10. 炎天下に烟る



 夜明け前、東の空がうっすら色づき始める東雲の頃。朝涼みもそこそこに行動を開始した降谷と名前は、東京行きの高速バスに乗り込んだ。
 発車後間もなく窓の向こうで空が白み始め、水墨画のように美しい白白明けが一日の始まりを告げている。

「景色見るなら席替わる?」

 窓際に座った名前が小声で話しかけてくる。彼女は景色になど興味のかけらもないようで、バスが動き出してすぐに携帯電話を取り出していた。

「いや、いい。それより携帯いじってると車酔いするぞ」
「大丈夫大丈夫。眠くないし、三時間も座りっぱなしなんて暇で」

 バスでの遠出も小学生以来らしいのに、なんとも楽観的である。
 今回は日帰りということで荷物も少なく、二人とも身軽だ。そんな中、彼女は携帯用のポータブル充電器を真っ先にバッグに突っ込んだのだから道中は携帯をいじり倒すと決めていたのだろう。
 時間経過とともに少しずつ乗客が増え、やがて満席になる。あちらこちらから話し声が聞こえて程よく賑やかになった頃、名前が「うっ」と呻き声を上げた。

「きもちわるい……」

 だから言わんこっちゃない。立てたフラグをしっかり回収するあたり、ある意味律儀だ。

「サービスエリアに着いたら休憩できるから。それまで座席を倒して景色でも眺めてればいい」

 そう言えば名前はふるふると力なく首を振った。

「後ろ、人いるから」

 どうやらリクライニングせずに我慢するらしい。やはり律儀だが、完全な自業自得なので降谷は呆れ顔でそれを見守った。
 結局サービスエリアで新鮮な空気をめいっぱい吸うまで、名前は窓枠にもたれかかりながらうーうー唸る羽目になったのである。




***




「うわー、あっつ」

 出発からおよそ三時間後。新宿でバスを降りた名前の第一声はそれだった。

「朝なのにムシムシするね」
「長野に比べたら湿度も不快指数も格段に高いからな」

 うわぁ、と嫌そうな表情を浮かべながら、名前が黒いキャップを目深にかぶる。都内に住むという叔父一家対策だ。
 降谷もまたデイバッグから同じデザインのキャップを取り出した。

「あれ? 零くんも?」
「……まあ、日差しも強いし」

 そう言いながら名前と同じくらい目深にかぶれば、それだけが理由じゃないということが彼女にもわかったらしい。名前は嬉しそうに目を細めた。

「ふふ、おそろいだね」
「同じ店で買ったからな」

 我ながら素直じゃない返事だ。でもわざわざ「付き合うよ」なんて言うのもキザっぽくて柄じゃない。

「今日のプラン、まずはマンションの方からだったな」
「うん。とりあえず山手線でいいと思う」

 話しながらバスターミナルを出れば、名前が溜息混じりに空を仰いだ。

「これが東京かぁ」

 すごいね、という呟きには驚きと感嘆が詰まっている。
 駅のコンコースを歩けば人の多さに目を丸くし、自動改札を見れば「これが…!」と感動を露わにする。その「ザ・おのぼりさん」ぶりにむしろ降谷の方が感動しそうだ。こんなの漫画でしか見ないだろ。

 しかしそれも長くは続かなかった。

「うぅ……」

 青ざめた顔で口元を押さえ、俯く名前。混みあう電車内では二人とも吊革を掴むことは叶わず、車両中央辺りで足を踏ん張って揺れに耐えていた。
 時間を有効に使うために始発のバスで来たのはいいが、着いてからの電車移動が完全に通勤ラッシュに重なってしまった。もちろんそれは予想済みだが、名前が人酔いするとまでは想定していなかった。

「大丈夫か?踏ん張ってるのもきついだろ。服掴んでていいから」

 密着した状態で、頭一つ分低いところにある名前のつむじに向かって話しかける。しかし名前は力なく首を振った。

「においが……」

 どうやら人というより匂いに酔ったらしい。よく見ると手で鼻までしっかり覆っている。
 確かにきついよな、と降谷は心の中で同意した。名前の後ろにいる派手めの集団からは香水や制汗剤の入り混じった強い匂いが漂ってきていて、降谷でも正直キツいレベルだ。
 バスでも電車でも酔って災難だな、と、鼻を覆うために手を離せないでいる名前に内心同情した。

 と、名前が何かに気付いたように「あ」と顔を上げた。

「どう、……!?」

 最後まで言葉にならず、降谷は思わず体を硬直させる。

「……あー、落ち着く」

 名前の声が先程より近くから聞こえる。掴まないつもりだったはずの服もがっしりと掴まれている。背伸びしたのだろうか、降谷の肩口に顔をうずめた名前は「いつもの匂い」と安心したように呟いた。
 シャンプーにコンディショナー、ボディーソープに柔軟剤。全て同じものを使っているのだから嗅ぎ慣れた匂いがするのは当然である。が、問題は距離感だ。

(こいつ、本当に……!)

 熱を額で測った時といい、人との適切な距離感を叩き込んでやりたいとは常々思っていた。「異性」を辞書で引いて読み聞かせてやろうか。ここが通勤ラッシュの電車内でなければその頭鷲掴みにして引っぺがしてやるのに。
 同じ匂いのはずなのに、術式のせいか彼女のそれには花のような香りが微かに混ざる。それがまた落ち着かなくて降谷は奥歯を噛み締めた。健全な男子高校生にとってこれは拷問でしかない。

 ―――落ち着け、落ち着くんだ降谷零。相手は年下、たった二歳差とはいえまだ中学生だ。これはもう逆に異性とは思わない方がいい。ペット……はさすがに失礼すぎるが妹、そう、手のかかる妹分とでも思えばまだしっくりくるかもしれない。全身に力を入れて呼吸を浅くしろ。心を無にして耐えろ。心を無に、心を無に―――

 目的の駅に着く頃には、タフなはずの降谷の体力は底を尽きかけていたという。




***




「マンション……じゃないな」
「マンションじゃないね」
「雑居ビルだな」
「雑居ビルだね」

 二人が見上げるのは年季の入った雑居ビルで、テナント名には見たこともない企業名が並ぶ。いくら拡大解釈したところで、男子高校生が一人暮らしできるような単身者用マンションには見えそうになかった。
 区名も地区名も少しずつ違うとはいえ、番地や周辺環境まで含めて考えればこの場所が怪しいと思ったのだが。

「ハズレかぁ……」

 隣を見ると、名前はすっかり意気消沈した様子で肩を落としていた。降谷にしてみればこれも想定内なのだが。

「まあでも、まだ時間はあるし。ね」

 眉尻を下げたまま励ましてくる名前に、「ああ」と頷きながらも思わず笑いそうになる。他人のことでそこまで落ち込めるなんてどれだけお人好しなんだ。
 「一応参考までに」と言いながら、名前が携帯で雑居ビルの写真を撮る。周囲が映り込むよう何回かに分けて撮影した後、ふとそのカメラを降谷に向けた。
 カシャ、と電子的なシャッター音が鳴り、写真を撮られた降谷が眉を顰める。

「何してるんだ」
「へへ」

 悪戯っぽく笑う名前に降谷が一歩距離を詰めた。

「僕にも貸してくれないか」
「え? うん」

 差し出した手に、名前が素直に携帯を置く。降谷は携帯のカメラを起動して即座にインカメラに切り替えた。そして携帯を持つのとは逆の手で名前の肩をグッと引き寄せると、その手で彼女の両頬をむぎゅっと潰す。

「んぶ」
「はい、チーズ」

 携帯を斜め上に構えれば、にゅっと唇を突き出した間抜けな姿の名前と降谷が画角に収まる。間髪入れず響いたカシャッというシャッター音を確認してから降谷は名前を解放した。

「……ははっ、間抜け面」

 画面に映るのはおそろいのキャップを目深にかぶった二人の姿だ。目元はキャップのツバで少し隠れてしまっているが、名前の口元にはしっかりピントが合っていて笑いを誘う。

「え、なに。ただの鬼畜じゃん」
「なんとでも言え。あー、携帯があったらこれ待ち受けにするのに」
「正気?」
「毎日笑って過ごせそうだ」
「人の心をどこに忘れてきたの?」

 これ消すなよ、と念を押すと、脇腹に抗議のパンチがねじ込まれる。しかし残念ながらその程度では鍛えた腹斜筋はびくともしなかった。

「暴力反対」
「せめてダメージ受けてから言って」




***




「あのお店、美味しかったね!」
「ああ。盛り付けも綺麗だった」

 お腹いっぱいだ〜、と腹をさすりながら上機嫌な名前。マンション探しがハズレで落ち込んでいた姿はどこへやら。
 高校探しは午後に回して、ネットで評価が高かったカフェで早めの昼食を済ませてきたところだ。ガレットだのクレープだの、片っ端から注文したのだからそりゃ満腹だろう。

「暑さもちょっと慣れてきた」
「それは何より」

 なるべく日陰を歩くが暑いのには変わりなく、さっさと駅に入りたいと早足で進む。むしろ名前の方がさっさと歩いていってしまうので歩幅を合わせる必要はなさそうだ。

「あ!あのお店テレビで見たことある」
「入るか?」
「ん、んんー、ううん、我慢する」
「時間ならまだ余裕あるぞ」

 言外に気を遣わなくていいと言えば、名前は目を瞬かせてからにっこり笑った。

「いいのいいの、高専に入ってからでもチャンスはあるし。今日は情報集めに専念!」

 そう言ってまた身を翻す。見るだけでも十分楽しいようで、目を輝かせて辺りをキョロキョロと見回す姿は普通の女の子だ。黙っていれば大人びて見える容姿だが、動いている姿は年齢相応の幼さがある。

(こうしてると、本当に普通の女の子だ)

 学校に行かず近所付き合いもなく、あまつさえ村八分のような扱いを受けているならもっと内向的な性格になっていても不思議じゃないのに。こうもお人好しで明るくいられるのは夜蛾との関係性によるものか、それとも彼女が好む各種メディアから学んだものか。

 ふと、視界の端に蹲る人影が見えた気がして降谷は足を止めた。
 どうやら高齢の女性のようで、電柱の脇に不自然にしゃがみ込んでいる。服装はパジャマのように見えるし足には何も履いていない。通行人は気付いているのかいないのか、誰も気に留める様子はなかった。

「こんにちは。どうされました?」

 見過ごせず話しかけると、気付いた名前が急ぎ足で戻ってくる。
 女性はぼんやりと降谷を見上げるが回答はなく、おそらく認知症か何かで家族に気付かれず家を出てきてしまったのだろうとアタリをつける。

「零くん、この人は?」
「たぶんご家族の方が探してる。さっき交番があったな。僕はこの人を交番に連れてくから、名前はそこのコンビニで待っててくれ」

 そう言えば名前は「わかった」と神妙な面持ちで頷いた。女性の背に手をやって促すと、特に抵抗もなく立ち上がる。そのまま今来た道を交番に向かってゆっくりと戻った。



 一方、二人を見送った名前は近くのコンビニに入ろうと踵を返す。しかしその時、小学生くらいの男子二人組の存在に気が付いた。夏休みだからか背中にランドセルはなく、楽しげに喋りながら歩いている。
 そこは問題ないのだが、名前が気になったのはそのうちの一人が縁石の上を歩いているところだ。車通りは少なくないし、危ない気がしてつい目で追ってしまう。そこで「危ないよ」と声を掛けられないくらいには、小学生男子という存在が苦手な名前である。

(ほらトラック来てるし、ハラハラするー)

 二人がいるのは名前の進行方向なので、とりあえずコンビニまではとこっそり見守りつつ距離をとって歩く。そして何かあった時のために歩道と車道の間に生えている雑草の存在を確認する。木花操術、雑草、みな友達。
 と、大型トラックが通り過ぎた際の風に煽られたのか、縁石を歩く少年が体勢を崩した。

(あっほら! もう!)

 言わんこっちゃない、と言ってもいないのに思いつつ、名前は足裏から呪力を流し込んだ。
 狙い通りの場所から勢いよく伸びた雑草が少年の体に巻き付き、まるで意思を持つかのように歩道に引き戻す。それを確認してから呪力供給を絶てば、瞬時に朽ちたそれが灰のように風で舞い飛んだ。これで証拠隠滅もバッチリである。

(よかった……上手くいった)

 何が起こったのかわからない、という表情の少年を盗み見ながら、名前はホッと胸を撫で下ろした。
 少年が事故に遭わなかったことはもちろんだが、自分の術式で傷つけずに済んだことにもだいぶホッとしている。そんな風に気を抜いていたからか、目の前に人が立ったことにも気付かなかった。

「今のすごいですね!」

 大きな声にえっと顔を上げるのとほぼ同時、ガッと勢いよく両手を握られる。

「あっ、えっ、え?」
「カッコよかったです!」

 そう言って感激したように目を輝かせるのは見知らぬ男だ。歳は名前と同じくらいだろうか。ブンブンと両手を上下に振られ、圧強めの強制握手に疑問符がいくつも飛んだ。

「呪術高専の人ですか!?」

 その言葉にハッとする。そして目の前の男から呪力を感じることに気が付いた。高専の名が出るということは呪術師だろうか。きっと一部始終、名前が呪力を籠めるところも見えていたのだろう。

「あ、いえ、あの……春から入学で」

 そう答えると男の目がいっそう輝いた。

「そうなんだ!僕もだから同級生だね!」
「えっ」
「僕は灰原雄。よろしく!」

 流れるような自己紹介に目を丸くしつつ、名前は春から同級生になるという男を見つめた。キリッとした眉に大きな目。なんとも爽やかな笑顔を浮かべていて、あと声がデカい。

「苗字、名前……です」
「名前ちゃんね!あっしまった、妹を待たせてるんだ。じゃあまた春にー!!」
「え」

 ビシッと手を挙げながら、灰原はあっさりと走り去った。まるで台風だ。名前は両手を掴まれていた時の体勢のまましばし固まっていた。
 そして結局コンビニに入る間もなく降谷が戻ったので、「なんだその体勢」と不審者でも見るかのような視線を向けられることになったのは納得がいかなかった。


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