14. 穏やかに育む



「全国模試とか、受けてみたらどうだ?」

 え、と顔を上げれば、整った横顔がすぐ隣にある。名前は言われた言葉が飲み込めず、何度か目を瞬かせた。降谷の視線は名前の手元を向いたままだ。

「しっかりやり込んでるだけあって、中学の範囲はほぼ完璧だよ。一度自分の立ち位置を確かめてみるのもアリだと思う」

 名前の手元にあるのは、すっかり膨らんでしまった使用感たっぷりの教科書。傍らに開かれたノートももう何冊目かわからない。
 朝食後は、書斎で降谷に勉強を見てもらうのがすっかりルーティンと化している。今日も例に漏れず進み具合を見てもらっていたところ、突然冒頭の台詞が飛び出したのだった。

「……私、そんなにちゃんとできてる?」

 よっぽど呆けた顔をしていたのだろうか。こちらを見た降谷がぷっと吹き出した。

「なんだよその顔。まあ、見始めた頃は英語が足引っ張ってる感じもあったけど、あっという間に追いついたしな」

 それはもちろん降谷のスパルタ指導のおかげである。名前は思わず安堵の溜息を吐いた。

「よかったぁ……学校に行くっていう普通のことができてない分、形だけでもちゃんとしなきゃって思ってたから」

 褒めてもらえたことがくすぐったくも嬉しく、頬がだらしなく緩むのがわかる。

「ふふ、そう言ってもらえて嬉しいなぁ」
「……“普通”ってなんだ?」
「え?」

 降谷の声が心なしか低くなる。表情も急に真摯な色を帯びた気がして、名前は降谷から目を離せなかった。

「人と同じでいることが正しいのか?」

 答えなければと思うのに、すぐに言葉が出てこない。

「周りの言葉や反応が気になるのは僕もよくわかるよ。でもそれに流されちゃダメだ。君に色々言う人がいたとしても、その人は君の人生を代わってはくれない」

 つまり自分の人生に責任を持てるのは自分だけということだ。そう言い切る彼もきっと色々経験してきたのだろう。その言葉には重みがある。

「……まあ名前の場合は、流されてるっていうより受け入れてる感じだけど」

 そう言って苦笑する降谷を見て、名前も同じく表情を緩ませた。

「うん。確かに受け入れちゃってるな、私」
「だよな。そこが厄介だ」
「厄介て」
「もっと自分を大事にしてほしいって思ってる側からすれば、見ててやきもきするってことだよ」

 やきもき。 きょとんと目を瞬かせながら、名前は呟くように繰り返す。

「自分を大事にしてほしいって……零くんがそう思ってるの?」
「そりゃ思うだろ」
「私、結構自分に甘い方だと思うけど」

 そう返せば、今度は降谷の青い目がぱちりと一つ瞬いた。

「自分に甘い人間は辛い環境に自ら留まらないし、甘えられる場面で遠慮したりしないと思う。あと自分に不利な約束も結ばない」
「う……ぐうの音も出ない〜」

 へらりと笑って誤魔化す名前に呆れ混じりの視線が刺さる。この環境をそこまで辛いとは思っていない、と言ったところで信じてもらえなさそうだ。
 降谷の提案は嬉しいが、名前が模試を受けることはおそらくない。この名前を目にするだけでやいやい言う人もいるのだ。おもに親戚だが。でもこの考え自体、自分を大事にしていないことになるのだろうか。つらつら考えていると、不意に香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

「ね、なんかいい匂いする。何か作ってる?」

 問題を解いている間に何度か席を立っていたから、その時に何か仕込んだのだろうか。甘く香ばしいバターのようないい匂いに胃袋がそわそわする。
 すると降谷は意味ありげに微笑み、「内緒」と人差し指を口元に立てた。それドラマでイケメン俳優がやってた。顔がいい男は何をやっても様になるな、とぼんやり思いながら、名前は今にも鳴り出しそうな腹を押さえた。




***




 書斎での勉強を終え、それぞれのペースで午前の分の筋トレもこなした降谷と名前。掃除機をかける降谷を横目に居間でゴロゴロするのももはや日課だ。
 座布団を抱えてうつ伏せになり、畳に開いた雑誌をパラパラと捲る。本物志向の食を追求する某グルメ&エンタメ誌の最新号は、名前の大好きなあんこ特集がメインらしい。表紙のおはぎがシンプルすぎて逆にインパクトがある。

 一冊読み終わったところで視線を上げれば、掃除を終えた降谷がローテーブルに雑誌を広げていた。上体を起こして誌面を覗き込むと『消えた人々はどこへ!?年間8万人と言われる行方不明者の謎』という見出しが目に入る。週刊誌だ。どうやら今日も自室に戻らず、居間で名前と過ごすらしい。

(喉乾いたな)

 台所で麦茶でも飲んでこよう。そう思った名前が立ち上がろうとすると、降谷がそれに気付いて顔を上げた。

「飲み物? そろそろお茶にするか」
「え、あ」

 立ち上がる寸前の中途半端な体勢のまま、名前は台所に向かう降谷を見送った。やっぱり過保護だ。
 数分後、降谷がトレーに載せて運んできたのはグラスに入った麦茶が二つと、一枚の皿。そしてそこに載ったものを見て名前は目を丸くした。

「わっ、クッキーだ! さっき焼いてたのってこれ?」
「まあ」

 どこかそっけない降谷の様子を気にも留めず、名前は待ち切れないとばかりにクッキーを口にした。サクサクとした歯切れのいい食感と、口の中でほろりと崩れる繊細さ。鼻から抜けるバターの風味に名前は目を輝かせた。

「美味しい!」
「それはどうも」
「これも初めて?」
「お菓子作り自体初めてだよ」
「うっそぉ」

 この男、出来すぎだ。初めてとは思えない出来に感激しつつ、名前は夢中になって食べ進めた。しかもこれ全部食べていいらしい。神かな。

「零くんの分は?」
「ああ、僕はさっきつまんできたから」

 そう言って降谷は対面で麦茶を飲みつつ、クッキーを食べる名前を見守っている。名前はクッキーを平らげると、この上なく満ち足りた表情で手を合わせた。

「ごちそうさま。美味しかった〜」
「お粗末様」

 そして空になった皿を、降谷は当たり前のように片付けた。手伝いも辞退されてしまい、名前は正直手持ち無沙汰である。

 そこで名前はふと思いつき、足音を立てないよう静かに降谷を追いかけた。思いついたと言っても、音もなく背後に近付いて彼を驚かせるか、それとも強制的に片付けを手伝うかはまだ決めていない。いや両方やってもいいかもしれない。
 そんな子供のようなことを考えながら台所を覗いた名前の目に飛び込んできたのは、こちらに背を向けて立つ降谷の姿だった。キッチンの天板にはクッキングシートが置かれていて、その上のクッキーを見つめているように見える。
 はぁ、と溜息が一つ聞こえた。

「なんの溜息?」
「! わっ」

 ガタガタッと慌てた様子で降谷が振り返る。そしてこちらを向いた彼は背後を隠すような仕草を見せた。

「え、なんで隠すの」
「いや……」
「クッキーじゃないの?」
「クッキーだけど」

 聞いといてなんだが、これじゃあ食い意地が張ってるみたいだ。残りもよこせとか足りないアピールとかでなく、ただ単に気になるだけなのだが。
 名前はなぜか気まずい表情を浮かべる降谷に向かって、躊躇なく近付いた。

「よいしょ」
「あっ、こら」

 一気に接近した名前は、降谷の腕にしがみついて無理矢理背後を覗き込む。さすがの彼も力ずくでの抵抗はしてこない。

「あれ? 零くん、これ」

 そこにあるのは先程食べた残りと思われるクッキーだ。そこまではいい。が、それらのクッキーは焼き色のつき具合がバラバラで、焦げかけに見えるものもあれば、ムラになって半分だけ濃く色づいたようなものもある。
 もちろんオーブンレンジの機種によって加熱ムラができるというのはお菓子作りをしない名前でも知っている話だ。しかし先程食べたのはどれも綺麗で均一な見た目だったので、もしかしたら降谷は見た目の悪いものを隠そうとしたのかもしれない。はぁ、とまた溜息が降ってくる。

「……あんまり見ないでくれ」

 頭上から聞こえる諦め混じりの呟きを無視し、名前はそのクッキーをひょいっと一枚口に放り込んだ。「あっ」と聞こえたがこれも無視だ。

「ん、美味しい! やっぱり美味しいよ」

 そう言って顔を覗き込めば、降谷はどこか不貞腐れた表情を浮かべていた。しかしその中には若干の照れが見える気がする。
 そういえば降谷は他の料理でも、盛り付けが綺麗なもの、見映えのいいものを優先して名前に食べさせようとするのだ。人柄100点か。

「隠さなくてもいいのに」
「格好悪いところは見せたくないだろ」

 拗ねたような表情を見せる降谷に、名前は胸がきゅんと甘く弾んだ気がして胸元を押さえた。なんだ今の。

「ヒロは料理もお菓子作りも得意で、全然失敗しないんだ。僕だってレシピ通りやれば上手くいくと思ったんだけど……」

 え、悔しそう。かわいい。年上に対して思うことじゃないかもしれないが、なんだろう、かわいい。再びきゅんと高鳴る胸を名前は強く押さえ込んだ。だめだめ。ときめくな。

「あの……今日のお昼、一緒に作ってもいい?」
「え? もちろんいいけど、珍しいな」
「だってなんか、本当に零くんがいないと生きていけなくなっちゃいそうで」
「え?」

 料理を一緒に覚えればいいと言っていたのは降谷だ。確かにその通りである。このままじゃ危険だ。いろんな意味で。




***




 そしてお昼時。本日のお品書きは冷やし中華、それからほうれん草の胡麻和えの二点である。メインの冷やし中華担当が降谷、副菜担当が名前だ。
 ボウルの中ですりごまと醤油、砂糖を混ぜ、茹でて水気を絞ったほうれん草を包丁で切ってそこに投入する。

「ねーねー、零くん」
「ん?」
「はい」

 あーん。
 反射で口を開けた降谷が、放り込まれたほうれん草を咀嚼する。しまった、つい、という顔をしながらモグモグしてるのがなんだかおもしろい。

「味付けがよくわかんなくて。こんなんだっけ?」
「……なんでレシピを見ないんだ?」
「最初に見たよ。後はまぁ、大体の感じでできると思って」

 つまり調味料は目分量だ。

「何事も基本を身に着けてからだろ……」
「へへ、おっしゃる通り」
「いや、まあ、美味しいけど。普通に」
「ほんと?」
「ただ、僕がちゃんとレシピ通り作ってるのに、適当にやって美味しく作られるのは納得いかない」
「え〜」

 美味しければいいじゃん、と思いつつ、名前は過去に自分がやった失敗を思い出す。今回のだって、目分量がゆえに次回も同じ味にできるとは限らない。

「これからはちゃんとレシピ見ます」
「うん。いい心がけだ」

 そう言って頷く降谷はいい先生になりそうだ。いや警察官だった。

「ね、人が作った料理が食べられるのってすごいことなんだね」
「なんだ急に」
「だって急に思ったから」

 ほうれん草を小鉢に移しながら言うと、降谷がきゅうりを千切りにする手を止めてこちらを見るのがわかった。

「一人の時はお腹に入ればなんでもいいって思ってたし、それが当たり前だったけど……こうやって誰かが料理してくれるって、うまく言えないけどすっごく尊いことだと思って」

 当たり前じゃないんだよねぇ。しみじみ言うと、降谷もまた「そうだな」と返した。学生の一人暮らし仲間なので共感し合えることも多い。

「いつもありがとね」
「こちらこそ」
「零くんが帰った後、また逆戻りしないように頑張らなきゃ」
「……ああ、僕も向こうで頑張るよ」
「あ、でも高専の寮に入っちゃえば結局作らなくなりそう」

 正直にそう言えば、「目に浮かぶよ」と笑われた。



 そして午後。食事を終えると、降谷は食休みもそこそこに身支度を整えた。どうやら近所のスーパーに買い物に出かけるらしい。

「他に何か欲しいものは?」
「ん、じゃあシュークリームと大福系」
「よし、任せろ」

 夏休みで人出の多いショッピングモールにはあまり行けない今、降谷に頼むのは日持ちせずお取り寄せしにくいスイーツばかりだ。特にスーパーのシュークリームは安くて美味しいので大正義。
 降谷は目立つ容姿だからとキャップを目深にかぶり、「行ってきます」と出掛けていった。玄関でそれを見送った名前は、そのままそこでぼんやりと考え込む。

 彼が帰るための手がかりはまだ何もない。幼馴染の帰省先も東京も不発。夏休みももう三分の一が終わってしまう。きっと焦っているだろうに名前の面倒ばかり見て、しかも最近は輪をかけて過保護ときた。ただでさえ家事の大半を担ってもらっているのに、正直なんだか落ち着かない。
 彼のために何かできることはないだろうか。他に手がかりになりそうなものと言えば、思い浮かぶのは―――

「あ、そうだ」

 あることを思いついて、名前は名案だとばかりに手を打った。


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