13. 雨過天晴のひととき



「お茶のおかわりは?」
「いる〜」
「器重くないか」
「もう痛くないし大丈夫だよ」

 戦闘で腕が取れかけたら同居人が過保護になりました。

 これラノベのタイトルにできそう。ぼんやり現実逃避しながら名前が齧るのは、スティック状に切られた生のままのセロリだ。

「あ、これ美味しい」
「え?」
「これが一番食べやすいかも。みずみずしくて美味しい」

 味噌マヨをつけて食べたセロリは思ったほどクセを感じず、普通に食べられそうだった。もしゃもしゃとウサギのようにセロリを頬張る名前を、対面に座った降谷が呆然と見つめている。

「え、どしたの? デッサン狂ってるよ。おもしろ」

 何やらめちゃくちゃショックを受けているし、携帯のシャッター音にも反応がない。そんな顔も男前とはこれいかに。

「一番、食べやすい……?」
「うん」
「スープより?」
「うん」
「きんぴらより?」
「うん」

 そんな世界の終わりのような顔をしなくても。

「……くそ、絶対に料理で美味しいって言わせてやるからな」
「だからセロリから離れてってば」

 過保護にはなったが、なぜかこの要望だけは頑として聞いてくれないのだ。解せぬ。あとスープもきんぴらも美味しくないなんて言ってない。
 完食して食器を片付けようとしても、「僕がやるから」とそれを奪われそうになった。大丈夫だと辞退したが、どうやら腕がくっついたのを目の当たりにしても未だに信じ切れない気持ちがあるらしく。

 二人並んで台所に食器を運んだところで、二の腕にチクリと小さな痛みが走る。

「痛っ」
「! 痛むのか!?」
「わ、」

 ガバッと両肩を掴まれる。食器を置いた後でよかった。直後、プ〜ンと嫌な音を立てて飛び去る黒いものが見えた。どう見ても蚊。

「あ……刺された、みたい?」

 なぜか申し訳なくなって降谷の様子を窺うと、彼はハァ、と大きめの溜息を吐いて脱力した。

「悪い。治ったのはわかってるんだけど、あの光景が頭から離れなくて……」
「……その節はご心配をおかけしました?」
「本当にな」

 手を放して項垂れた降谷の髪がさらりと揺れる。その金髪をよしよしと撫でてみれば降谷の動きが一瞬ピシリと固まった。が、やめろとは言われないので続行する。
 ひとしきりその柔らかさと指通りを楽しんで手を放すと、降谷もようやく顔を上げた。あれ、目が据わってる。

「……君な、いい加減に……」
「え?」
「……」

 きょとんと目を瞬かせる名前を見て何を思ったか、降谷は続きを言うことなく溜息混じりに皿を洗い始めた。頭を撫でられるのがそんなに嫌だったのだろうか。いや拒否せずしっかり撫でられといてそれはないのでは。
 頭を捻ってもわかりそうにないので、名前はとりあえず虫の居所でも悪かったのだと思うことにした。蚊だけにね。ムヒ塗ろ。




***




「零くん、お風呂どうぞー」
「ああ、ありがとう」

 夜、濡れた髪をタオルで拭きながら居間のテレビをつける。これまで自室で過ごす時間の方が長かった降谷だが、どんな心境の変化か、東京から帰ってからは居間で名前と過ごすことが増えた。
 さっきも解き終わった数独本の山を「全部埋めたぞ」とドヤ顔で渡されたばかりだが、今度はレシピ本を何冊も並べては何やら見比べている。うわ、材料欄にセロリ発見。

「ちゃんと乾かせよ」
「ん?」
「髪」
「んー」

 そうだねぇ、と適当に返しながらリモコン片手にザッピングする。バラエティもドラマもめぼしいものはなさそうだ。録り溜めた過去ドラマでも消化しようか。それか先日届いたDVDを観るのでもいい。
 そんなことを考えていると、不意に降谷が後ろに座った。

「え、なに」
「前向いてろ」

 どうやら脱衣所からドライヤーを持ってきたらしい。タオルを外された髪に温風が当たる。

「自分でやるよ」
「いいから。風邪でもひいたらどうするんだ」

 わしゃわしゃ髪を掻き回されて、その強さに頭がぐらぐら揺れた。思ったよりガサツ。

「これぐらい大丈夫だって」
「油断は禁物だ。僕は看病なんてごめんだからな」
「零くんの看病、結構楽しかったのに」
「それは早急に忘れろ」
「えー、写真撮っとけばよかっいたた!いたたた!」

 さらに力が強くなり、頭がぐりんぐりんと大きく揺れた。首から持っていかれそうである。これ乾かす気ある?
 名前がやめろ天与呪縛〜フィジカルギフテッド〜と口先で抵抗していると、気になったのか「なんだそれ」とぐりぐりが止まる。知識に貪欲。ちなみに普通に冗談なので本気にしないでほしいところです。

「いたた……腕が無事でも首もげたら死んじゃうんだからね」

 首をさすりながら言うが黙殺された。風邪をひいた日の話は名前が平和に生きるためにも二度と口にしない方がよさそうだ。

「そういえば零くん、映画とか好き?」

 ようやく優しくなった手つきに身を任せながら聞くと、ドライヤーの騒音に混ざって「映画? 好きだけど」と返ってきた。

「この前DVD買ったの。アカデミー作品賞獲ったやつ」
「アカデミー? マカデミーじゃなくて?」
「マ?」

 マジ?のマ?じゃなく。
 聞けば、降谷がいたところではアカデミー賞ではなくマカデミー賞というそうだ。マカデミーの由来ってなんだろう。オスカー像はモスカー像?

「作品賞か。見てみたいな」
「社会派本格アクションハートフルラブロマンスだって」
「なんだそりゃ」

 わかる。カオスだよね。そう頷いた名前だったが、ふと視界の端に動くものが見えた気がして顔を上げた。

「? あ……っ!?」
「おい、動くなって」
「無理無理! やだ! 無理!」

 ガタガタッとローテーブルにぶつかりながら立ち上がった名前を、降谷が座らせようと咄嗟に腕を掴む。が、名前は頑なに座らない。それどころか居間を出ていこうと力ずくで後ずさりし始めた。

「おい、何が―――」

 降谷が問うより早く、名前がバッと勢いよく人差し指を突き出す。その指と視線が向く先は居間の壁、天井にほど近い位置だ。
 まさか家の中に呪霊が? と降谷も緊張に息を詰めてその方向を見るが、そこにいたのは全長3cm程度の黒い塊で。

「なんだ。ただのゴ」
「わーーーッ!!」

 半乾きの髪を振り乱しながら名前がいやいやする。その名前は決して口にしてはいけない。名前を言ってはいけないあの人、ならぬ虫なのだ。

「……そんな怯えることか?」
「だって実物見たことないもん! なんでうちにいるの!? やだ!」
「東京に住めば普通に見かけるぞ。朝方の路上とか」
「やだーー!!」

 高専行けない!とまで言い出した名前に、降谷が溜息を吐きながら立ち上がった。

「仕方ないな……。大体、術式的にも虫には慣れてるんじゃないのか?」

 どんなイメージだ。

「木にいない虫はダメです」
「木にもいるけど」
「うっそ!?」

 平成イチの衝撃だった。

「よし、潰すか。なんか雑誌くれ」
「体液出るじゃん!」
「じゃあコップと紙」
「そのコップ使えなくなる!」

 あいにく、この家には紙コップなんて気の利いたものもない。

「殺虫スプレーは?」
「何年か前のならあるけど……」
「……」

 埒が明かないと思ったのか、降谷は手元にあったレシピ本をくるくると丸めた。

「え、やだ! やめて!」
「贅沢言うな。竹刀を使われたいのか?」
「それもやだ!」
「わがままか」

 可能なら死骸が目に見えないよう、なおかつ体液などで部屋が汚れない形で慎重かつ繊細に葬り去ってほしい。半狂乱でそう懇願する名前に、降谷は「マジかコイツ」と言いたげな視線を向けてきた。

「じゃあちょっと見張っててくれ」
「えっ!?」

 名前の表情が絶望に染まる。スタスタと居間を出ていく降谷。そっちは台所に繋がる引き戸だ。一人残されてゴ…と一対一なんて冗談じゃない。しかし誰かが見ていなければ見失ってしまうし、見失ってしまったら最後、次にどこから現れるかわからない。強烈なジレンマを抱えつつ、名前は盾代わりに持った座布団から顔の上半分だけを覗かせてそれを見張った。お願いだから今だけ動かないで。そんな名前の思いが通じたのか、それはピクリとも動かない。

「零くん早くー!」
「はいはい」

 降谷が台所から戻ってくる。その手に持っているのは一枚のポリ袋だ。そんな頼りない装備で一体どう戦おうというのか。
 降谷はそのポリ袋を裏返すと、手袋のように右手にセッティングした。

「零くん?」
「僕の近くにいない方がいい」
「え?」
「チャバネじゃない。飛ぶぞ」
「!」

 名前が驚愕に後ずさるのと同時に、降谷が一歩、また一歩とそれに向かって歩を進める。位置取りはそれの真正面。するとそれまで微動だにしなかったそれが、カサリと角度を変えた。
 そして―――

「ひぁっ、飛ん、」

 だ。と名前が言い切る前に、降谷がポリ袋を嵌めた手でそれをキャッチする。感触を想像してぞわりと名前の腕が粟立った。
 降谷はすぐにポリ袋の裏表を返すと、口をギュッと縛ってそれを閉じ込める。この動体視力と反射神経、やはりフィジカルギフテッドでは?

「これでよし」
「ね、それ半透明!透けてる!動いてる!」
「いやもう部屋に帰れ……」

 一戦終えて疲れた様子の降谷だが、これは絶対、虫というより名前に疲れたに違いない。ごめんなさいの気持ちはある。
 ちなみに他にもいる可能性を知って失神しかけた名前が、その夜一睡もできなかったのは言うまでもない。殺虫スプレーと燻煙剤はとりあえずダースでポチった。


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