※後日談

「お疲れ様。じゃ、私はこれで帰るよ」
「お疲れ様でした、降谷さん」

部下と別れ、深夜の路地裏を一人歩く。

(あー、走った。あっつい)

思いがけず暗闇の中を疾走する羽目になったこともあり、名前の額にはじわりと汗が滲んでいた。

コートを脱いでシャツのボタンをいくつか外し、手でパタパタと扇いで暑さを誤魔化す。
いっそのことスーツのジャケットも脱いでしまいたいが、荷物が増えるのも面倒だった。

(車から結構離れた気がする……ここどの辺だろう)

いくら深夜と言えど大通りを素顔で歩くのは躊躇われるため、できれば路地裏で上手くショートカットしながら車まで戻りたいところだ。
名前は現在地を確認するため、スマートフォンを取り出した。と、背後から伸びた手に口元を押さえられ、何者かに抱きすくめられる。

「!」

名前は瞬時に視線を落とし、そこに見えた足らしき影に向かってパンプスのヒールを力任せに落とした。

「………ッ!」

背後の人間が息を呑むが、手が外れるには至らない。名前はそのままヒールをゴリッとめり込ませつつ、自由な腕を振り上げて背後に肘鉄を叩き込む。
脇腹辺りに上手く入った手応えがあり、低く呻くような声が聞こえて拘束が緩んだ。

バッと振り返った名前は、スマートフォンのバックライトで背後を照らす。
そしてそこに浮かび上がった顔に、彼女は珍しく目を丸くした。

「え……!?」

苦痛に歪む顔が、光の当たる範囲からふっと消える。名前が画面を下に向け直すと、蹲って脇腹と足を押さえた男が「いってぇぇ…」と震える声を絞り出していた。

「……大丈夫?研二くん」
「いや、だいじょばねーから、マジで……」
「えっと…ごめんね?つい咄嗟に」

反射で謝ってから、名前はそもそも被害者は自分であることに思い至る。

「ていうか何してるの?」

落ちてしまったコートを拾ってから、しゃがみ込んで萩原と目線の高さを合わせる。
萩原は痛みを逃がすように脇腹と足をさすりながら、息も絶え絶えに話し始めた。

「今、ブルーパロットで伊達と松田と飲んでんの……。んで煙草買いに出た帰りに名前さん見かけたから、ちょっとビックリさせてやろーと思って」
「子供か」

どう考えても自業自得である。

「そっか。ここブルーパロットの近くか」

名前はしゃがんだまま、暗闇に慣れた目で辺りを見渡した。
ここは彼らがまだ警察学校にいた頃、ブルーパロットから仕事に戻った名前を零が追ってきたあの路地らしい。

「ああーいってぇ……。これ、絶対痣になってるわ。特に足」
「だからごめん…って謝るのもなんか釈然としないんだけど」

半目で見つめる名前に萩原が顔を上げ、「俺、いいこと思いついちゃった」と笑みを浮かべた。

「怪我のお詫びに名前さんも付き合ってよ、飲み会」
「お詫びっていう表現がそもそも」
「いいからいいから」

足の痛みはどこへやら、名前の手を取って萩原が立ち上がる。

「いや、所属から何まで全部話したよね?この前」
「聞いたけど?」
「じゃあ無理なのもわかるでしょ」

名前が過去に戻って彼らを助けたこと、そして彼女の所属が公安であること。その全てを吐かされたのはもう何ヶ月も前の話だ。
こうして顔を合わせてしまったこと自体「やってしまった」と思っているのに、飲み会に参加だなんて言語道断だ、と名前は手を振り払おうとした。しかし萩原がそれを許さない。

「まーいいじゃん、名前さん警視だし。課長とか理事とか階級変わんないっしょ」
「……階級と役職は違うからね?」
「名前さんがいれば降谷と諸伏も呼べるし」
「無視か」
「俺らが揃ってるとこ見るの好きでしょ、名前さん」

そのためにずっと頑張ってたんだもんな?と笑顔で首を傾げられ、名前は思いっきり眉根を寄せてみせた。

「本当にタチの悪い男だよね、研二くん…」

嫌そうな顔を隠しもせずにそう言えば、彼は「そりゃどうも」とニッコリ笑う。
名前の手を引いて暗い路地を出る萩原に、彼女はついに抵抗を諦めたのだった。




***




特別ゲストだと言って萩原が名前を店に連れ込むと、そこにいた松田と伊達は目をひん剥くほど驚いた。
そして名前もまた、彼らが三人でブルーパロットを貸し切りにしていることに驚いていた。

「いやなんで貸し切り?」
「ボーナス出たっしょ?ちょっとパーッと使おうと思って」
「俺は完全に巻き込まれたぜ……」

家庭持ちの伊達はこんな無茶な金の使い方望んでいなかっただろう。全く気の毒である。
ちなみに少人数での貸し切りということで、店内に女性バーテンダーの姿はない。老齢の店主一人で回しているようだ。

「飲み方が破滅的すぎるでしょ、君たち」
「いーじゃん、たまにはさ」
「ちょうどこれからビリヤードするとこ。名前さんもやろうぜ」
「あ、うん」

立ち上がってビリヤード台に向かう松田についていこうとすると、「ちょっと待った!」と萩原が名前を引き留めた。

「残り二人も呼んでくれねーと」
「え、それ本気だったの?」
「当たり前ー」

えー、と名前は不満げな表情を浮かべる。

「自分の失態教えるの嫌なんだけど…」

萩原に捕まったことは間違いなく失態だ。できれば軽く付き合って零には知られないうちに帰りたかった。

「いい加減諦めろって。ほら、せっかくまた同期が集まるチャンスじゃん」
「あーそれ俺も賛成。ゼロにはビリヤードで勝ち越されてるし、リベンジしねーとな」

キューをトンと肩に当てた松田が追い打ちをかける。

「う……」
「俺からも頼むわ、名前さん。こんな機会なかなかねぇしよ」

ポン、と名前の肩に手を乗せたのは伊達だ。真面目な男だと思っていたのに。
というか彼の場合は名前を道連れにしようとしている気がする。

名前は仕方なく、長いため息をついてからスマートフォンを取り出した。
発信ボタンをタップして耳に当てるが、出てほしくない時に限って早々に出るのはもはやお約束なのだろう。聞き慣れた声に思わずまたため息が漏れる。

『名前さん?』
「あの、零くん。今からヒロくんと一緒にブルーパロットに来れる?」
『え?ああ、別に大丈夫だけど。……何かあったのか?』

すっかり諦めの境地に達した名前が「研二くんたちに捕まっちゃった」と正直に話すと、たっぷり数秒の沈黙が流れた。

『...……え?』
「ごめんね」

これ、バレたら立場的に自分が全ての責任を被るんだろうな。と、名前は遠い目をしながら通話を終えた。




***




「うわ、本当にみんな揃ってる」
「貸し切りなのも本当だったか……」

深夜にもかかわらず、零と諸伏は早々に現れた。二人とも私服なのでスーツ姿の名前だけが浮いている。
しかしそれが警察学校時代にみんなでここに来た時のようで、名前はなんとも複雑な気持ちになった。

「おっしゃ、揃った!」
「乾杯し直そーぜ」

ビリヤードをしながら待っていた面々も、思いがけず揃った顔ぶれに嬉しそうな表情を浮かべている。
全員にグラスが行き届いたところで、伊達班長の「乾杯」を合図にそれぞれグラスを触れ合わせた。

「いやー、これで一人頭の支払いが安くなるなー」
「え、そこなの?研二くん」

なんなら全額払うから帰らせてほしいところだ。そんな名前の心情を読んだのか、彼は「帰さねーよ」と可笑しそうに笑った。

「おし、ゼロ。ビリヤードすんぞ」
「いいけど、今僕が勝ち越してるよな?」
「いらんとこ覚えてんじゃねーよ」

松田と零がビリヤード台に向かい、それに萩原と諸伏が「俺も俺も」とついていく。

「伊達くんは大丈夫なの?奥さん」
「あー、あいつら「ボーナスだ!飲むぞ!」っつってウチに直接誘いに来やがってよ」
「うわぁ」

それは彼の妻も体面上快く送り出さねばならず、今頃怒り心頭なのではないだろうか。

「帰って怒られないといいね」
「いやそれが、萩原が上手いこと説得してなぁ。機嫌よく送り出されちまったんだ」
「え」

恐るべし萩原研二。彼の人当たりの良さは相手が人妻だろうと関係なく有効らしい。

「研二くん、爆処より交渉人向きじゃ…?」
「ははっ、そうかもな」

伊達が豪快な笑い声を上げたところで、名前のポケットでスマートフォンが震える。バイブの長さ的に電話のようだ。

「こんな時間に……あ」
「どうした?」

ディスプレイに表示された名前を見て、名前は素早く思考を巡らせる。
こんな時間に外に出て目立つよりは、事情を知る者ばかりのこの場で済ませた方が得策かもしれない。

「ちょっとごめんね」

伊達に一言断って、電話に出る。

「あっ、もしもしー」

突然別人の声で話し始めた名前に、隣に座る伊達がぎょっとした。ビリヤード台を囲む四人も手を止めて振り返る。

「こんな時間になんですか?え、私?私は今友達と遊んでて……もー、男の人じゃないですよぉ!明日のことですよね?わかってますから!練習もバッチリなので心配しないでくださーい」

それから一言二言交わして「おやすみなさーい」と電話を切った名前に、諸伏がおそるおそる話しかける。

「えーと、名前さん?今のは?」
「仕事の電話」
「どこが!?」

素早いリアクションに思わずふふっと笑みが零れた。

「すげー、声変えられるのホントだったんだ名前さん」
「……完全に別人だったぞ?今の」

隣で聞いていた伊達は完全に呆気に取られている。

「つか今の喋り方なんだよ?」

半目で問いかけてきた松田に、名前は答えられる範囲でならいいかと考えた。

「今潜入先で地下アイドルやってるの」
「は?」
「明日もライブだから今のはその確認。たまに前触れなく辞める子がいるからマメに連絡が来るんだよね」
「えっ、ガチなの?」
「ガチだよ。仕事だもん」

仕事以外でするか、とぼやいたところで、零が一言も発していないことに気付く。

(……あれ?)

零はいつも通りの表情に見えるが、どこか威圧感がある気がする。

「零くん?」
「ん?」

名前を呼べば微笑むが、やっぱり威圧感がある気がする。

「どうかしたの?」
「ああ、名前さんがアイドルをしているとまでは聞いてないと思って」
「えっ」

いやいつも聞かないし、言わないじゃん?という反論がすぐそこまで出かかるが、なんとも言えない威圧感に口を閉ざす。

「いや、そもそも三十路超えのアイドルに誰かツッコめよ」
「陣平ちゃん、よくこの雰囲気に入っていけるよな?」

アイドルといっても、歌って踊れるOLがコンセプトのグループだ。スカートとはいえスーツだからそこまで違和感はないはず。
しかしそこまで説明してしまえばグループ名まで特定されかねないので、名前は松田のツッコミに苦笑するしかなかった。

(いや、特定も時間の問題だな)

威圧感のある笑みを浮かべたままの零は、明日がライブという情報だけで特定してみせそうである。今日は厄日かな、と名前は心の中で頭を抱えた。



そして結局、名前を交えた同期会はブルーパロットの閉店時間まで続いた。
帰り際に「名前さんの力で定期的に開催しよう」と爆弾を落とした萩原を「力なんてないから」と全力で止めつつ、車の回収を諦めた名前は零とタクシーで帰路につく。

「そういえば名前さん、朝まで飲んでライブは大丈夫なのか?」
「……出なくて済むように、ライブの開始時間までに全力で仕事終わらせます」
「そっか。それを聞いて安心した」

ふっと威圧感が消えたのが逆に怖い。

(このまま徹夜か。やっぱり厄日だ)

内心で嘆息しつつ、隣に座る零を横目でこっそり確認する。

深夜に突然呼び出されて、しかもその場にいたのは立場的に軽々しく会うわけにもいかない同期たちだ。
彼もきっと複雑な心境だろうが、見た限りでは穏やかで満ち足りた表情をしている。

(定期開催かあ……)

立場を考えろと止める声と、夫の喜ぶ姿が見たいだろと囁く声が脳内でせめぎ合う。
それでもなんとなく、勝敗の結果は見えている気がした。


prevnext

back