んでいるのは抹茶あずき白玉黒蜜フラペチーノ、ホイップ・抹茶パウダー増し。もはや何が何やらという感じだが、飲みながら何度か勧められたので味は美味しいらしい。だが断る。
お返しにコーヒーを勧めてみればブラックだから飲めないと断られた。
「甘いもの好きなんだな」
「ん。特にあんこ」
初めて聞いた。機会があればお菓子作りに挑戦してみるのもいいかもしれない。家主を喜ばせるのも居候の役目だ。
と、和やかな空気も一時間ともたなかった。
「……あの、零くん」
名前の声が暗く沈んでいる。
「上手く言えないんだけど……えっと、元気出してね?」
顔色を窺うように見上げてくるその顔は、力なく垂れ下がった眉に同情の滲む瞳がなんとも弱々しい。
二人の視線の先にあるのは高校だ。それも中高一貫の私立校で、伝統を感じさせる格式高い佇まいがいかにも名門然としている。
降谷と諸伏が通っていたのは公立高校なので、端的に言えばハズレだ。区名も地名も似ているし番地に至っては全く同じだが、まあハズレだ。もちろん降谷にしてみれば想定内だが、名前の情けない表情を見ていると悪戯心が疼く。
「ああ、残念だな」
「うん……」
「こうなると手がかりを探すということ自体無謀なのかもしれない」
「そ、そんなことないよ」
「潔く諦めた方がいいのかな……」
わかりやすく落ち込んでみせると、名前がにわかに慌て出した。
「えと、ほら!呪いや神隠しとは別の超常的な何かによるものかもしれないし」
「世の中そんなに不可思議なものがいくつもあるとは思いたくないな」
「えっ、可能性はあると思う、けど……。それか場所は関係なくて、行動とか持ち物とかに条件付けがあったり?」
「部屋のベランダで涼むのも、携帯いじるのもいつも通りの行動だったけど」
「んん゛っ、じゃあ原因はわからないとして、あとはえーと……あっ! 突然こっちに来たんだし、帰る時も突然なのかも!」
どうだ希望が見えてきただろと言わんばかりのドヤ顔である。降谷を諦めさせまいと必死な姿に、落ち込んだフリも忘れてふっと笑みがこぼれた。
「零くん?」
「ああ、いや。それなら心の準備ができなくて大変だと思って」
適当な返しだったが、名前は大真面目に「それは確かに」と頷いた。
***
名前の携帯で調べたり駅の路線図を見たりしながら気になるところを回り、合間にちょっとした観光気分も味わいながら、最後に二人がやってきたのは東京タワーの展望台だった。空は夕焼けに赤く染まり、ビルの隙間から燃えるような光がこぼれて降谷は目を細める。
夏休みということもあり、平日の夕方にもかかわらず人出は多い。名前も一般の観光客に混ざってガラス越しの街並みに目を輝かせている。降谷はなんとなく、茜色に染まったその横顔を見つめた。
諦めた方がいいのかもと名前に言ったのはもちろん冗談だ。しかしそれでも、今日一日過ごした中で思うことは色々とある。
見たことも聞いたこともないのに当たり前のように存在する山手線。一方で影も形もない東都環状線。東京タワーに東都タワー。駅名や地名も知らないものばかりなのに、その響きも眺めも自分が知るものとよく似ていて。
(……本当に違う日本なんだな)
この世界に自分が帰る場所は存在しない。その確信ばかり強くなるというのに、悲観せずにいられるのはきっと。
「零くん」
ガラスに張り付いていた名前が駆け寄ってくる。
「世界って、広いね」
「え? ああ、そうだな」
「人もたくさんいて、私が知らないこともたくさんある。だからまだやれることはあるよ、きっと」
今前を向いていられるのは、こうして自分を助けようと必死になってくれる存在がいるからだ。拳を握り締める姿が勇ましくも微笑ましくて、胸の辺りがほわりと温かくなる。
「だな。ありがとう」
その頭を撫でようと手を伸ばして、すんでのところで止めた。
「零くん?」
「あ……いや」
そしてその手を何事もなかったかのように引っ込める。危ない。妹だなんだと言い聞かせていたせいか、思わず普通に撫でそうになった。全く、距離感がおかしいのはどっちだ。くそ。
***
背後で自動ドアが閉まり、騒がしいBGMがぷつりと途切れる。空はすっかり真っ暗だが、さすが東京というべきか街並みは明るい。
東京タワーを下りた二人は、夜行バスの発車まで時間があるということを理由に寄り道に夢中だった。訂正。夢中だったのは名前だ。
ふふっと上機嫌に笑う彼女の携帯には、ジャラジャラとチャームやストラップがぶら下がっている。ストラップホールの限界に挑戦しているのかと思うほどの量だ。
手先が器用なのか、ゲームセンターは初めてだと言うわりにクレーンゲームのコツをすぐに掴み、最終的には入れ食い状態だった名前。降谷にも軍資金をくれたが、欲しいものがなかったので結局彼女の大量獲得に加担する形になってしまった。
名前の財布には二人で撮ったプリクラのシートが入っているし、携帯の電池パックのフタ裏には猫耳の落書きが施された二人が貼り付けられている。そこに貼るのカップルみたいだからやめとけ、とツッコんでもよかったが、名前があんまり嬉しそうなので放っておいた。
「楽しかった〜」
「それはよかった。バスの時間は?」
「まだ余裕……でもなかった。わりとギリギリ」
携帯で時間を確認した名前が真顔になる。そして歩くスピードがぐんと増したので、降谷もそれについていく。
「遊びすぎたぁ」
「だろうな。油断しすぎだ」
面目ない、と苦笑する名前越しに、カラオケの看板にへばりつく異形の姿が見えて小さく肩が跳ねた。つられて名前も振り向くが、祓う必要のない低級呪霊なのかすぐにまた前を向く。
実は東京に来てからすでに両手では数え切れないほどの呪霊を目撃しているのだが、どれも人を襲う様子はなくただそこに存在するだけ。たまにエコーがかかったような不気味な声を発している個体もいるが、それだけだ。
これだけ当たり前のように存在されては、呪いが身近な存在であることを否応なしに実感させられてしまう。それに時折それらに視線を向けている人もいて、“見える”ということが決して珍しくないのだということも知った。どれもこれまでの“見えない”人生では知り得なかったことだ。
「やっぱり人が多いから、多いね」
「ああ……まだ見慣れないよ」
「ふふ、気持ち悪いもんねぇ」
可笑しそうに笑う名前に同意しようとした、刹那。全身に凍てつくような寒気が走って、降谷は足を止めた。同じく立ち止まった名前がこちらを見ている。―――正しくは、降谷の後ろを。
息を呑んで振り向けば、そこは高いビルに挟まれた路地だった。二人並んで歩けるかどうかという細い空間にはエアコンの室外機や配管が無数にせり出していて、通りの明かりが届かず不気味な雰囲気が漂っている。よくある、普通の路地だ。
そこに人の体の一部さえ浮いていなければ。
浮いているのは男の顔半分と腕が一本。男の表情は恐怖に歪んでいて、腕をこちらに伸ばして唇を震わせた。
「… た、 すけ て、」
助けて。その言葉を降谷が認識すると同時に風が走り抜ける。名前だ。
名前は瞬時にその腕を掴むと、後ろに振り返りながら体の捻りを利用してそれを引っ張った。ずるり、とまるで空間から引き抜かれるようにして男の全身が現れる。そのまま遠心力によってすっ飛んできた男を降谷が危なげなく抱き留めた。
「名前!」
男を抜き去ったのと引き換えに、慣性によって前方に投げ出された名前が空間に飲み込まれていく。名前の体がじわじわ消えていくようにしか見えず降谷は焦った。と、名前が何かをこちらに放り投げる。ジャラッと耳障りな音を立てて降谷の手に収まったのは彼女の携帯だ。
ハッとして顔を上げるが、次に目にしたのはどぷんと音を立てて名前が消える瞬間だった。
「え……?」
訪れる静寂に、一瞬頭が真っ白になる。今、一体何が起こった?
不意に呻き声が聞こえ、降谷はそこで男の存在を思い出した。五体満足だ。生きてる。しかし太もも辺りから出血しているようで、男はそこを押さえながら荒い息を吐いていた。
(……なんだ、これ)
破れた衣服から見える傷口には小さな目のようなものが無数にあり、それぞれにまばたきをしながらこちらを見ていた。これも呪いによるものなのだろうか。
ざわつく周囲に降谷が顔を上げれば、野次馬が集まってきて二人の様子を窺っていた。さすがに怪我人がいれば目立つか。
「どなたか警察と救急に通報をお願いします!」
鋭く叫ぶと、何人かが慌てて携帯を取り出した。それを見て降谷も名前の携帯に目線を落とす。発信するのはリダイヤルの一番上にある番号だ。
男を地面に寝かせてコール音に耳を傾ければ、聞き覚えのある低い声がそれに応えた。
『もしもし。どうした』
「僕です、降谷です」
降谷の緊迫した声色に異常事態を悟ったのだろう、相手の雰囲気が変わる。降谷は努めて端的に状況を説明した。名前が消えたこと、怪我人がいること、それから男の傷口の様子も。説明が終わると数秒の沈黙が走り、電話の向こうで大きく息を吸う気配がした。嫌な予感がする。
『―――ガァッッッデム!!!』
咄嗟に耳から携帯を離したが、鼓膜がビリビリと震えてしばらく痛んだ。
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