26. 墓場鳥は嘆かない
差し出されたスプーンを、名前は険しい顔で睨みつけた。そこに乗ったものが特別苦手というわけではなく、なんなら腹具合的にも早くいただきたいところなのだが、スプーンを手にしているのが自分ではないという点にまだ納得がいっていない。
「ほら、早く」
促す声には一切の遠慮も躊躇もない。
スプーンを持つ褐色の手から視線を上げれば、男前が曇りなき眼でじっとこちらを見つめている。
「蘭さんにもこうしてもらってたんだろう?」
ほら、と再び促されて、観念した名前が口を開けた。すかさず差し込まれる銀色のスプーン。スープの複雑な味わいと、セロリの独特の香味が口の中にふわりと広がる。
「……美味しい。でも解せない……」
「僕もこうやって君に食べさせたいって、正直に打ち明けたじゃないか」
「それむしろ打ち明けていいやつなの?」
風見辺りが聞いたら耳を疑いそうな願望である。
「前も言った通り、君の世話をするのはわりと好きでね」
「世話って……もう腕も使えるのに」
「それはそれ、これはこれだ。はい、あーん」
「………あー」
ん、と口内に迎え入れたのは、またしてもセロリ。ポトフってもっとこう、ごろっとした野菜や大きめのウインナーに食欲をそそられたりするものじゃなかっただろうか。
見ればスープ皿にはじゃがいもも人参もウインナーもしっかり存在しているというのに、何故か口に運ばれるのはセロリばかり。もしかしたら自分は今、猛烈に地味な嫌がらせを受けているのかもしれない。名前は降谷にポトフを手ずから食べさせられながら、若干荒んだ心持ちでいた。
「ねえ零くん、なんでセロリばっかり――」
「沖矢昴に初めて会ったのは?」
「えっ?」
唐突な質問にわかりやすく上擦る声。いきなりすぎて動揺を誤魔化す余裕もない。
(え、今?)
いつか突っ込まれる問題だとは思っていたが、まさかセロリをあーんしながらだとは思いもしなかった。
「出会いから親しくなるまでの経緯もセットでだ。はい、あーん」
「う、あ」
戸惑う名前をよそに、セロリの乗ったスプーンを容赦なく差し出してくるこの男。これが鬼じゃなければなんだというのか。
そしてこの場を乗り切れるだけの誤魔化し方が都合よく降りてくるはずもなく、抵抗を諦めた名前は観念して口を開いた。
パンプスのヒールが折れたところを助けてもらったこと、そのお礼をきっかけに飲みに行くようになり、以降、沖矢には酒の飲み方を教えてもらったり愚痴を聞いてもらったりしていたこと――
話し終えてようやくウインナーにありつけた時、あまりの感動に涙が出そうになったのは言うまでもない。
(大好きなセロリを嫌がらせに使うんじゃない…!)
なんて言ったら百倍になって返ってきそうだ。
ちなみに沖矢と出会ったのは降谷の嫌いな色を知るきっかけとなった赤いドレスを着ていた日のことだが、これも言うと火に油を注ぎそうな予感がしたので黙っておいた。
「根付のことまで相談していたとは」
「物が何かとか、相手が誰かとかは言ってないけどね」
「随分と信頼しているんだな」
「まあ、普通に友達として…?」
ふうん、と器用に片眉を持ち上げる降谷。彼の中で赤井と沖矢はイコールになっていないはずなのにやけに態度が刺々しい。
追及に答えながら食べるデザートのプリンはうっとりするほど心地いい甘さで、その甘さを少しでいいからこの空気にも分けてほしいと名前は思った。
時間が作れたから食事でも、と誘われてのこのことやってきたメゾンモクバで、降谷による取り調べが始まってすでに小一時間が経過していた。
「名前にボイラーメーカーを教えたのもあの男か?」
「あ、うん」
「ホォー……」
降谷に誘われたバーで飲んだ、アメリカ生まれのカクテル『ボイラーメーカー』。まさかカクテルの発祥からFBI、さらには赤井秀一にまで繋がることはないだろうと思いつつも冷や汗が伝う。
とはいえ優秀なこの男のことだ。沖矢の正体がバレるのも時間の問題だと思わないでもない。
(そうなったらごめんね、赤井さん)
その結果、赤井が組織に突き出されることになっても自分にはどうにもできそうにない。
呪術師らしく薄情なことを考える名前の対面で、降谷がおもむろに立ち上がった。ダイニングテーブルに沿って近付いた降谷が、立ったまま髪に触れてくるのをただ見上げる。
「零くん?」
「……あの男が君の髪に触れた」
毛束をその手に掬い取って、ぽつりと呟く。最近名前の髪に触れた男といえば、話の流れ的にも一人しかいない。
「ああ、あれ? 髪の毛が服のファスナーに引っかかっちゃって。それを外してもらってただけだよ」
事実をそのまま伝えたというのに、手にした髪を伏し目がちに見つめる降谷の表情は曇ったまま。
「零くん…?」
一体、今度は何が彼の機嫌を損ねたというのだろう。
重い空気を中和すべく「おーい」とあえて軽いトーンで手を振ると、そこでようやく表情を緩めた降谷が盛大なため息をついた。
「全く……」
「わっ」
後頭部に手が回り、そのままぐっと引き寄せられる。危うく椅子から滑り落ちそうになって慌てて下半身に力をこめた。
視界は真っ白。降谷が着ているシャツの色だ。そして頭部に温かな呼気を感じたかと思えば、すうっと長く吸い込む音がして目を丸くする。これは吸われている。完全に。
猫の姿だったらまだわかる。猫吸いという言葉があるくらいだ、まだわかる。しかし女の頭部なんて吸って一体なんになるというのか――と疑問に思った名前だったが、そういえば高専時代も五条や夏油によく吸われていたんだった。もう何もわからない。
はあ、と再び温かな呼気を感じたかと思えば、降谷がそのままの体勢で口を開いた。
「今の関係のままで君を繋ぎ止めておけるのか、いよいよ不安になってきた」
「え」
「自分の発言を撤回したくなったのなんて何年ぶりだ……」
発言の意味がすぐにわからず、名前はパチパチと目を瞬かせた。それから時間差でじわじわと首や頬のあたりが熱くなってきて、「それって」と小さく呟く。
そういう存在は作れないとか、待っていてほしいとか、けじめだとか、脳裏に蘇るのは降谷に言われた言葉の数々だ。二人の関係が中途半端なのは全て彼の都合によるものだというのに、またそうやって心を乱してくるのだから始末に負えない。
名前はどうしたらいいかわからなくなって、縋るように降谷のシャツをきゅっと掴んだ。
「……ほら、すぐそうやって男を煽る」
「えっ」
パッと離した手を即座に掴む褐色の手。名前の両手首を掴んだまま、降谷は覗き込むようにして視線を合わせてきた。目が据わっている。
「他でやってないだろうな」
「……煽られた…の?今ので?」
「少なくとも僕は」
それは零くんが拗らせすぎなだけでは、という言葉はすんでのところで吞み込んだ。
「君は自分に向けられる好意に鈍感だから心配だ」
「好意って、昴くんはそんなんじゃ」
「昴くん、ね」
はっきりと区切るように言いながら、灰青色の瞳がすうっと細くなる。優しい安室透の時とは迫力が段違いである。
飲み友達くらいでそんなに悶々とするなら、しがらみなんて無視してさっさと付き合ってしまえばいいのに――とは言えなかった。正直なところめちゃくちゃ思ってはいるが、それだけは口が裂けても言えそうにない。
自身もしがらみの多い、ある意味しがらみしかない世界で生きてきた。降谷の仕事の全てを理解しているわけではないものの、潜入捜査官である彼の双肩にのしかかっているもの、その大きさと重さくらいなら想像はつく。
だからこそ何を言えばいいかわからず言葉を探す名前に、何度目かの溜息が聞こえてきた。
「……ごめん、ただの嫉妬だ」
珍しく弱気な表情に胸がぎゅっと苦しくなる。そんな名前をよそに、謝ったはずの降谷がジト目で「というか」と追撃を加えてきた。
「君からのボディタッチもあっただろ、あの日」
「え、あった?」
「二の腕つんつんしてただろ」
「つんつん……あー、上腕三頭筋」
そういえばつんつんした、と思い出す。視線を感じたとは思ったが、やっぱり見られていたらしい。
「ごめん、いい筋肉がそこにあったから」
「僕だって鍛えてる」
「知ってるけど」
「君なら腹筋でも大腿筋でも好きに触ってくれていいのに」
「いや大腿はちょっと」
太ももを嬉しそうにまさぐる自分の姿を想像して首を振る名前。降谷はその反応をあっさりスルーし、両腕を広げて仁王立ちしてみせた。
「ほら、お好きにどうぞ」
「うっ」
シャツ越しにでもわかるほど鍛え抜かれた肉体に目が眩む。着痩せするタイプではあるが、なんせ均整がとれすぎていて欠点が見当たらない。そして褐色肌と白シャツのコントラストは最早卑怯だ。
「いや、あの、ありがたいけど……」
名前は歯切れ悪く口ごもった。なんだろう、鳩尾のあたりがやけにソワソワする。沖矢に対しては感じない羞恥や緊張が湧き起こって、とにかくものすごくソワソワする。
照れもなくその腹筋をつついていた学生時代に戻りたいとさえ思いながら、名前は視線をうろうろと彷徨わせた。
「どうした?」
「……えっと、うん…。なんか恥ずかしい、から……やめとく」
「ん゙」
「え?」
何かを堪えるように眉根を寄せ、瞼と口をキュッと閉じた降谷。
「零くん?」
「ハァ……」
へなへなと脱力してしゃがみ込んだ降谷から、「ここに来て照れるのはずるい」とか「くそ、可愛い」とか、何やら忌々しげな呟きが聞こえてくる。
その内容を気恥ずかしく思うより先に、この男の情緒は大丈夫だろうか……といっそ心配になる名前だった。
***
ディスプレイに映し出されているのは、見るからに飲み会の終盤を思わせる雑多な光景だ。
そこに、消音にしているにもかかわらず今にも声が聞こえてきそうなほど大袈裟なジェスチャーで、長身の男がにゅっと登場する。言わずもがな五条悟である。
座敷の隅で丸くなる名前にちょっかいを出しつつ、デザートのプリンの登場とともにあっさり画角から消える自由人、五条。続いて画面に映り込んだのは、毎回酔った名前を連れて帰る役回りの苦労人――七海建斗だ。
思わず指先が画面中央をタップして、動画を止めた。呆れたように、それでいて慈しむように名前を見下ろすその表情を、これまでに何度見返したかわからない。
(好意に鈍感、かぁ)
思い出すのは先日降谷に言われた不名誉な言葉。自分に向けられる好意に鈍感だなんて、そんな少女漫画の無自覚ヒロインみたいな評価は断固拒否したいところだ。
それでも、こんなにも優しい表情で七海に見つめられた記憶は一度もないし、それが鈍感ゆえに気付けなかっただけと言われればぐうの音も出ない。
(昴くんからの好意は自信を持って否定できるけど)
そこについては単に降谷が拗らせすぎであると名前は確信していた。
(……この辺、そろそろバックアップ取らなきゃなぁ)
名前が何とはなしに眺めているのは、もう決して増えることのないフォルダの中身だ。画像や動画が保存されているのはスマホに差し込まれているmicroSDカードのみ。あちらで使っていたクラウドサービスも今は使えない。
(クレジットカードが作れないからクラウドは無理だし……予備のSDか、ノート買って外付けのHDDとか)
考えながら遡れば遡るほど、そこに映る面々が若返っていく。名前はハンバーガーにかぶりつきながらこちらに笑いかける灰原の画像で手を止めた。夜蛾も七海も灰原も、たとえ向こうに戻ったとしても二度と会うことはできない。今手の中にある思い出を、大事に握り締めていくしかないのだ。
過去を振り返るのを一旦やめて、名前は少し冷めたコーヒーを口内に流し込んだ。
(次の休みにでも買い物行こ)
そう決めた時、特に意識していなかったカウンター越しの会話が自然と耳に入ってきた。
「オールド・イングリッシュ・シープドッグ特有のふさふさの白い毛は、泥と汚れでべったりとしておまけに首輪も取れてしまっていた。あれじゃあ見分けがつかなくても仕方ありません」
淀みなく滑らかな口調で語るのは安室透だ。名前がいるのは客入りのピークを過ぎた喫茶ポアロ。カウンター席に座る名前のほかは、常連と思われる女性達がテーブル席を二つ分くっつけて談笑しているのみだ。
オールド・イン…何? と心の中で首を傾げた名前だったが、どうやら真っ白な迷い犬が泥で真っ黒に汚れ、全く似ても似つかない姿で常連客の女性の庭で餌をもらっていたところを保護したという話らしい。
迷い犬の捜索と保護なんて、公安の仕事でもなければ喫茶店アルバイトの仕事でもないと思うのだが、多忙の身で一体いつの間にそんなことを。名前はスマホの画面をネットニュースに切り替えながら、感心半分、呆れ半分でその会話に耳を傾けた。
「さすが安室さん!よく気が付きましたね」
「梓さんのおかげですよ。以前、雨の日は髪がうねって大変だと話してくれたでしょう」
そこにすかさず常連客の一人が「梓ちゃんも?」と割って入り、そこからは女性陣のヘアケア談義へ。雨の日に髪がごわつくとか、髪の傷みには和食がいいとか、女性の髪の悩みはどんな世界でも変わらないらしい。
名前は美容にうるさい先輩を思い出しながら、背後の常連客たちに倣って毛先を眺めた。あ、枝毛発見。
(そろそろ切ってもらおうかな)
もちろんカウンターの向こう側にいる男に、である。今こそまた髪を切ってくれるという約束を果たしてもらう時だ。
「そういえば、名前さんの髪ってすごく綺麗ですよね!」
「えっ?」
「何か特別なケアとかしてるんですか?」
梓の声に振り向けば、テーブル席には目を輝かせながら名前の返答を待つ女性陣の姿がある。突然会話に参加することになってしまって一瞬たじろいだ名前だったが、頭の中はどう答えるべきかとフル回転中だ。
そしてもちろん、「術式の影響で肌も髪もトラブルが少なくて、先輩には「存在自体がオーガニック」とか言われてました」なんて言えるはずもなく――
「えっと……ヘアオイルだけはちょっといいの使ってる…かな?」
「へー!」
「やっぱりお金かけないとよねぇ」
純粋な反応に心が痛む。
「あーでもほら、さっき枝毛見つけちゃって。やっぱり傷んだら切るのが一番手っ取り早いよね」
そう続ければ「確かに」といくつもの頷きが返ってくる。
ちなみにカウンター内のサラスト男は(女性は大変だな…)とでも思っていそうな顔で苦笑していた。他人事極まっている。
「ハッ、切るといえば…!」
そこに雷にでも打たれたかのような表情を浮かべ、足早に名前へと近付く梓。神妙な面持ちで耳打ちされたのは案の定「また安室さんに切ってもらったらどうですか?」。
いつもの名前なら笑って誤魔化すところだが、今回に限っては全面同意の姿勢だ。しかしながら、「何々?」と首を傾げる女性達に「ふっふっふ…」と妙に自慢げに笑った後、「名前さん、安室さんに髪切ってもらったことがあるんですよ!」と結局フルオープンで明かしたのはいただけなかった。
「えー! いいなぁ!」
「安室さんは本当に器用ねぇ」
声の高さがワントーン上がった彼女らの周囲に、心なしかピンク系のオーラが立ち込めているように見える。
「あの、それは私の髪が諸事情で一部ガタガタになってたからで」
安室さんはそれを整えてくれただけで、と伝えても状況に変化はなし。乙女パワーってすごい。
スーツ姿の女性が「私もお願いできませんか?」と両手を合わせれば、他人事顔で見守っていた安室が「まいったな」と頭を掻いた。
「プロにお任せした方がいいと思いますが」
「でも安室さんならサラッとこなしちゃいそうです」
「しかし無免許での散髪行為は、相手が知人であっても“業”と見做されてしまえば違法ですから……」
もちろん、それで取り締まられる可能性は限りなく低いですが。そう続けながら、安室はカウンターテーブルに手を伸ばした。カチャ、と音を立てて下げられる名前のカップ。どうやらコーヒーのおかわりを注いでくれるらしい。
そんななんてことのない動作の中で、男はごく自然に爆弾を投下する。
「ただ、僕はあくまでも素人ですし……ここは名前さん専属ということにしておいてください」
さらりと吐いたセリフから特大の匂わせを察知したのは名前だけではないだろう。あろうことかパチンと完璧なウィンクまで添えやがったのだから尚更である。
「! ちょっ、安室さ、」
「え、二人ってもしかしてそういう…!?」
「あらいいわねぇ」
乙女勢のパワーに押されて名前の声は届かない。安室をキッと睨みつけても、「はは…失言でした?」と頬をポリポリ掻く姿が可愛いだけだった。
もちろんうっかり失言なんて、この男に限ってあるわけがない。わざとである。となるとこれは周囲からの囲い込みが目的。全て終わるまで安室透と付き合っておくという提案は以前断ったはずなのに、まだ諦めていなかったのだろうか。
(……零くんじゃなきゃ嫌だって、言ったじゃん)
内心そう不貞腐れながらも、降谷の嫉妬や執着はもちろん嬉しい名前である。追及に「そういうのじゃないですから」と慌てた様子で返しながらも、その場に漂う桃色の空気につい浮き足立ってしまっているのは否定できない。
事件と祓除続きの日々の中、こういうガールズトークとか世間話とかいうものは平和を感じさせてくれる貴重な時間なのだ。
そして、この時の名前はすっかり忘れてしまっていた。この魔都東京において、平和なんてものはただのフラグに過ぎないのだということを。
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