*02. 縹色の葬送



 容赦なく照りつける真夏の太陽の下、男たちの必死の掛け声がいっそう体感温度を上昇させる。防石マスク付きのヘルメットからは止めどなく汗が流れ落ちるが、汗が出るうちは大丈夫だという無茶苦茶な精神論がその場を支配していた。
 出動服の下には鉄板入りのベスト、手には鉄板入りの小手、足には鉄板入りの脛当て。さらにはジュラルミン製の大盾を携え、盾も含めて10kgをゆうに超える重装備が男たちを苦しめる。

「足を止めるな!顔を上げろー!もっと腹から声を出さんか!」

 教官の喝に懸命に応えながらも、ふらつく者、足が止まる者、さらには倒れ込んでしまう者も少なくはない。
 そこで行われているのは警察学校名物、地獄の警備実施訓練である。中でもその装備のままグラウンドを周回し続ける走訓練は、最も過酷な訓練として入校生たちから恐れられていた。

「なあ、今日は飲みに出ようぜ」
「いいねー、こりゃ絶対ビールが美味いわ」
「君達、余裕だな」
「お前もな」

 誰もが死に物狂いで足を動かす中、汗を流しながらも涼しい表情を浮かべている一団があった。周りの入校生たちは信じられないものでも見るかのような顔でそれを見ている。

「いつもの店?」
「いいんじゃね、近いし」
「おう、あそこなかなか美味いしな」
「個室取れっかなー」

 会話の内容だけ聞けば、救急搬送が多発する名物訓練の真っ最中とは思えないほどの呑気ぶりである。

「よっしゃ。じゃあビリになったヤツの奢りっつーのは?」
「乗った」
「乗った」
「乗った」
「え、マジで? ゼロまで乗るなよー!」

 焦りながらもすぐに追いつく諸伏。ダントツの先頭集団でありながら何故かペースを上げ始めた伊達班の面々に、その場の誰もがついていくことを諦めたのだった。




***




「よし、じゃあ今日もお疲れ!」

 お疲れ、乾杯、と口々に言いながらキンキンに冷えたジョッキをぶつけ合う。それをグイッと一気に飲み干せば、心地良い喉越しが暑さも疲れも忘れさせてくれた。

「ッかー!うめぇー!」
「訓練後はやっぱこれに限るぜ」

 警察学校の警備実施訓練といえば、当日は風呂に入って泥のように眠るのが関の山。死屍累々の寮から意気揚々と飲みに繰り出した伊達班がむしろ例外中の例外だ。

「班長、焼き鳥も適当に頼んどいてくれ」
「おう」
「あっ俺明太ポテサラ欲しい」
「わかったわかった」

 注文を丸投げする班員たちにも嫌な顔一つせず、率先して場をまとめる伊達。パッと見保護者である。
 つまみが到着すればさらに酒が進み、運よく取れた個室には五人の笑い声が絶え間なく響いていた。

「ヒロ、これの味付けって何かな」

 そう言って降谷が指差したのは、刻みネギがたっぷり乗った鶏レバー串だ。

「これ?あー、塩麹じゃないかな。肉が柔らかくなるし俺もよく使うよ」
「塩麹か、なるほど。今度やってみるよ」

 納得して頷きつつ、確かめるようにゆっくり咀嚼する。そんな降谷の様子を見て諸伏が小さく吹き出した。

「どうした?」
「いやー、ゼロもすっかり料理好きになったなって思ってさ。こんな風に話せるようになるとは思わなかったよ。名前ちゃん様々だな」
「まあ……確かに」

 あの日突然の帰宅を果たした降谷に、当然だが夏休み中何があったのかを問い質した諸伏。さすがに「携帯が壊れていた」の一点張りで誤魔化されてくれるはずもなく、降谷は結局洗いざらい全てを話す羽目になった。笑われるのも引かれるのも覚悟していたが、諸伏は驚きながらも無事の帰還に安堵し、料理を覚えて帰ってきた幼馴染に「これで一緒に飯作ったりできるな!」と喜んでくれたのだった。

「そこ、今女の子の名前出しただろー!聞こえてんぞー」
「おっ、降谷に春が来たか?」
「吐かせようぜ」

 好き勝手飲み食いしていた残り三人がギュッと距離を詰めてくる。暑苦しい。

「そういうのじゃない」
「あー、あれか?探してるっていう初恋の」

 ニヤニヤと指先を向けてくる松田に「違う」と返せば、今度は萩原が初恋という単語に反応する。降谷は松田に話した時と同じように説明してから、改めて別人の話だと強調した。

「じゃあなんだよ」
「高二の時、訳あって夏休みの間だけお世話になった子だよ」
「その子の家に世話んなったってこと? ホームステイ的な?」

 ホームステイは違うだろ。降谷はそう思いながら「いや、名前は一人暮らしだったから」と口にして、すぐにハッと我に返った。しまった。

「ハア!?一人暮らしの女の子!?」
「世話んなったってどういうことだ?あ?」
「おいおい、まさか夏休みの間中二人きりだったって言うんじゃ……」

 予想通り火が付いたように騒ぎ出す三人に、降谷は今すぐこの場を立ち去りたくなった。

「諸伏はこの話知ってんのか」
「あー、まあ」
「お前でもいいわ。吐け吐け、今すぐ吐け」

 そう詰め寄る松田はすっかり目が据わっている。リア充だったら殺すと言わんばかりである。「いやなんで俺」と諸伏はずりずり後ずさるように距離を取った。

「だからそういうのじゃないって言ってるだろ……」
「いやいや、どんなワケがあったら女子と一夏の二人暮らしすることになんの?」
「それは、あー」
「テメェ今考えてんじゃねーぞ」

 追及を聞き流しつつ、この局面をどう切り抜けようか策を巡らせる降谷。しかし伊達にガッと肩を組まれて思考が止まる。

「ま、吐いちまえよ。な?」

 それは刑事が犯人を落とす時のようないい笑顔だった。警察官の卵である三人にぎっちり囲まれ、気分は取り調べを受ける容疑者である。
 降谷は諦めたように長い溜息を吐いた。

「……仕方ないな。笑うなよ」

 あの時のことを人に話すのは人生で二度目だ。こんな荒唐無稽な話、笑われても引かれても仕方ない。そう思いながらも一応前置きをし、話し始めた。
 自宅から突然見知らぬ場所に飛ばされたこと。そこで化け物に襲われ、助けてくれた名前という少女の家に居候させてもらったこと。なんやかんやあって、結局戻ってこれたのは夏休み終了三日前だったこと。呪いや呪術師についてもかいつまんで話したが、正直信じてもらえるとは思っていない。それなのに、最初はぽかんと目を丸くしたり顔を見合わせたりしていた三人が、話し終わる頃には概ね内容を受け入れていたのだから驚いた。いくらなんでも飲み込み早すぎだろ。

「やっべーな、ホラー×ラブコメ。新ジャンルじゃん」
「萩のせいで急に安っぽくなったわ」
「俺も最初聞いた時は驚いたんだ。でも本当に料理できるようになってるし、何よりいなくなってる間全く連絡つかなかったからさ」

 諸伏はそう言うと個室の内線電話で明太ポテサラを追加注文した。そこに俺も俺もと酒やつまみを注文する声が続く。

「……よく信じるな、こんな話。僕がそっち側だったら信じられそうにないよ」
「日頃の行いだろ」

 そう言って降谷の背中をパシッと叩く伊達。

「そうそう。降谷ちゃん、こんな壮大な物語創作するキャラじゃねぇもんな〜」
「で? どんなヤツだったんだよ、その名前っての」

 松田の問いかけに、降谷は乾いた喉をビールで潤しながら言葉を探した。久しぶりにあの時のことを口にしたことで、名前の存在が、言葉が、表情が、より鮮明に思い起こされる。いつも自分より降谷のことばかりだった名前が、「忘れないで」と泣く姿も。

「そうだな……歳は僕らの二つ下で、最初はしっかりした子だと思ったけど……打ち解けると結構年相応っていうか甘えたっていうか、わりと抜けてるところもあって。なんていうか、放っておけない感じだったな」
「お、いいねいいねぇ」
「何事にも一生懸命だったし、自分より他人のことばっかりなお人好しだったよ。あとはそうだな、辛い境遇を感じさせない性格とか、純粋なところとか、そういうところは好感が持てた……と思う」
「わりと出てくるな」
「あー、あとは……ほっぺたが柔らかい」
「は?」
「いい匂いもした」
「追加情報がやべぇ」

 ドン引きしている松田の声を聞き流す。ゼロ、酔ってんの?と諸伏が降谷の顔を覗き込んだ。酔っているのかもしれない。また会いたいとその体を掻き抱いたのがついこの間のことのように思えるし、その時の熱さえ蘇ってくるかのようだった。

「……もう六年も経つのにな」

 ジョッキの雫が手を伝ってぽたりと落ちる。

「うわ、こりゃ重症だわ……」
「相当引きずってんな」
「まあ言ってやるな。よっぽど好きだったんだろうよ」

 気遣わしげに言う伊達の声が耳に届き、降谷は「えっ」と顔を上げた。

「いや、だからそういうのじゃ」
「まーたそれかよ、降谷ちゃん」
「大体お前、初恋は初恋ってちゃんと認識してんのになんでそこは認めねーんだよ」
「それは……名前はまだ中学生だったし」
「真面目か?」
「それならもう問題ねぇな。相手ももう成人してるぞ」

 伊達が言うのと同時に注文した酒やつまみが届く。「来た来た明太ポテサラ」「カシスソーダ誰?」「あー俺だ」「ぶはっ、班長が可愛いの頼んでる」「彼女がこれ好きでな。飲んでみたかったんだ」「爆発しろリア充野郎」などと話す声を遠くに聞きながら、降谷は顎に手をやって考え込んでいた。

「ゼロ、この明太ポテサラうま……ゼロ?」
「……」
「……なあ、これ絶対成人した名前ちゃん想像してんな?」
「あー想像してるわ」
「絶対想像してるな」
「俺にも想像させろ〜!」
「うわっ!?」

 突然飛びついてきた萩原に、降谷は体勢を崩しながらも我に返った。「写メねぇの?」と携帯を漁られて抵抗する。

「あるけど、やめろって」
「あんのかよ」

 見せろや、とカツアゲを思わせるノリで松田が迫ってくる。その背後からにかっといい笑顔を覗かせるのは伊達だ。
 降谷は仕方なく携帯を操作し、名前とのツーショット画像を表示した。彼女の両頬を潰しながら撮ったやつである。

「いや、なんでこの顔?」
「ちょっと貸せ」
「あ、こら」
「おいおい、ご丁寧にフォルダ分けまでしてんじゃねーか」
「別に深い意味は……間違って消さないようにって」
「あー普通のもあんじゃん。カッワイ〜」
「おっ美人だな」

 我が物顔で携帯をいじる松田と萩原、そしてそれを覗き込む伊達。諦めて残ったビールを呷る降谷を、隣に座る諸伏が苦笑いで見ていた。同情するなら助けてくれ。

「で? こっち戻ってきたからって、諦めたわけじゃねぇんだろ?」

 降谷の携帯片手にそう言う松田は、ニヤリと挑発するような笑みを浮かべている。

「まあ、返さなきゃならない物もあるしな」

 そう言って降谷は財布からあるものを取り出した。チャック付きポリ袋に入ったあの根付である。

「ぶっ、証拠品かよ!」
「仕方ないだろ。いつ何があるかわからないから、常に持ち歩いてるんだ」

 名前の呪力が籠められているからだろうか、袋越しのそれは六年経った今も綺麗なままだ。

「それと呪い?だっけ、まだ見えてんの?」

 萩原の質問には「いや」と首を振った。こちらに戻ってきてから、呪霊の姿は全く見えなくなってしまった。それでも気配のようなものを感じて肌が粟立つことはあるし、呪術師らしき存在を見かけたこともある。きっと見えないだけでこちらにも呪いはあるのだろう。呪いとは人の感情から生まれるものなのだから。

「もしまた会えたら、降谷はどうしたいんだ?」

 そう問うのは伊達だ。もしまた名前に会えたらどうしたいか。降谷は手元の根付を見つめながら考えた。まずはこれを返すのが第一。その後は彼女に言った通り縁側で茶を啜るでもいいし、映画を見て一緒に食事するでもいい。しかしそれらは「やりたいこと」であって、「どうしたいか」という問いの答えには相応しくないかもしれない。

「そうだな……とりあえず、一人にしたくないとは思うよ」

 浮かんだ思いをそのまま答えた降谷に、四人がワッと色めき立つ。

「これもうプロポーズじゃねーの!?本人不在だけど」
「やっと認めたな」
「いや、だから違うって」

 一体何度否定させれば気が済むのか。おもむろにグラスを持たせるな。乾杯するな。
 なぜかお祝いムードに包まれてしまった飲み会は、結局門限ギリギリまで続いたのだった。




***




 ザアザアと水音が反響する浴室。熱いシャワーを全身に浴びながら、降谷は顔を俯けていた。視界に入る金髪から大粒の雫が滴っては足元の排水口へと吸い込まれていく。

(随分と、懐かしい日のことを思い出した)

 そう考えてから、実際には三年ほどしか経っていないことに気付く。なんだか随分と昔のことのようだ。
 キュ、と音を立ててシャワーを止めれば、水滴の落ちる音がどこか物悲しく響いた。全身を拭き上げたタオルを腰に巻き、新たに取り出したフェイスタオルで髪を拭く。洗面台の鏡を見ると、見慣れた顔に疲れの色が滲んでいた。少し寝るか、と溜め息を吐く。こんな顔では仕事にならない。
 寝室に向かい、スリープ状態のノートPCを片付けるべくディスプレイを起動する。そして立ち上がった画面を見て、ほんの一瞬呼吸が止まった。

(……閉じ忘れてたか)

 普段はロックをかけ、滅多に開かないこのファイル。疲れでぼんやりしていたのか、開いたままにしていたらしい。あの日を思い出したのもこれを見たからだろう。笑顔の四人をしばらく見つめてから、降谷は今度こそその画像を閉じた。そして同じフォルダの中、隣り合うもう一つのアイコンに視線がいく。誘われるようにクリックしてパスワードを入力すれば、現れたのは花のような笑顔だった。

「名前……」

 名前という少女を知る者は、この世界でもう降谷と伊達の二人だけになってしまった。萩原は三年前に殉職し、諸伏は一年前に自決。そしてつい最近、松田が爆弾解体中に殉職したことを知ったばかりだった。

「あいつらに、君を会わせてみたかったな」

 名前と過ごした日々も彼らと駆け抜けた日々も、容赦なく過去のものになっていく。そうやって失いながらも人は前に進むしかない。そんなこと、誰よりよく解っている。

 ―――願わくば、お人好しの彼女が今も笑っていますように。

 やがて暗転した画面を、断ち切るようにパタンと閉じた。


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