それは、いつもとは違う始まりだった。
メリメリと何かが軋む音がして、結は目を開けると同時にベッドから飛び退く。
足先が床に触れた次の瞬間、窓際に置かれているベッドを真っ二つに切断するようにして―――部屋が縦にスライスされた。
「……はあッ!?」
感情を抑えることに慣れた彼女も、これにはただ目を見開くしかない。
零と二人だけのヒーロー事務所を構えて数年。昨夜は零の帰りが遅くなるからと、結は自室で先に就寝していた。
彼に倣って薄着で寝るのが習慣になっていた結だが、少し肌寒いからと昨夜に限って部屋着を着ていたのは不幸中の幸いとしか言えないだろう。
今、窓も壁もなくなったことで、マンションの外から室内が丸見えなのだから。
「零くん、いる!?」
「います!」
叫べば隣室から零の声が返ってくる。彼も無事、謎の"切断"を避けられたようだ。
風通しのよくなった部屋からひょこっと隣を覗き込めば、いつも下着だけで寝る彼もちゃんと部屋着を着ているのが見えて結は安心した。
「結さん、これは一体……」
「また飛んじゃったみたいだけど、いつにもまして変な世界だね」
マンションはどうやら上から下まで綺麗にスライスされたようだ。外界は霧深く、ビルの間を異形が飛び交っている。
そもそもまだマンションを"切断"した犯人もわからないのだ。ここに留まるのも危険だろう。
「とりあえず外に……」
「! 結さん!」
零の声に振り返ろうとした次の瞬間には、結はマンションを遥か下方に見下ろすほどの上空にいた。
「え、」
彼女の体に絡みついているのはヌルヌルとした気味の悪い触手だ。抜け出そうとしても手が滑り、思うように力が籠められない。
「くそっ……零くーん!また後でー!」
とりあえずどんな攻撃にも耐えられるよう全力で"練"をし、米粒ほどのサイズになってしまった零に向けて大声で叫んだ。
直後、今度はものすごい勢いで体が降下する。振り上げられた触手が元の場所に戻ろうとしているようだ。
(あー、バッグを持って来れなかったのは痛いなぁ)
自室には念で内部を拡張したバッグがいくつか常備されている。そのうち一個でも持ち出せれば食料にも武器にも困らなかったのに。
どうにもならないことを考えながら、結の体は柔らかく湿った暗闇へと飲み込まれた。
***
レオナルド・ウォッチにとって、その日はトラブルとトラブルが粗潰しのスムージーにされたような、要するにいつもと変わりのない日常だった。
朝イチで事務所に呼び出されてなんやかんやあって義眼を酷使し、その時のダメージを少し引き摺ってはいるものの、それだっていつも通りといえばいつも通りである。
それなのに。
「ちょっ……勘弁してくれって!臭いし暑いし気持ち悪い!そして動けないっ!」
道を歩いていて突然ヌルヌルの触手に拉致されたと思えばこれだ。
柔らかくて湿っていて薄暗い空間に放り投げられたと思えば、肉壁のようなものがミチミチと纏わりついてあっという間に動けなくなってしまった。
「つーかこれもしかしなくてもなんかの体内じゃん!?気持ちわりーッ!」
誰かに連絡を取りたくても、身動きが取れなくてはどうにもならない。
そうして情けなく叫び続けるだけの彼の視界に、突如眩いばかりの光が差した。
「うわっ!?」
どうやらそれは肉壁の隙間から差し込んだ外の光だったらしい。
そこからペッと何かが放り込まれて、隙間はまたすぐに閉じてしまった。
(……っ、なんだこれ!?)
放り込まれた"それ"を認識した途端、レオナルドの体にぞわりと怖気が走る。
それはまるで極寒の地を裸で歩かされているような気分だった。
「う、気持ちわる……」
もぞもぞと動いたそれが発したのは、女性の声だ。
「あ、あの……」
「え?あ、人がいる」
顔を上げたのは人間の女性だ。女性がこちらに視線を向けた瞬間、嫌な寒気がふっと霧散する。
「え、あれ?」
「ごめんなさい、ビックリさせちゃった」
どうやら寒気の原因は彼女だったらしい。
「"練"意味なかったな、このヌルヌル……」
「え?」
「あ、ううん。君大丈夫?」
どう見ても大丈夫じゃないだろう、と体のほとんどが肉壁に埋まった自分を憐れみつつ、レオナルドは「動けません」と端的に答えた。
「だよね。とりあえず出ようか」
「は?」
そういえば自分はここに来てすぐ肉壁に取り込まれたのに、彼女はなぜ無事なのだろうかとレオナルドは思った。
そして彼の持つ目が、その理由を即座に、かつ正確に捉えた。
―――この人、全部防いでるだけだ。
人体を取り込まんと動く肉壁を、彼女は常人であれば見切れないほどに素早い動きで捌いている。手刀で切り落とし、強靭な指先で千切り、もぎ取り、たとえ取り込まれかけても手足の力だけで抜け出しているのだ。
そうやってレオナルドの近くまで来た彼女が、彼に向かってニッコリと笑いかけた。
「一緒に出よう。おいで」
その言葉をレオナルドが認識するより早く、彼を取り込んでいた肉壁が瞬時に霧散する。そして勢い余ってよろめいた体を彼女は危なげなく受け止めた。
(……え、女神…?)
レオナルドの目には、彼女がまさにそう見えていた。
女性は安心させるように柔らかく微笑んで、「行くよ」と彼の手を引く。
「……あっ、待ってください!他にも取り込まれてる人がたくさんいて」
レオナルドはかろうじて頭部が出ていたが、全身を取り込まれてしまった人が他にも多数いるのが彼には"見える"。
この肉塊のような生き物はかなり大きく、人々はそのあちこちに取り込まれているようだ。
「ふうん……君、いい目をしてるね」
見透かすように目を細め、女性は問答無用と言わんばかりにレオナルドを自分の背中に放り投げた。
「えっ!?」
「首に掴まってて」
そして彼女は肉壁に向かって足を振り上げると、凄まじい力でそこを蹴り抜いた。湿った肉片が飛び散る様がなんともグロテスクである。
外に飛び出した途端一気に増した眩しさに、レオナルドは思わず瞼にギュッと力を籠めた。
「どこに人がいるか見える?」
その言葉に薄く目を開けば、彼の目には肉壁に浮き上がるかのように鮮明なシルエットがいくつも見えた。
「二時の方向、浅い場所に一人とその少し奥にもう一人います!」
「了解」
彼女は指示通りの場所にズボッと手を突っ込んでは中の者を引っ張り上げ、両手に一人ずつ抱えたところで大きく跳躍して地面に下ろした。
どうやら「永遠の虚」に近い場所まで来ていたようで、辺りは霧が深く立ち込めている。
拉致されて埋められていたのは人類―――いわゆるヒューマーだけではなかったらしく、様々な種族が次々に救出される。
そしてついに肉塊本体が二人の動きに気付いたらしく、ムチのようにしなった触手が肉塊の中段辺りに立つ二人めがけて高速で向かってきた。
「わっ、やべ!」
レオナルドが強くしがみつくと同時に彼女の体にグッと力が入る。しかし退避するより早く、二人の目の前を灼熱の炎が通り過ぎた。
「えっ?」
「おーい無事か陰毛!」
「ザップさん!」
聞き慣れた声に地上を見下ろせば、そこには同僚であるザップの姿があった。その傍らにはクラウスやスティーブン、ツェッドの姿もあり、さらに。
「あれ?ザップさんが二人……」
銀髪と金髪という違いはあるが、ザップによく似た男がライブラの面々とともに立っている。長身で肌は浅黒く、距離があってもレオナルドにはその目尻がザップのように―――もとい、ザップより数段柔らかく垂れているのがよく見えた。
「結さん!」
ザップ似の男が声を張り上げると同時に右腕を大きく振りかぶり、その直後、何かが猛スピードでこちらへと飛んできた。
結と呼ばれたのはレオナルドが背中にへばりついている黒髪の女性だ。彼女はキャッチしたもの―――ウエストポーチのようだ―――を腰に装着すると、「ありがとう、零くん!」と叫んで返した。
そこからは怒涛の展開だった。
同僚たちによる容赦のない攻撃が肉塊を襲い、物理的に質量を削いでいく。
レオナルドは女性とともに地上に降りてスティーブンの端的な説明を受けつつ、未回収の被害者の居場所を共有した。
巨大な肉塊はどうやら生き物を取り込みながら成長する種族だったようで、今回の個体はここ最近の成長スピードが異様だとライブラでも目を付けていたらしい。取り込んだ種族の特徴を反映するとあって触手が様々な形状に変異しており、鎌のような刃を携えた触手で街中を切り刻みながら移動していたということだった。
結、零と呼び合っていた二人は助け出された被害者たちを手際よく避難させている。
スティーブンいわく零とは現場に向かう途中で知り合い、その運動能力の高さに目を付けて道中はひたすら勧誘していたとのことだ。残念ながら彼が首を縦に振ることは一度もなかったらしいが。
そしてその零の働きは実に見事で、被害者にかける言葉も丁寧で紳士的だ。ザップに似ていると思ったことをレオナルドは即座に反省した。せめて「綺麗なザップさん」と例えるべきだった。綺麗なのは外見はもちろん心も含まれる。
と、その時。
「危ない!」
レオナルドが危険を知らせたのは、一人離れたところで子供たちを避難させていた結だった。そこに勢いよく迫るのは鎌のような鋭い刃を携えた触手だ。
街中を容赦なく切り刻んだというそれが彼女に迫るのをレオナルドの目は確かに捉えたが、それ以上のことは何もできない。間に合わない。
振り向いた結が子供たちを放り投げる。方向的にその先には零がいるはずだ。そして一人残った結の存在感がぶわりと増し、レオナルドの全身を再びあの寒気が駆け抜ける。
彼女が何をしたのかはレオナルドにはわからないし、目には何も映らない。彼女を無残にも二つに切り分けるはずだった鎌状の触手は、しかし硬いもの同士がぶつかるような轟音を立てて彼女を吹き飛ばした。
「あ……っ」
「結さん!」
呆けたようなレオナルドの呟きを、零の鋭い声が上塗りしていく。
体を切られずに済んだと安心したのも束の間、彼女が吹き飛ばされた先にあるのはこの街の中心にぽっかりと空いた大穴―――永遠の虚だったのだ。底なし、あるいはそれに近いと思われるその大穴に、華奢な体躯が消えていく。それは言い表しようのないほどに絶望的な光景だった。
おそらく他の同僚たちもそれを目にはしただろう。傍らのスティーブンが息を呑む気配もした。しかしその誰もが間に合いはしないことを瞬時に悟ったのだ。
受け止めた子供たちを避難させた零が穴の縁に駆け寄っても。頼れる同僚たちが巨大な肉塊の異形を倒し終えても。レオナルドはただその場に立ち尽くしたまま、結が消えた場所を呆然と見つめ続けていた。
「レオ……」
あそこに落ちてしまえばもう助けようがない。それはレオナルドの肩に手を置いたスティーブンの、諦めの滲んだ声色からもよくわかった。それでも。
「あの人、僕を助けてくれたんです。何も聞かず、何も躊躇わず」
なのに僕は。
何もできなかった自分に、力なく垂れ下がった腕がギリリと強く拳を握る。穴の底を覗き込む零の背中がやけに遠く見えた。そして、そこから目を逸らしかけた次の瞬間。
「だーーーッ!」
ブンッと空気を切り裂く音が聞こえそうなほどの勢いで、何かが永遠の虚から飛び上がってきた。
「えっ?」
「はっ?」
思わず漏れた声が傍らのスティーブンと被る。
飛び上がったそれは滞空したままブツブツと苛立たしげに呟き始めた。
「いや本当に死ぬかと思った……底があるなら着地できるけど全然
落ち切らないんだもん。これがなかったら本当に死んでた。心が死んでた」
そう言いながら片手で顔を覆っているのは間違いなく結だ。
「……魔女っ子?」
そんな呟きが漏れてしまったのも無理はないだろう。彼女は何の変哲もない箒にまたがって、空中に浮かんでいたのだから。
「零くん本当にありがとう。箒入りのバッグ持って来てくれて本当にありがとう……」
「中身はある程度把握してますから」
「え、まさかこれが入ってるって知った上で?」
「当然でしょう」
空と陸で会話していた二人だったが、結が「零くん!」と感極まった様子で下降する。そして箒をカランと地面に放ると、再び「ありがとう」と連呼しながら零に抱き着いた。
「ふむ、魔女か……」
隣からは興味津々といった声がする。この様子では二人揃って勧誘待ったなしだろう。
レオナルドは熱い抱擁を交わす男女をぼんやりと眺めながら、新たな波乱の訪れを感じていた。
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