*03. 葬帷子に陰る



「このメンバーで飲むなんていつぶりですかねー」

 嬉しそうに言って、名前は緩んだ顔で芋焼酎の水割りを呷った。一杯目は生、二杯目からは焼酎や日本酒にシフトするのがいつもの飲み方だ。
 この日の飲み会は、人気の隠れ家系居酒屋の座敷を一室貸切。テーブルについているのは名前と歌姫、硝子、それからその向かいに伊地知、五条、七海という比較的歳の近い面々である。歌姫は五条がいることに不満顔だわ五条は煽るわで少々ピリついた雰囲気だったが、硝子の「財布なんで」の一言であっさり落ち着いた。シンプルに扱いがひどい。

「私はあんまりこっちに来れないし、アンタも大体都内にいないしね」
「あっ、それなんですけど。聞いてくださいよ歌姫さん」
「何よ」
「私、明日から新潟、富山、石川の北陸コースなんですよ。いくら範囲攻撃可能で田舎向きの術式だからって、ソロ出張ばっかりなのひどすぎません?」
「いいじゃない。金箔パック買っといて」
「私しろえび紀行」
「二人ともひどい」

 ていうかしろえび紀行って何。拗ねた名前は唇を尖らせながらドリンクメニューを手に取った。次は同じものをロックで飲むか、それとも軽めに麦焼酎のグレープフルーツジュース割りにでもしようか。
 ふと、正面に座る伊地知のグラスに目がいった。

「伊地知くんのそれ、カルーア?」
「あ、はい。胃が荒れやすいので前半はミルク系を……」
「へえ、可愛いね」
「えっ」

 伊地知がポッと頬を紅潮させる。かわいい。その様子を見てか、彼の隣に座る五条が「伊地知ィ」と低い声を出した。

「そこ場所替わって」
「えっ」
「名前もその方がいいでしょ?」
「え、いや別に」

 ヒドイッ!と泣き真似をする五条を半目で見やる。伊地知の胃に負担をかけている一番の要因はこの男だ。確実に。五条の逆隣に座る七海は我関せずとジョッキを傾けているし、こちらも常識人に見せかけてわりと自由人である。ちなみにオフということであの個性的なサングラスはかけていない。

「伊地知くん、五条さんにいじめられたら連絡してね。すぐ帰ってくるから」
「はい、名前さん…っ!」
「伊地知、後でマジビンタ」
「ヒィッ」
「もー、そういうとこですよ」

 名前はツッコみながら次の酒を決めた。芋のロックにしよう。座敷に店員を呼ぶと、エンジンが掛かってきたらしい硝子は米焼酎を、七海はウィスキーをそれぞれボトルで注文した。ザルを超えてワクの二人だ、キープどころかあっさり飲み切って追加注文するに違いない。

「五条はカルピス?相変わらず酒飲めないのね」
「まあね。ほら、僕レベルになると一つくらいは欠点がないと」
「ウザ」

 歌姫の頭上に「イラッ」という擬態語が具現化して見える。

「名前も貴重な甘党仲間なのに酒だけはすっかり辛党になっちゃって……」

 オーバーな仕草で残念がる五条に、名前は枝豆をつまみながら目を瞬かせた。

「あー、ずっと硝子さんと歌姫さんの真似してたからかなぁ」

 えへ、と照れ笑いを浮かべれば、「可愛いやつー」と歌姫が頭を撫でてくる。歌姫越しにふっと微笑む硝子の姿も見えた。きゅん。
 女性陣のやりとりを見た五条が「僕だって先輩なのに」と拗ねたフリをするので、名前は先輩らしいことをしてから言ってくださいと秒でツッコんでしまった。

「名前に構ってほしかったら誠実さ身に着けて生まれ直してきな!」

 それはつまり一回死ねということである。名前の頭をぎゅっと抱え込んだ体勢で、早速酒が回り始めたらしい歌姫が吠えた。

「誠実さ?あるでしょ、どこ見てんの」
「ねーだろがッ」
「歌姫さん酔うの早」

 口が悪いのはいつものことだが。

「いやー真面目に口説いたこともあるけどさ。理想と違いすぎるってフラれたからね、この僕が」
「真面目に?そんなことありました?」

 きょとん顔で聞き返した名前がツボにハマったのか、歌姫がギャハハと大口を開けて笑う。

「すでに記憶にすらねーじゃん、ざまぁ!」
「名前の理想って?」

 硝子の質問に名前は「うーん」と頭を捻った。

「理想……何言ったんだろ私」

 本気で思い出せないので、多分がっつり酒が入っていたものと思われる。一体なんと答えたのか自分でも気になるところだ。

「えーマジで覚えてないの? ホラあれ、真面目で優しく面倒見がよくて、たまに厳しいけど大事にしてくれる人ってやつ」
「ひえ」

 それただの降谷零じゃん。名前は普通に照れた。

「ちょー具体的!しかもめっちゃ覚えてやんの」
「これでも傷ついたんだからッ」

 爆笑する歌姫に、グーにした両手を口元に当ててぶりっこポーズを決める五条。上目遣いのせいでサングラス越しの六眼がきゅるんきゅるんしているのがよく見える。

「ていうか、それってさ」

 言葉を切った硝子の視線の先を、それぞれが釣られるように追いかける。

「……なんですか?」
「モロ七海じゃん」
「この流れで巻き込まないでください」

 注目された七海は居心地悪そうに顔を顰めた。
 なるほど。名前はポンと手を打った。確かにタイプは似ているような。

「貴女も納得しない」

 呆れ顔の七海に睨まれるが怖くはない。付き合いが長いのであいにく睨まれ慣れているのだ。自分で言っていて悲しいが。
 結局名前の理想がどうのという話は追加注文の品が届いたことでうやむやになり、飲み会はなんだかんだで盛り上がった。二時間もすれば座る場所も酒の量もめちゃくちゃだ。
 下戸の五条はいつも通りのテンションで伊地知に絡んでいるし、酒が入った伊地知は意外にも上手いことそれをいなしている。硝子は慣れた様子で歌姫の絡み酒に応えていて、酒豪の七海は全くもって変化なしである。

「そのもちもち美肌触らせなさいよ」
「ひぇっ、歌姫さんのアドバイスのおかげです〜」
「こないだ教えたオイル買ったの?」
「買った買った、買いました」

 エロオヤジのごとく肌を撫でまわしてくる歌姫から逃げ、名前は自分のグラスを持って七海の隣に避難した。

「七海くん、ほんと酔わないなぁ。肝臓どうなってんの?」
「ちゃんと酔ってますから、ご心配なく。……目が半分閉じかかってますよ」

 スッと酒のグラスを取り上げられ、名前は「あー」と情けない声を出した。

「明日から出張でしょう。あとはお茶で我慢
するように」
「ケチ……」
「毎回連れて帰る身にもなってください」
「今日は自分で帰れますー」
「はいはい」

 この反応、信じてないな。むぅ、と拗ねた様子で枝豆をつまんでいると、ひやりと冷たい手が左耳に触れた。名前の耳朶に収まるピアスの存在を確かめるように、親指がそっと輪郭をなぞる。

「ふふっ、くすぐったい。ちゃんとつけてるよー」
「ええ。一応の確認です」
「でもどんだけ呪力籠めても何も起こらないんだけど〜。ほんとに術式刻んだ?」
「忘れっぽい誰かさんと一緒にしないでください。発動条件を絞っているだけですから」
「今さりげなくdisったよね」
「自覚があるようで何よりです」
「ひど」

 左耳のピアスには七海の術式が刻まれている。高専時代に灰原と三人で交換し合った嘱託式呪具の一つだ。二人が持っていたそれはちゃんと発動して壊れたのに、名前がつけているピアスだけがうんともすんとも言わないまま残っている。

「こらぁー勝手にイチャイチャすんな、そこ!」

 そう言ってビシッと指差してきたのは歌姫だ。目が完全に据わっている。

「あは、あのひともうだめだ」

 ふにゃふにゃ笑う名前の隣で、七海は前髪をかき上げながらフゥ、と呆れたような溜息を吐く。

「隙あり」
「あ」

 七海のグラスを奪った名前は、中身を一気に飲み干した。

「ひ〜、つよ」

 飲み慣れないウィスキーに喉がカッと熱くなる。べっと舌を出す名前を見て、七海は顰め面でグラスを奪い返した。それを見た名前がへらりと頬を緩ませる。

「眉間のしわ、すご。高専の頃みたい」

 ずいっと接近して、指先で眉間の皺を伸ばすようにぐりぐり撫でまわす。もちろんそんなことで寄りまくった眉根が元に戻るはずもなく、思いっきり嫌そうに顔を歪めた七海がその手首を掴んだ。

「誰のせいですか誰の……」
「あは」
「な、七海さんが押されてる……」
「普段から酔うとあんなもんだよ」

 目を丸くする伊地知に硝子が冷静に返す。歌姫は「ちゅーしろ!」とオッサンみ強めなガヤをぶち込んでくるし、五条は不満げにブーブーと唇を尖らせている。

「七海ィ〜いらないならそれチョーダイ」

 語尾に星がつきそうなノリで手を差し出す五条。それとは名前のことだろう。安定の最低ぶりに七海が粗大ごみでも見るかのような目を向けた。

「あ、七海くんまた眉間にしわ」

 再び手を伸ばすがあっさり阻止され、名前はおかしそうに声を上げて笑った。




***




 ゴン、と頭に軽い衝撃が走って、名前は目を開けた。どうやら眠ってしまっていたらしく、唐突に現実に引き戻されて頭が働かない。後部座席の窓に頭をぶつけたままぼんやりしていると、運転席から「大丈夫ですか」と尋ねられた。

「あ……大丈夫です。すみません、こんな時に寄り道させて」
「いえ、大切なことですから」

 ルームミラーには神妙な面持ちの補助監督が映り込んでいる。名前は膝の上に置いていたマフラーが落ちないよう、そっと抱き寄せた。見慣れないそれに、 まだ違和感しかない。

「……私、形見分けってよくわからなくて。本当はこんな風に勝手に持っていくものじゃないんでしょうけど、このままだと全部処分されて終わりだと思ったので」

 ハンドルを握る彼が、ミラー越しにちらりと名前を見た。

「学生時代から物が少ないんですよね。あるのは服と本くらいで、インテリアも最低限だし。ああいうのをミニマリストっていうのかな」

 あ、でもあの変なサングラスの予備はありました。そう続けると、困ったような小さな笑い声が耳に届いた。

「それで結局、目についたマフラーだけもらってきたんです。これ、私がつけても違和感ないですかね」

 手にしたマフラーを巻いてみる。グレーを基調にしたそれはビジネススーツにも合うシンプルなものだ。ミラー越しにこちらを見た補助監督が「よく似合ってます」と微笑んでくれたので、そのまま巻いておくことにした。その暖かさは11月の東京にはまだ早いが、疲れて強張った体からほんの少しだけ力が抜けた気がした。

 遠方での任務を終えて帰ってきたら、23区を中心に東京はほぼ壊滅していた。呪詛師によって放たれた呪霊の数は推定1000万以上、総理代理全員が安否不明で官邸機能は急遽大阪に移転。東京のみに発生するものとして呪霊の存在が公表され、避難命令区域に指定された都内にいるのは術師と呪霊、それから逃げそびれた不運な一般人だけとなった。首都としての東京は、一夜にして終わりを迎えたのだ。
 そして七海建斗は、「渋谷事変」と呼ばれるこの大厄災で命を落とした術師の一人だ。これで三人しかいない同期のうち、一番早死にしそうだった名前だけが生き残ってしまった。

(五条さんは封印されちゃったらしいし、上層部は相変わらず頭おかしいし……。七海くんがいなかったら、私なんてすぐ死ぬんだろうなぁ)

 腐っても一級呪術師だ、実力的な意味じゃない。自らを省みない名前の戦い方を誰より嫌がり、誰よりネチネチ説教してくれていたのが七海だった。名前には呪術師としての強い信念も生への執着もない。彼がいない今、あっさり死ぬ未来しか見えなかった。
 左耳にそっと触れれば、彼の術式が刻まれたピアスはまだそこにある。これも結局、形見のようなものになってしまった。

「あ、すみません。電話だ」

 ブー、ブー、と着信を知らせるスマートフォンを取り出し、断りを入れて電話に出る。

「もしもし、先生?」
『ああ、お疲れ、名前』

 この声を聞くのもどれぐらいぶりだろう。東京に戻ってすぐの時は連絡がつかなかったので、ようやく声が聞けた、と頬が緩む。『怪我はないか』『飯は食ったか』と名前を労う夜蛾に、「先生こそ」と同じように返す。しかし何故だかその声にいつもの張りがないような気がして、名前は内心首を傾げた。

「先生、」
『名前。お前は、呪術師になってよかったと思うか』
「え?」

 突然の問いかけに、名前は即答できず目を瞬かせた。夜蛾の声はどこか沈んでいて、「なんでそんなこと聞くんですか」なんて茶化すような雰囲気じゃない。果たしてこれはどう答えるのが正解なのだろうか。名前は窓の外を眺めながら、遠い記憶に思いを馳せた。

「えっと……私、呪術師にならなかった自分を想像できないんです」
『……』
「この力で呪いを祓えると知ったその時から、呪術師になって誰かを助けること、それしか考えてませんでした」
『……ああ、お前らしいな』

 夜蛾がふ、と小さく笑ったのがわかる。

「それに、あの時先生が来てくれたから」

 両親が死に、親族が家に集まった時。「お前のせいだ」「お前が呪い殺した」と罵られ、「あの子はずっとお前のことで悩んでいた」と母の苦悩を知らされ、その場から逃げ出した名前は塀の外で自分を抱き締めるように蹲っていた。そこに夜蛾が現れた時は、自分は夢でも見ているのだろうかと思ったものだ。「お前が呼んだんだろう」と呆れたように言われて初めて、親族達から隠れるようにして電話をかけたことを思い出したくらい、当時の名前は子供ながらに憔悴しきっていた。

「先生があの場所から連れ出してくれたから、この人のように生きたいって思ったんです」

 厳しくも優しく、愛情深い人。言いはしないが、夜蛾は名前にとってもう父親のようなものだ。

「だから呪術師になったこと、後悔してません」

 そう言い切れば、電話の向こうから『そうか』と聞こえた。名前の答えをどう思ったのか、その短い返答からは窺い知れない。

『俺はこれからパンダに会いに行く』
「パンダに?」

 そういえば東京に戻ってからまだ一度も顔を見ていない。彼の小さい頃はオムツだって替えた、言うなれば年の離れた弟分である。

『色々あってな。とりあえず無事なことは確かだ』
「そうですか」
『名前』
「はい」

 そこで言葉を切ってから、夜蛾は一拍置いて再び口を開いた。

『俺にとって、お前は娘のようなもんだ』
「……え?」
『死ぬなよ。死なない理由を作れ』

 それだけ言うと、夜蛾は『すまん、時間だ』と電話を切った。

「先生……?」

 今のはなんだったのだろう。通話を終えたスマホを見つめながら、言いようのない不安が過ぎってざわざわと心が落ち着かない。
 それからどれほどの時間が経っただろうか。人気のなくなった東京の街並みを見るともなしに見ていれば、都下にある自宅マンションの前で車が停まった。

「二時間後にまた別の者が迎えに来ます」

 補助監督の言葉に、名前はどこか上の空のまま「はい」と返した。未曾有の混乱の中、呪術界はこれまで以上の人手不足だ。すでにこなすべき指令も山積みだし、二時間でも休ませてもらえるならありがたく思うべきなのだろう。
 遠ざかるテールランプをぼんやりと見つめながら立ち尽くしていると、再びスマホが着信を告げる。画面を確認すれば、今度はすっかり大きくなった弟分からの電話だった。

「もしもし」
『あー、名前……その、なんだ、えーと、お疲れ』

 歯切れ悪く、取ってつけたような労いを口にするパンダに眉根が寄る。

「お疲れ。どうかした? 先生は一緒?」

 すでに先程の電話から三十分以上経過している。夜蛾ともとっくに合流しているだろうと思って聞けば、パンダは言いづらそうに口ごもった。人間よりよほどさっぱりした性格の彼だ。それがこうも躊躇うとなると嫌な予感しかない。

『そのことなんだが……あのな、落ち着いて聞いてくれ』

 まさみちが―――

 その後のことは、脳が理解を拒絶したのかほとんど頭に入ってこなかった。時間をかけてようやくわかったことと言えば、五条と夏油を唆して渋谷事変を起こしたとして夜蛾が死罪になり、楽巌寺の手によって刑が執行されたこと。それだけだ。
 足元から全てが崩れ落ちていくような、自分の存在意義が揺らぐような―――どうしようもない喪失感に上手く呼吸ができなくなる。パンダがすまなそうに話すのがなおさら苦しくて、名前はギリッと奥歯を噛み締めた。辛いのは彼も同じなのに気を遣わせてどうする。今は押し殺せ。

「……先生は、今そこに?」
『ああ、これから高専に連れて帰るよ』
「わかった。私も行く」

 電話を切って、名前はマンションには入らず踵を返した。
 ああ、まただ。またこの手からこぼれ落ちていく。呪術師として人を助ける、それが自分の全てだというのに。いわれのない罪を着せられた夜蛾を守ることもできず、腐った上層部を潰す力もない。
 行き場のない苛立ちを誤魔化すように、名前はマフラーを雑に巻き直した。

(本当に、呪術師はクソだね。七海くん)

 それはもちろん名前自身も含めてだ。呪術師であることに後悔はないのに、打ち消せない無力感がいつも矛盾を生む。

(中途半端だなぁ、私……)

こんな自分を見たら彼はどう思うだろうかと、次に思い浮かべたのは七海とは違う金髪の持ち主だった。

「……あーあ。情けな、」

 見上げた空に、星は一つも見えなかった。


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